○3年生の頃③
恩師・村上翠亭先生はこの年限りで定年退官される。私は先生から少しでも多くのものを学びたいと考えていた。そのためには、まず自分から積極的に学ぶ姿勢を示さなくてはいけないと考えた。
先生は師の桑田笹舟先生の指導を受け、仮名の料紙を自ら作られる。学生達にも料紙加工の指導をされ、料紙加工のための部屋も設け、道具類も充実していた。先輩方の中には、積極的に料紙加工に取り組まれる人も多かった。そして、自分で加工した料紙に臨書した作品は、出来合いの料紙に臨書した作品よりも高く評価されるとまことしやかに噂されていた。というか、実際そうだったらしい。
私も2年生の時に簡単な料紙加工を教わっていたが、古筆の臨書に使えるようなものではなかった。私も古筆の臨書に使えるような料紙を加工したいと考えていたところ、1学期の課題であった関戸本古今集の臨書課題が出て、その料紙の加工を、先輩のKさんが、同級生のMさんと一緒に作るという話を耳にしたので、私もまぜてもらうことになった。
Kさんはこれまでにもいろいろな料紙加工に取り組んでいたので、関戸本古今集の料紙加工くらいは簡単なものであると言っていた。ただ、関戸本古今集の場合は、紙の両面に文字を書く必要があるので、その点が少し難しいとも言っていた。
加工用の紙は先輩が厚手の雁皮紙を購入してこられ、それを適当な大きさに切ってパネルに張り、絵の具を溶いて膠液を混ぜ、まず面面、乾いたら裏面に塗り、乾燥させた後に薄くどうさを塗って出来上がり。出来上がりと言っても、絵の具やどうさが乾くのには1日かかるため、3,4日連続で作業を続けた。これをパネルから切り取り、料紙の大きさに切って出来上がり。これに関戸本古今集の指示された部分を両面書写して提出した。料紙加工を自分で行ったので、いつにない達成感があった。
2学期は秋萩帖、3学期は本阿弥切古今集を臨書したが、いずれも料紙加工は自分で行った。秋萩帖は色を塗ってどうさを塗るだけなので簡単だったが、いかんせん色が濃すぎたのがまずかった。本阿弥切は、加工用の紙の選択から自分で行ったところ、文字を書くためのものでなく、包装用の楮紙を買ってきてしまったのと、呉粉や具引きに使う雲母の溶き方を勝手に適当に行ったため、見た感じはそれらしいものができたものの、書き味は最悪の料紙になってしまった。しかも、ローラーがけして表面を平滑にすることを忘れたため、書いているうちに呉粉や雲母がぱらぱら落ちてきてしまい、机の上が白くなってしまうという有様。全くの失敗作であった。作品を評価するために、研究室のデスクで私の作品を巻舒した先生の苦笑する顔が浮かぶようであった。
でも、料紙加工することの面白さを実感したのは収穫であった。私はこの後高野切古今集の料紙を作ったり、はがきの加工をいろいろ凝ってやってみたことはあったが、私以降、料紙を自分で加工して臨書し提出するような学生がいなくなってしまったと聞いているのは残念なことである。