ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

だらだらするのも今日まで

2015-08-31 21:24:03 | 日常
無職最後の一日。
曇りでごろごろだらだら。

・・・・・

Twitterのお仲間と話していた、
大昔傷痍軍人を街中で見かけた話。
私が子供の頃、この地元にも傷痍軍人の人が駅の地下道にゴザを敷き
空き缶を置いて福助みたいにお辞儀しているのを見かけた。
片手が金属だった。
空き缶に10円玉入れようとしたら母親に物凄く叱られて引っ張られた。

「あの人は働けるのに働けないふりしてるだけだからダメ!」

第二次大戦中に出た怪我人は死人の何倍もいたに違いない。
そして復員して来た傷病兵の誰も彼も全てが
漏れなく恩給を受ける事が出来ていたかどうかはわからない。
帰って来てみたら一家離散で住処は消失して身元の特定も出来ず
恩給を受けるに必要な手続きすら出来なかった傷病兵だって
いたのではないかと思ったりする。

子供の私でもそれくらいは考たが、
地下道で土下座する傷病兵に向かって聞こえるように
「あの人は働けるのに働けないふりしてるだけだからダメ!」とは
私の母親の人間性の問題と長い間思っていたが、
Twitterのお仲間の地元でも同様だったらしい。
昭和の日本人の精神的暗黒面が垣間見えた気がする。


昨日教会の帰りに徘徊して青みかんを買った。
今の時代の青みかんて、あんまり酸っぱくなくて甘いんだな。



ええ香りやー♪


無職のだらだらのんびりもあと数時間。
明日に備えて早く寝る。

もっとちゃんと聞けばよかった

2015-08-30 22:58:29 | 日常
起きた。
水に挿したツユクサがこれから咲こうとしていたので観察。










昨日の怒りを引き摺るなと言われてもまだ残っているのか
寄せられたコメントに返信したら余計に腹が立って来たのでもうやめた。
年と共に頭に血ぃ昇り易くなったのは間違いないが、
ここの地元に住んでいれば昨日みたいなのは日常茶飯事、
怒りを引き摺っていたら身が持ちたない。
しかも以前目撃した時の記事を探そうとしたがそれも挫折したし。
この私の日記ブログ、
書いた本人にも記事を探せないほどカオスである。


日曜日だし、とりあえず教会にいく。
ちと頭冷やさないと。


8月が終わる。



空にはすじ雲。


8月の第5日曜日。
牧師先生は地方に要請されて礼拝奉仕のため留守。



主日礼拝

黙祷
招詞 詩編96;1~4
讃美歌(21) 43-3 560
聖句暗唱 コロサイ3;15
詩編交読 詩編128:1~6
祈り
讃美歌(21) 192
聖書朗読 申命記6;4~9 Ⅱテモテ3;16~17
説教
讃美歌(21) 409
献金
祈り
頌栄 28
黙祷


教会仲間が礼拝メッセージの奉仕をした。
聖書を糧として、自分が日々養われている事を思い、
小さい孫達に福音を伝えるという自分の使命を語る。

私も来月の準備をしないと。

今日は生後3ヶ月の赤ん坊と友人を連れて
地方から久しぶりに来た人もいた。

本州に転出した人から生のイチジクが送られてきて
皆で食べた。


いい天気だ。
バスを途中下車して普段行かない店で
中古DVDを漁ったがこれといって何も無かった。


帰り道、歩く。
風が暖かい。




橋の上に来た。






からオオセグロカモメの集団が
水面を行き来していたと思ったら
突然一斉に飛び立ち、一回りして結局同じ場所に降りた。
大騒ぎだ。




路肩に、朝顔が他の植物に紛れて絡み付いている。




のんびり歩いている間に結構汗が出た。
日差しは強烈。




自由時間もあと残り今日と明日しかない。
とにかく写真整理を完了してPCをすっきり軽くさせたい。


・・・・・


さっきスーパーの惣菜コーナーで
アジフライとカツどっちにするか迷ったが
今夜はおろしカツ丼に決定。
魚焼きグリルで油を落としてカリカリにして、
大根おろしと青紫蘇と牡蠣醤油をかける。



実は牡蠣醤油の残りを使い切りたかった。


・・・・・


作業の合間にTwitterを見ると、
お江戸では大規模な安保法制反対デモで人々が国会議事堂の周囲に
大勢集まっている。
若い人達だけのデモではないが、
ネットでは彼らの主張を幼稚と嗤う書き込みもよく目にした。
デモに集まる若い人達に政治思想を要求して未熟を嘲笑う人々が
実に子供のいる親だったりすると、考え込んでしまう。
嘲笑っているのはSEALDsの親の世代である。
「考えが甘い」「現実わかってない」「世間知らず」と
嘲笑う人々にとってデモに集まっているのは自分の子供の世代である。
私はそこが理解できない。
若者の未熟を嘲笑う人々が今デモに集まる若者と同じ年齢だった時に、
当時の世の中がどうだったか、
自分達がどんな若者で何していたかを考えたら嗤えない筈だ。
私もその昔若者だったが、
当時はバブルの全盛期で世の中が何もかも浮かれていた時代だった。
高校生や大学生がブラック企業に劣悪な労働環境とべらぼうな低賃金で
長時間拘束されてバイトのために単位を落とす時代が後に来るなど
誰も考えもしない時代が過去にあったのだ。
私もそうだったがバイトは学費や生活費のためというよりは、
欲しい物を買い友達とウマいものを飲み食いする小遣い稼ぎだった。
少なくともブラック企業に対し高校生が組合を結成してまでも
自分の生活と学業を守らなければならないような時代ではなかった。
「平和ボケ」という言葉は1980年前後の当時の
安穏とした若者だった私達に向けられた蔑称だったと記憶している。
その昔平和ボケと呼ばれた若者だった世代が
今の暗澹たる現実と向き合う若者を嗤えるものか。
恥ずかしくて嗤えない、私は。

安保関連法案に反対し抗議するのは
自分や我が子が戦地に行かされ無駄死にさせられると思う人々であり
推進するのは自分は戦地に行かないが卓上でゲームに勝ちたい人々だ。
卓上の駒を動かす勝ち負けとしか戦争を見ていない為政者達は
決して戦地の泥水を飲まないし、飲むつもりもないだろう。
地面の草木や生きたムカデも食べないし死体に涌いた蛆も食べない。
南の島から辛うじて生還した人からその体験を直接聞いた事があり、
随分前にこのブログに書いた事があった。
今思うと貴重な戦争体験を聞かされたと思う。
その人は食べたと言っていた。
生きたムカデも、死体に涌いた蛆も。
「ムカデは噛むでしょう?」と尋ねたらその人は淡々と私に答えた。

「相手も噛むかも知れないけどさ、
 こっちも腹へってるから噛まれる前に食ったよ。
 美味いも不味いも無いけど、まあ、マシな方だったんじゃないかな。
 一番美味しくなかったのは、蛆だね。
 死体に湧いてる蛆。」

おいしくなかったって。
あの時「僕が書いたんだ、読んでよ」って渡された本は、
忙しくてそのまんまにして結局読まなかった。
医師の誰かが医局に持って行って読んだのか、
本人が回収して退院したのだったか知らないが、
読めばよかったと思う。

戦争をやり始めて勝ち負けしか頭にない者は、
自分が戦地でムカデや死体に涌いた蛆までも食べなければならない立場に
立たされる事はないと思ってるのだと思う。
私はたまたま出会いがあって親よりも少し上の世代の人から
第二次大戦中の体験談を聞かされたが、
その後に起こったあらゆる戦争でも同様の地獄はあったであろう。

原爆にしても同様だ。
投下の直後、知らずに長崎に入った人からも
たまたま出会って体験を聞かされた事があった。
それで、この日記ブログの毎年8月9日には焼けた線路の事を考えさせられる。
爆弾を落とす命令を下した者も直接自らの手で爆弾を投下した者も
ゲームの勝ち負けにしか興味がなかった。
それは今もの為政者も同じ。

…とTwitterで仲間相手に呟いて話していたらTLが忙しくなった。
戦地で飢餓に陥り上官が部下を殺したとか草木やムカデや蛆を食べたとか、
原爆投下直後に線路の上で親が子供残して行き倒れて死んだとか、
戦時下の極貧の人々は軍の払下げの残飯を貰うために街頭に並んだとか、
そういう生々しい実体験を聞いて書いた記事に今頃驚くのか。
そんな事があったとはみたいに、まるで皆今初めて知ったみたいではないか。
当時の私もそうだったが、年寄りを疎んじてちゃんと話を聞きもしなかった。
もう一度詳しく聞きたいと思ってもご本人は既にこの世にいない。
ムカデを食べた人は私の亡父が子供だった時に
南方の前線にいた大正生まれの人であり、
母親の骸を後にして焼けた線路を辿って歩いた人も既に帰天した。
軍の残飯で生き延びた体験を書き残した牧師はとうに世を去った。
話を聞けるうちに聞かないとチャンスは永久に失われてしまう。
時間は取り返しが利かない。

この日記ブログで
戦争体験を聞くか読むかして書いた記事は多分3つだけだったと思う。

2006-07-08 『11日目をめざして歩む者』http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/66529cabfa89781771006f6315c757a4

2006-09-09 『南の島』http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/24af0a84b04985e525251f004b130f4e

2015-08-09 『8月9日、焼けた線路の事を考える』http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/4afe497643ada4a5fe141beea864f9a8

たった3つか。
たくさん記事が溜まってカオス状態なブログの割には
たった3つしか書いていなかった。
今更遅いが、もっとちゃんと聞いておけばよかったと思う。

おじいちゃん、ごめんねぇ

2015-08-29 23:58:45 | 日常
起きた。

昨日毟って持ち帰ったツユクサが開花している。
既に何個か種が付いている。




昨日睡魔に負けで出来なかった買い物と散歩をして来よう。




バスに乗って街に出る。
定期の更新。
そこからまたバスで途中まで戻る。

始発から二つ三つのバス停で、数人の乗客が乗って来て
発車しかけた所で急停止、
再び扉が開いたと思ったら怒号が聞こえた。
見ると明らかに四肢に何かの後遺症があって
乗り降りに介助と見守りの必要な老婦人が

「すみません」

と言いながらゆっくり乗って来た。
その後ろから夫と思われる高齢の男性が激怒しながら乗って来た。

「何でお前が謝るのだ!
 すみませんなどとお前が謝る必要は無い!」

男性は妻を叱りつけ、運転手に向かって激怒している。
運転手は老人には構わず無言で発車した。
男性は走行中も運転手に抗議し続ける。

「歩くのが不自由な者が後から乗ろうとしたのを
 あんたは見ていただろう!
 わざと急発進しやがって、ふざけるな!
 どういうつもりだ!
 足が不自由でテキパキ乗り込めないのを見ていただろう!
 それを何で鼻先で扉を閉めて発車した!
 どういうつもりだ、
 しかもこんな車道の離れた所で止まりやがってこのやろう!」

男性が血相変えて怒鳴り続けるので、事情がよく呑み込めなければ
この人が一見狼藉者か何かのように見えるが、そうではない。
激怒する男性の怒りは正当な怒りである。
この人は運転席から見えなかった筈のない、
体の不自由な妻のために抗議している。
無視して意地悪くバスを発車した運転手に怒っている。

つまり、先程のバス停で数人の客が乗り込んだ一番最後に
この四肢の不自由な老婦人がゆっくり乗り込もうとしたら
運転手が扉を閉めて一度発車したが、前に車がいて停止した。
夫が追い付いてバスの乗車口を叩いてインターホンで抗議、
扉を再び開けたが、路肩から離れた半端な位置に停めたため
体に不自由のある人にとっては一度歩道から車道に下りて
それから高いバスのステップによじ登らなければならなかった。

走行中、男性は猛抗議し続けるが運転手は無言でバスを走らせた。
目的地のバス停に着いたのか、老夫妻はバスを降りた。
下りる時、夫は運転手に更に抗議した。
バスの運転手は初めて口をきいた。

「おじいちゃん、ごめんねぇ。
 前に車がいてちょうどいい場所に停めれなかったんだわ」

!?
このでたらめな言い逃れは何だ。
起こった事実を捻じ曲げて見当違いな言い訳をする、
この運転手の人格は何で出来ているのだ。

言い訳にすらならない運転手の言い逃れが男性の怒りに油を注いだ。
老婦人は激高する夫をたしなめ、
足止めを食らった他の乗客に「すみません、すみません」と
頭を下げながらバスを降りた。

市内に一社しかないこのバス会社、何度かこのブログにも書いた。

 ※ぱんくず日記 2015-04-13「休日浜歩き」
  http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/ce32fa8f0cec3f72b68af911aedf5fbc
 ※ぱんくず日記 2015-03-21「春分」
  http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/cd55d93dbdfd1aa58695c9ea5b506a47

私は過去に同じような場面に出くわして何度も目撃している。
バスの走行中に運転手に話しかけるのは事故の危険性から禁忌である。
それでバス会社に電話を入れて運転手名指しで抗議した。
明らかに心身に不自由のある乗客に対し陰険で横柄な対応をしたり
乗ろうとした乗客の鼻先で扉を閉めて意地悪く発車したのを見る度に
バス会社に抗議するが、いずれの時もバス会社の電話の対応は
「はいはいあーすいません」であった。
乗客の苦情など市内に一社しかないバス会社にとっては
痛くも痒くもないのだろう。
停車中に乗客が抗議しようものなら「他の乗客に迷惑」と
言わんばかりに無視してバスを走らせ続ける。

ド僻地の、市内に一社しかない公的交通機関。
陸運支局にも同じ事で一度電話を入れた事があったが
「バスに関する苦情はバス会社へ」の一点張りで話にならなかった。
もしあの夫が誰も口を挿めないほど猛抗議しなければ、
あの老婦人は不自由な体で乗り降りに時間がかかる事を
運転手や他の乗客に気兼ねしながら鼻先で扉を閉められて
次の1時間後のバスを待つのだろうか。
きっと今までも同様の扱いをされて来たのだろうか。
そしてこれからも。

乗客からはっきり抗議されて弁解の余地の無いのが
余程気に入らないのか、運転手は続々と下りる他の乗客にも
終始無言で仏頂面をしていた。
定期を差出す時、ネームプレートを見た。
見覚えのある氏名だった。
私はこの運転手の顔を憶えていなかったが名前に記憶がある。
日時は正確には思い出せないが、
何年か前に名指しで苦情を入れた憶えがある。

最悪だ。


・・・・・


中古屋で古い白黒映画のDVDを2本買い、
その足で量販店に行って土と小さい鉢を買った。


土は5gkもあって重たいが、
いい天気だから空を見上げて歩く。














地面の草はまだ青々しているのに落ちて来る葉は赤い。






体感的には既に秋の彼岸過ぎのような気がする。
まだ8月の末なのに路肩の花は枯れ、飛ぶ虫も少ない。








普段あまり歩かない場所から自宅方向に歩いて来たら
路肩の植え込みにあの植物が。





これはノコンギクか、ヨメナか。
いやどちらでもなさそうだ。
色も形も似ているが、花弁が一重でない。


5kgは持って歩くと結構重たいな。
低い日差しが強くて汗が出て来た。




・・・・・


帰宅して、写真の整理作業を再開、あと少しで去年が終わる。
PC睨みながら先日の残りの柿の種を
全部完食してしまった。。。。。。orz
胃が痛くなるくせに。


今夜も眠りたくないのに物凄く眠い。
頭振ったら耳と鼻の穴から脳みそが流れ出てきそうなほど眠い。
ガリガリ君スイカ味を齧って眠気を払ったら震えが来た。


いやほんとにダメだわこれは。
珈琲淹れる。


今さっきTwitterのお仲間が紹介していた歌。
ずっと聴いていたい。

Sing! Day of song - Bobby McFerrin - Improvisation


聴きながら、
何処までもずっと歩きたい。

昼間から睡魔が来た

2015-08-28 23:54:52 | 日常
朝から暖房全開。
寒いだけでなく鉢植えの土が乾き易くなった。
確実に冬に向かっている。


胃がしくしく言っている。
一昨日の食い過ぎた柿の種に呪われた。


さっきガメのブログに
写真家ドン・マッコリン(Don McCullin)の写真が紹介されていて、
海神のような浮浪者のおっちゃんの写真が凄く気に入った。
こういう写真が好きだ。
父が写真好きでカメラ雑誌を買い込んでた中で育ったためか
写真を見るのが好きだ。
顔を加工した芸能人やモデルのではなくて「ただの人」の写真が。
8、9歳の時から父の『ニッコール年鑑』や写真雑誌『アサヒカメラ』を
絵本代わりに盗み見て(触ると激怒された)小学校時代を過ごした。
そこに当時の世相をそのまま焼き取った、
ビアフラの飢餓の子供や水俣で公害病に冒された人々と共に、
内乱や紛争地域で生き延びる人々の写真が載っており
私は家にいる時はよくそれらを父の眼を盗んで眺めた。
特に、ニッコールクラブ会誌の別冊だったか増刊号だったか、
土門拳の『こどもたち』という一冊の写真集は何度も手に取って見た。
終戦後の日本の子供達の写真と貧しい筑豊の子供達の写真集だった。
これらは父の遺品の中からいち早く取り出して今も大事に所持している。
「筑豊の子供たち」は、最近密林で完全版みたいなのを取り寄せた。
土門拳の写真は私の中では好き嫌いの領域を超えている。
そればかり絵本代わりに眺めて育つとそういうものかも知れない。
土門拳の他には、長倉洋海さんの写真が好きだ。
長倉さんは戦地の写真を撮っている人であるが、
私はエルサルバドルの貧しい老農夫が一杯の珈琲を大切に
手の中で温めている白黒写真に惚れた。


あーあ。
またもキュウリが1/3液状化してしまった。
ゴミの日なので回収車が来るまでに調理するものはして出せる生ごみを出す。
液状化した1/3を切り落としたキュウリをどうしたものか考えたが、
カッパサンドよりも冷やし中華が望ましいかな。


コンビニに行く。
ゴミも出した。



外はそれほど寒くない。
風も生暖かい。






少し前に草刈りで駆除されたツユクサが一部生き延びていた。
そうか、ランナーがある植物だから
毟られても他の場所から再び芽を出すのだ。



数本持ち帰った。
花が終わって種が付いている。
収穫して植えてみるか。
このまま根を出させて鉢に植えたたらどうだろう。


・・・・・


ダメだまだ日も沈んでいないのに眠い。
量販店に滅菌土と安売りのDVD1枚買いに行きたいのに眠くて行けない。
ダメだ。
明日にしよう。


・・・・・


何時だ。
真っ暗。
何でかわからないが日没前に強烈な眠気が襲ってきたのだった。
起きる。


昨日買って来た黒ブドウのキャンベル、
皮をガジガジ噛んで酸味と渋を楽しんでいる。




夜はまだこれから。

ちょっと空が変

2015-08-27 23:30:06 | 日常
朝起きて寒かったので午前中がっちり湯に浸かって
それから食事や洗い物をしていたら時間ぎりぎりになってしまった。




午後から教会に行く。
実働始まるまでに今日を入れてあと5日、
来月から週日の昼間は勤務なので教会の聖書研究会も今日まで。




聖書はピレモン書の冒頭部分。
約2000年前の個人的な書簡。
個人の私的な手紙を新約聖書の正典に含めるかどうかで
長い歴史の間に議論もあったらしい。
自分が個人に宛てて書き送った手紙が
2000年後に全世界で読まれているとはパウロもびっくりであろう。(笑
迫害と戦禍を潜り抜けて1冊の書物となって、
今我々がこうして手している事そのものが一つの大きな奇跡ではないか。


教会の近くのスーパーで黒ブドウのキャンベルを買って来た。
中に種があって、皮を噛むと甘味と酸味と渋みが出て来る。
種と酸味のために敬遠されるのか、うちの近所にあまり売っていない。
入荷しても時期の遅い甘ったるくなった頃に
投げ売りみたいな値段で出回る。
私は出初めの酸っぱいのが好きなので今の時期に食べる。


バス降りた。
今日は、空が何だかおかしい。








帰宅して、写真整理の続き。
昨日一日中ヴァルヒャのバッハオルガン全集を聴いて6枚目で挫折、
今日は朝からケニー・ドーハムをずっと聴いている。
ずっと聴いていたい音。


舌の脇に口内炎が出来た。(痛
食べているもののバランスが悪いのかな。
今日は忙しかったのでもう眠くくなってきたし。
洗濯機が終わるのを待っている。zzz
眠い。
私の脳みそがもう午前0時だから早く寝ろと警告している。(20:14)


Twitterでお仲間の方と世相の話をしてちょっとだけ目が覚めた。

今、お仲間の皆様も私もその他の皆様も、
こうして安穏とネットを見ているけど、
たとえ戦争も恐慌も災害も何も起こらなくても、
間もなくそれどころでなくなると私は思っている。
介護難民、医療難民は危機感と共に話題になるけど、
実は我々はもう既に難民になっていると思う。
年寄だけの話ではなく。
世の中のいろんなツケが溜まりに溜まって
最終的に病人と老人と子供に皺寄せが来ているのはよく言われている。
老人と病人と子供。
金があっても通用しない。
世話をする職種で働く人間が絶望的に少ないから。
金を出してもいないものはいない。
のっぴきならないところまで来てると思う。
悲観主義ではなく、見て来たままを言っている。

例えば在宅介護一つとってもそうだ。
私の父はあれでも色々な面で人材を活用する事が出来て恵まれた。
この国で介護保険制度が発足した年から介護を受けるようになって、
発足から今に至る推移をひと通り体験して来たが、
父の介護の始まりの頃と今とを見比べると目の前が真っ暗になる。
病人や年寄りの側からは
希望する医療や介護を実質上選択できなくなりつつある。
今現在若い元気な人でもいつか同じ立場になる。

病気で入院しても、治っても治らなくても3ヶ月以内でとりあえず退院、
入院の時点で自宅退院するか施設探すか選べと言われる。
しかし施設は何処も空きがない。
自宅退院したとして、誰が食事や排泄の介助をするか。
配偶者や子供達の誰かが学校や仕事を辞めて家で看るか?
それでは収入が途絶えてしまう。
通所も入所も空きは無いので家族が経済的にも体力的にも負担する形で
とりあえず無理にでも退院して家に帰ったとして、
もし自宅で体調崩しても病院は人で溢れ返って待ち時間長く
待ちくたびれ消耗して見て貰いたい医師には簡単には見て貰えない。
先月までいた特養の医務室で働いて、
急病の年寄りを受診させようとして何度断られた事か。
受診歴ある病院でも色々な理由で断られる。
急変して救急車に乗せても受け入れてくれる病院が見つからなくて
40分も発車できないとか、やっと受け入れ先見つかっても
ERで医師や看護師に「何でうちに来るわけ?」言われる。
実際私の父も死ぬ前年には
救急搬送した市内の大きな病院のERにいた当直医から
そういうゴミみたいな扱いを受けた。
カーテン一枚越しに「何だこれは。何でこんなのがうちに来るんだ」と。
そして入院したその場で病棟の看護師長からは
「○日までにベッド開けてほしいんです、
 認知症のお年寄は手がかかるから」。
医療者側だって排斥や差別をしているのではない、
人手が足りなくて回らないという事。
手が足りなくて見れないのにどんどん来るから出来ないという事。
これは小児科医療や子供の保育園なんかでも同じだと思われる。
医療や介護の、制度の細かい部分が一つ変わるごとに、
どんどん状況が悪くなっていった、この15年間。
これからももっと悪くなるだろう。

安穏とした何不自由ない立場から経済的展望だとか政治思想だとか語るのは、
それは面白おかしく楽しいかも知れない、
人の手を借りてやっと生活できる立場でさえなければ。
今夜何を食べるか今夜どうやって家族に食べさせるかの心配が要らなくて、
自分の考える事を最優先して語るだけなら。
しかしそんなものは毒にも薬にもならない。

そんな話をした。

ひたすら消す

2015-08-26 10:46:23 | 日常
起きた。
爆睡から覚めて空腹である。
今朝も黄色い甘口カレーを貪る。


今日も引き続き写真整理をする。
去年撮った写真画像を見ると、
去年の今頃はもっとずっと暖かかった。
写っている植物の状態を見ても
去年はこんなに早く葉が落ちていなかったし
色もまだ青々していた。
今は、まだ9月になっていないのに中途半端に一部紅葉が始まっている。


窓の外でハシボソガラスが何か言っている。
声のトーンから考えて情報交換というよりも日常会話らしい。
カラスの言語を習得したいがなかなか難しい。
彼らの言語をちゃんと聞いて話す事が出来たらいいんだけどな。


作業しながらバッハのオルガン全集かけ流している。
大昔にボーナスで買った、ヴァルヒャの10枚組。
朝から1枚ずつ聴いて
途中洗い物や洗濯で中断してまた聴いて、
6枚目で日が暮れた。


空に皺が寄っている。




日没する前に花屋に行って来る。
じじの遺影の花が萎れたので。






日が暮れた。




花は、先日まで如何にもお盆くさい白と濃い紫だったので
明るい黄色にした。



よく見たらこれ、
去年の最後の父の日に送ったプリザーブドのと同じ花だ。


・・・・・


一日中単純作業ばかりして頭は空っぽ、耳からバッハのオルガン。
ヴァルヒャを一時中断してFMラジオのタリススコラーズを聴く。


生産的な事は何一つしていない。
ただ去年の写真画像を整理して、ひたすら消している。
携帯からもPCからも。

日に当たりたい

2015-08-25 22:23:01 | 日常
ささささささ寒い寒い寒いっっ

換気のため窓を空くしだけ開けたら
またもティッシュペーパーが箱ごと飛んだ。
いちいちものが吹っ飛ぶので拾って歩かねばならない。(忙


昨日作った甘口カレーで朝食、



私としては甘口だけど私以外の人々には辛いと思われる。
まろやかでカレー粉の風味。
昔っぽい味のカレーが食べたかった。


数日前、ツイッターでフォロワーの方の
「小学生の時何になりたかった?」
という質問に返答した。

「私は小学生の時何にもなりたくなかった。
 如何にして誰にも知られず死ねるか確実な方法をいつも模索していた。
 小学生の時の自分は今の自分よりもずっと老い衰えて無気力だった。」

と答えたまたあるユーザーのツイートに返答したつもりでいたら、
私の答えたツイートにどどっとリアクションが来た。
そんなに珍しいか?
小学生だってそのくらいの事考えるでしょう。
子供がそのような事を日常的に考えるのは特別な事ではないと思う。


・・・・・


寒いから出かける。
鉄筋コンクリの屋内にいると骨までキンキンに冷えてたまらない。





太陽が低いと日差しに顔面を直撃される。


日光で温まりながらてくてく歩いて、
たまに行く蕎麦屋でに立ち寄り、揚げ茄子蕎麦というのを食べた。



店のオリジナルメニュー。
んまかたぁー。
しかも次回あの蕎麦屋に行ったら何食べるかもう決めてきた。


それからまた歩いて、
大昔からあるちっさい老舗和菓子店がまだやっていたので入ってみたら
その店の婆ちゃんにしか作れないと言う人気商品の串団子が
1本も残っていなかったのですあまを2個買った。
ごめんくださいと呼んだら出て来たのはその婆ちゃんで、
歩くのがやっとの人だった。
このお方があの誰にも真似できない超絶人気商品、
2時間で完売する串団子の作者かと思うと感慨深かった。
職人技であるが、食べ物の味覚の伝授は親子であっても難しく
ほぼ不可能と言われている。
半世紀も昔からずっと同じ串団子を作り続けている職人は
あと何年ウマい串団子を提供してくれるのだろう。


更に歩いたら小さい書店があったので入ってみたら、
コミックスの単行本ばかりだった。
ああ、あれあるかなと思って
『フラジャイル』ってマンガありますかと聞いたら店主は首を傾げ
「いやー聞いた事ないなぁ。無いですね。」
と言うので何も買わずに店を出た。


路肩のコスモスが盛りだ。
何だか今が9月半ばの彼岸頃のような気がする。








更に歩いて、薬店で洗剤を買って帰宅。
寒いのは改善されて温まった。

低い所に月が出ていた。
上弦から3日目。






間もなく日が沈む。






揚げ茄子蕎麦で腹一杯だったので食品売り場には行かず
夕食はまたも激辛赤カレーでで済ませた。


・・・・・


雑用ばかりで落ち着かないなぁ。
自分の撮った写真画像が溜まり過ぎてPCが気絶しそうだ。
あとちょっとでひと段落だからもう少し頑張ってほしい。
今、去年の10月に撮った散歩写真を整理している。
去年の紅葉は当地にしては珍しく艶やかな色だったんだな。


・・・・・


22時か。
今日はもうダメだ。
眠すぎる。。。寝る。

音楽の触媒作用

2015-08-24 21:06:24 | 日常
雲がどんより重い。




明け方腹が減ったのでするめの耳を齧ったら
胃の中で猫ぢゃ猫ぢゃを踊るので困った。
どうもここんとこ鼻が変だ。
アレルギーか?
草木のどれかだろうか。
腸内の乳酸菌を増やさねば。
頑張って苦手なヨーグルトを食べて
ヤクルト飲んで新ビオフェルミンSを服用しよう。


『ブランデンブルグ協奏曲』の第4番を聴く。
第1楽章を聴くと腹を切られた術前術後の事を思い出す。

13歳の時に急性虫垂炎で入院し手術を受けた時、
病床に持ち込んだラジカセで、
NHK-FMの音楽番組からカセットテープに録音したブランデンブルグの4番を
当時たまたま聴いていた。
発見が遅かったため腹膜炎寸前で炎症反応も酷かったと記憶する。
発熱と、脊椎麻酔による後遺症の頭痛と吐き気のため、
たかが虫垂炎と言われたのに起き上がるだけでも5日間かかった。
その間、たった1本しかないカセットテープを繰り返し聴き続けた。
入院中のある晩、
建設現場の足場から転落死した人が隣の病室に運ばれて来た。
夜遅く到着した家族が取り縋って絶叫し、その声が深夜まで続いた。
壁一枚で響いて来る慟哭と一緒に、私は片耳イヤホンで
ブランデンブルグの4番を聴いていた。

20代の時に開腹手術する事になった時、私は医療者不信だった。
全身麻酔で眠ってしまうのが嫌なので
意識のある状態で手術できないかと麻酔医とのオリエンテーションで相談し
当日は覚醒した状態で手術が始まった。
心窩部から右側腹部に斜切開したが、当時私は一般会社員で無知だった。
硬膜外麻酔のため痛覚は無かったが意識はあり医師や看護師と会話した。
あの時の手術は術中の血圧の変動など麻酔管理が大変なので
患者の私が寝ていてくれる方が進行スムーズだった筈。
無知だったのでそんなの知らなかった。
腹開けてる最中にあれこれ質問し過ぎてさぞうるさかったであろう。
「血圧下がってる」という声が聞こえて
「ごめん、ちょっと寝ててねー」と言われたのを憶えている。
睡沈したらしい。
目が覚めたらまだ手術やっていた。(笑
寝たと思って目が覚めたらまだ手術をしていたので
「先生、麻酔が切れたようですが」と言ったら執刀医が
「今もう終わるから、今縫ってるところだから、もうちょっと待って」と言った。
それまでろくに病院に入った事も無かったものだから珍しいし興味津々で
「これは何ですか」「今血圧なんぼですか」
「あのぶら下がってるのはなにするものですか」
といろいろうるさかったと自分でも思う。
医師も看護師もたまったもんじゃなかったであろう。
自分がまさかその職に就くとは当時は微塵も思っていなかったので
ちょっとでも気になった事は何でもかんでも聞いた。
今思えば執刀医の気を散らすような邪魔ばかりした。
無知とはいえ命知らずな事を。
あの時の先生達と看護師の皆様にはご迷惑おかけしました。
腹を切られる恐怖よりも、
眠っている間に何をされるのかわからない不安が勝っていたのだった。
術後の創痛とドレーンを留置された脇腹の違和感で身動きし難かった時も、
何故かブランデンブルグの4番を聴いていた。

ブランデンブルグの3番を聴くと、足の骨の術前術後の記憶が甦る。
足の土踏まずに違和感と体重をかけた時に痛みが起こって、
レントゲン画像をみた整形外科医が切ると言ったので入院した。
足の骨が1個多かったのか小さい骨と骨の間に腫瘍が出来たのかは不明。
手術する事になった。
切除したらちゃんと歩けるようになったが、消炎鎮痛剤で胃腸をやられた。
術後に廊下で数回転倒したり胃腸をやられて吐いたり下血したり
整形外科に入院したのに消化器の検査と治療ばかりしていた。
昼も夜も寝ないで人と喋ったり積み上げた本を読んだり音楽を聴いていた。
当時カセットテープになって販売されていたブランデンブルグ協奏曲1~6の
3番を聴くと、足の術後の日常を思い出す。
仕事をこんなに休んで復帰した時まともに働けるだろうかとか、
痛み止めがあと何時間で再び使えるかとか、
外来トイレで自殺した患者がいたと噂話を聞いた後も
深夜の外来待合室に本を抱えて行き、
外来の窓から深夜の街を眺めたり
緑色の非常灯を頼りに本を読みながら両耳イヤホンで
カセットテープのブランデンブルグ3番を聴いていた。

理由は良く変わらないが、ブランデンブルグ協奏曲を聴くと
術後の病人だった時の日常の記憶が甦って来る。
聴くと脇腹や足の骨の奥が痛んでくる。


換気のために少しだけ窓を開けたら強風が吹き込んで物が飛んだ。
ベランダの落ち葉を片づけようと思うが、
掃いてもすぐまた枯葉で一杯になるので諦める。
風が強くなってきたんで掃いても追いかないし。
風強い割には生暖かく蒸している。


台所にて、作り置きの仕込み中。
頂き物の巨大ズッキーニとキャベツをトマト煮を作り置きし、
ククレカレーの辛口であまり辛くない甘口カレーを作っている。
明日はゴミの日なので調理できるものは全部して作り置きにして、
生ごみを完全にまとめたい。


・・・・・


買い物より帰宅。
密林でポチったケニー・ドーハムのCD届いた。(嬉

いやー何かだかもう♪♪♪


・・・・・


老村に久しぶりに行って、
何も飼いたいものは無かったのであるが、
手巻きのゆかりご飯+梅のおにぎりの、海苔ではなく
おぼろ昆布で手巻きするのが売っていたので買ってみた。
これウマいと思う。
おぼろ昆布で包むおにぎりはよく作るけど、
紫蘇ご飯や梅とおぼろ昆布合うんだなぁ。


ずっと寒くて白くまアイスを1回しか食べれなかったので
1個買って来たけど寒い。
食べると苦行のようだ。
夏はやはり来ないうちに終わっちてしまった。
ガリガリ君や白くまアイスを食べるにはちと勇気の要る気温である。
しかしまだものが凍るほどではない。

生暖かい風

2015-08-23 21:42:02 | 日常
起きた。
寝起きの悪いのは運動不足だからだ。


晴れ。




完全に秋空の色だ。



主日礼拝。

黙祷
招詞 詩編66;1~4
讃美歌(21) 55 560
聖句暗唱 コロサイ3;15
詩編交読 詩編122;1~9
祈り
讃美歌Ⅰ 130
聖書朗読 ヨハネ12;12~19
説教
讃美歌(21)391
献金
祈り
頌栄 27
祝祷


 


今日の聖書はじじが生前好んでいた箇所だ。
ローマの支配下にあった当時のイスラエルの群衆は
圧政から救ってくれる英雄を待ち望んでいた。
ダビデのような、軍馬に跨って颯爽と登場し、
ローマ帝国を軍事的に蹴散らし王となってくれる英雄を。
そんな群衆の前に、イエスは立派な馬ではなく子ロバに乗って
ぽこぽことゆっくりエルサレムに入った。
貧しい群衆がイエスの前からも後ろからも集まって来て、
手に棕櫚の葉や木の枝を持って国旗のように振りながら、叫ぶ。
2000年前のイスラエルの沿道に集まった貧しい群衆は
手に葉っぱの付いた木の枝を持ってホサナ、ホサナと
叫びながらイエスに付いて来た。
彼らが自分の着ている服を脱いで道に敷くのは
王に対する最大の尊敬を表わす行為だと聞いた。
(※"ホサナ"は、救い主に向かって"今救って下さい"という意味)
そんな彼らの前に、
イエスはカッコいい軍馬ではなくロバに乗って現れた。
救い主がロバに乗って来るというのは旧約の預言書に記されている。

  娘シオンよ、大いに踊れ。
  娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
  見よ、あなたの王が来る。
  彼は神に従い、勝利を与えられた者。
  高ぶることなく、ろばに乗って来る。
  雌ろばの子であるろばに乗って。(ゼカリヤ9;9)


生前じじは福音書のこのエルサレム入場の箇所の説教に感心し聴いていた。
群衆の身勝手で都合のいい期待や思惑を覆すような、
人の意表を突くイエスの言動行動が福音書に出て来ると
じじは愉快そうに笑みを浮かべていた。

「俺はここの所が気に入ってるんだ」

と言っていた。
イエスの奇想天外な所がじじは好きだったらしい。
説教中にそれを思い出していたら、
牧師先生が話の中でじじがこの箇所を好きだった事にちらと触れた。
好きだった聖書の箇所や愛唱讃美歌は生きているうちに
出来るだけ周囲の仲間と共有しておくのがよいと思う。
じじの葬儀の時、私はこの聖書箇所を選んで読んで貰った。
じじだけでなくこれまでに世を去った信仰の仲間達も同様だ。
その箇所を読み、その歌を歌うごとに、彼らを思い出す。
彼らが天に帰っても共有するものが私達には残されている。


郊外の山で畑を作っている教会の婦人が野菜を持って来た。
まるで野菜直売所のようだ。(笑
介護で忙しくなかなか山に行けず収穫せずにいたら巨大化したと言う。
皆で分けて、持ち帰る。
私も1本の1/3ほど頂いたが、
1/3でも先日頂いたごろんとでかいズッキーニ1個の1.5倍ある。
直径10cm以上ある。
キュウリも巨大化して3人で分けていた。
随分大きくて長いズッキーニだなと思って見ていたらキュウリだった。
キュウリは買ったばかりだから、巨大ズッキーニ1/3を頂いた。
さて、どうやって調理するかな。




途中まで教会仲間に送って貰って帰宅。
帰り道、昼食と食材の買い物をした。


またトウモロコシを買ってしまった。
売り場でトウモロコシ見ると皮を毟りたくてたまらくなる。
尻尾がきゅっとすぼまって髭が完全に真っ黒のを選んで毟ると
最後まで実がぎっしり詰まっているのに高確率で当たる。
髭の黒いのが本当に尻尾まで実がぎっしりかどうか
確かめるのが楽しくて毟っているうちに、気づいたら5、6本毟っていた。
勿論毟ったのは全部買って来て茹でた。
食べるよりも皮を毟る方が楽しいかも。


口腔内と咽頭部が痒くなった。
昼飯に半額の寿司折りを買って来て美味しく食べた。
前々から気のせいと思っていたがどうも私はある種のエビがダメらしい。
回る寿司屋の「甘えび」という小さくて尻尾が鮮やかな赤いのは大丈夫。
しかし「赤えび」というやや大きめのエビは
食べると口腔内から咽頭部に痒みが起こって腫れる。
これはアレルギーだ。
残念だなぁ。
もしかしたらいずれは甲殻類がぜんぜん食べられなくなるかも。
大好きなんだけどなエビとかカニとか。
甲殻類アレルギーは危ない。
激烈なアナフィラキシー起こしたりするので自粛しないと。


・・・・・


トウモロコシ食べ過ぎて眩暈がして来た。
5本くらい食べれると思ったが2本で敗退した。。。。。無念。
たった2本で口から出そうになった。
当分トウモロコシはいいわ。
食い改めます。
幾ら何でも食べ過ぎ。
教会の婦人の方から頂いた巨大ズッキーニを成敗するのも今日は自粛、
もう今夜は何も食べない事にする。
小中学生の頃は5本くらい普通に食べて、
朝昼晩の食事もちゃんと食べてたんだけどな。
年取ったんだな。
ウマいものは夏の終わりに出回るからこれからが本番だ。
トウモロコシとか、トウモロコシとか、トウモロコシとか、、、、


PC開けてTwitterを見ると「社畜」についての記事が目に入った。
社畜という言葉は昭和の時代には無かったと思う。
ごく最近目にする用語だ。
社畜と言えば年中無休24時間サービス残業のサラリーマンを想像するが、
医療従事者だと社畜とは呼ばないな多分。

でも皆、社畜だったと思うよ。
例えばここの土地に引っ越してきて最初に働いた職場で
ある時上司がガラスの点滴薬剤のビンを落っことした。
上司は破片を片づけようとして濡れた床で転び、
片脚の膝から下をざっくり切って大出血した。
本人は「だいじょぶだいじょぶ」と拒否するのを皆で捕獲し
外科外来に連行し、処置して貰った。
今頃は洗浄して縫合して抗生物質の注射してるだろうと思っていたら、
病棟に外科医から怒りの電話が来て、
「婦長が脱走した。そっちに逃げた筈だ。縫合したが後は知らん!」
と言って切れた。
見たら本人が私の後ろで何事も無かったように仕事していた。
「捕獲」「連行」そして「脱走」、手負いの野生動物の如しであったが
いざ自分が患者となると病院大嫌いなのは私も同様である。
しかしあの何針も縫う大怪我をしても持ち場に戻って
何事もなかったように冷静に勤務を続けた上司を見て
当時入社1年目だった私は驚愕した。

その後転職した別の勤務先では夜勤の時よく看護師を見かけた。
と言ってもその晩の夜勤者ではない。
深夜の巡回でベッド柵からぶら下げられた尿バッグの排尿量を
懐中電灯で照らしてしゃがんで微量計の液面を見ていると、
ベッドの下から看護師が覗いて「おしっこ出てる?」と言ったり
深夜のおむつ交換中に耳の後ろで看護師が「便出た?」と言ったり
仮眠室から出て来て心電図モニターの陰に急ぐ姿を見たと思ったら
数分後に急変が起こったり、
病室の奥に看護師の姿が見えて、あれ誰か病室で喀痰吸引してる?
と思ったらその日勤務の夜勤者は全員その場に揃っていたり
現代の医療現場では殆ど見られない白ストッキングと白いサンダルで
パタパタカサカサと忙しく働きまわっていた。

悲しいのう。
大怪我しても死んでもまだ仕事してる、まさに社畜の極みだった。


・・・・・


生暖かく涼しい風が入って心地よいからと言って
窓を開け放していたら室内がざりざりだ。







清掃しないと。


帰宅してからセクエンティアVOX IBERICAの第3巻
『El Sabio』(賢帝アルフォンソ10世の頌歌集)を聴いて
風に当たっていたら眠くなった。
このCDを手に入れた時はまだ札幌にいて真夏だった。
夏の暑い時に窓から吹き込んで来る風に当たりながら
うとうと半覚醒で日に焼けて黄ばんだ石の壁を思い浮かべた。


・・・・・


今何時だ。
真っ暗闇。
本格的に睡沈していたらしい。

そういえば
今日あたり、発注したケニー・ドーハムのCDが
来る筈なんだけどまだ来ない。。。。。。。。( ´ω`)

激辛野菜赤カレー

2015-08-22 22:03:37 | 日常
4:40。
昨夜からまだ起きている。
書き物をして一度スイッチが入るとなかなか落ちない。
もののけが憑りついたか。ヘ(- -ヘ)))・・・


しかし幾ら何でもこれでは自堕落すぎるから寝る。


・・・・・


8:40か。
いい加減5時近くまで起きていたのだから
昼まで寝ていてもよかったのに何でだ。


PC一度開いたけど調べもの。
薬の本と資料を整理する。
外科時代に使った解剖整理も見直しておかないと。


何でこんなに焦るのだ。


もう自分の生活だけなんだから
あと何日とかあと何時間とかいつまでにとか
早く終わらせてしまわなきゃとか
自分の行動にいちいち期限を設ける癖を改めないと。


雨の音が聞こえる。


寒くてダメだ。
暖房全開。
室内が暖房で乾燥して目と鼻と喉をやられている。
昨日と打って変わって冷え込んだ。
座って調べものとかそんな事ばかりしているから血行よくないんだな。
しかし、ちと今さっき自分の不勉強を感じたので
今のうちに調べるものは調べておく。


朝昼飯。
一昨日大量に買い込んだLEE×30の赤カレーを使って、
あり合わせの野菜を投入してみた。
元々具の殆ど入っていないレトルトカレーなので使い易い。
教会の婦人達から頂いたズッキーニ、茄子、スナップ豌豆、インゲンと
プチトマトをにんにくと鷹の爪を仕込んだオリブ油で炒めて
水を少々足してウスターソース少々、昆布茶を入れて
しんなりしたらLEE×30の赤カレーを投入、最後にカレー粉適宜。



ウマ―い。
この赤いカレー、どんな野菜とも相性いい。
今度違う具材でもやってみよう。


・・・・・


赤唐辛子のおかげで少し四肢が温まってきた。

セクエンティア聴こう。
VOX IBERICAの第1巻『雷の子ら』。
いいなぁ朗々と伸びやかな声。
一緒に歌いたくなる。
薄暗い雨の日なのに、空気の色が変わる。


一段落ついたから今日はあと写真整理して日記ブログあげて
ごろごろしよう。
今日は早く寝る。

散歩の日

2015-08-21 23:08:35 | 日常
快晴。
海に行く。
久しぶりに太陽が出た。(嬉







朝食。
老村のワカメおにぎりを買おうとしたら売り切れていた。
競争率高いのう。
たこザンギも、
今はたこ漁が休みだとかでたこの代わりにつぶ貝を揚げて
つぶザンギやってた。



つぶ貝のザンギもウマい。
魚介は何でも揚げるとウマいんだけどね。


ここから市内が見える。
あのせり出した辺りに後で行こう。




浜に下りてみる。


波が荒くて
こんな巨大な倒木も打ち上げられているが
帰りの波は来なかったらしい。




砂の上の花。




沖の方から雲が迫って来る。






今日は随分波が荒いな。














砂の上に幾何学模様が見える。
水の力学。




植物もそろそろ終わり。




ソフトクリーム。
中国からの観光客の女性達が夕張メロン味の
ソフトクリームを食べていた。
私は「キャラメル巻きアート」ちゅうごってりしたのにした。



糖分ガッツリ摂ったし、歩かないと。


頭上で轟音がする。
南西の方角に向かって飛行機が飛んで行った。
お江戸方面に行くと思われる。



あれに人間が乗ってるのか・・・恐ろしい。


道の駅の売店で丸干しするめと昆布チップスと、
紫蘇の実の溜まり漬けを見つけたので買った。
あちこち漬物屋やネットで探してもあんまり無かったのが、
こんな所に普通に売っていたとは。

・・・・・

会計をしていると横から身なりの良い団塊世代のおっさんが
陰険に文句言いながら割り込んで来た。
手には飲み終えたジュースのビンと菓子の紙くずを持っている。

「まったく!
 ゴミ箱は何処にあるんだ!
 常識無いなゴミ箱も置いてないなんて!
 こんな非常識な店は初めてだ!」

とまくしたてながら自分の飲んだ空き瓶と食った物の紙屑を
売り子に無理矢理手渡そうとする。
私はその団塊爺に言った。

「ゴミ箱は設置していないんですよ。」

「えっ無い?」

「設置していません。
 ここは道の駅でゴミは各自持ち帰る事になっています。
 だからゴミ箱はありません。」

立札も張り紙もちゃんとある。
そこら中に立てて貼って見えるように掲示してある。
それでも家庭のゴミやドライブで出たゴミを
道の駅に捨てて行く不法投棄者が多いので
ここではわざとゴミ箱を設置していない。

他の客の視線が気になったのか、
団塊爺は売り子に渡そうとしたゴミを引っ込めた。
不満げにぶつぶつ何か呟いて出て行った。

市内に戻るバスまで少し時間がある。
風が生暖かい。




ベンチに腰掛けてしばし空を見る。
昨日の死生観の話を思い出した。
じじの出棺の時、こんな真っ青な空だった。




バスが来た。
まだ正午になっていない。
市内に戻ってもう少し歩こう。
久々に日光に当たる事が出来た。
もうちょっと日に当たりたい。


・・・・・


崖に来た。
秋半ばである。






さっき遠くに見えた沖の雲がもうここには届いている。
だから海は青くない。








日に焼けて立枯れた草花の中にまだ咲いているのもある。




坂を下って浜に出る。






波打ち際で水の動きを見ていると時間を忘れる。





ぶはっ!



危ない危ない。
この辺りは昔から自殺の名所だったそういえば。


また坂を登る。
ひー運動不足や。






さっきまで自分がいた浜の辺りが遠く薄っすらと見える。






沖に船がいる。






空は完全に秋のすじ雲。






街に戻って昼食、といっても14時になろうとしている。
鉄板焼きうどんスパゲティの店にて「ピカタ」。



この頃ウマいものを食べたいとは思わず
懐かしいものを食べたいと思う事が多くなった。


もう少し歩こうかと思っていたら
自宅方面に向かうバスが来たので乗った。


あれ、急に体熱感でてきた。
熱発してる?
いままだバス車内だけど。
朝から長時間日光に当たり続けたからか?
でも鼻水も出てきた。


帰宅して水分補給。
昨日まで寒かったからそれで風邪引いたかも。
或はバスの冷房にやられたのか。
冷房なんか要らないなぁ20℃あるかないかなのに。


風邪引いても心は躍る。
本日購入した紫蘇の実たまり漬け。



紫蘇の実独特の香りと噛んでぷちぷち砕けるのが
子供の頃から好きだった。
当時は卵かけご飯に紫蘇の実漬けを乗っけて食べたが
今の私は生卵が何故か食べられないので普通にご飯に乗せたり
納豆に混ぜて食べる。


今夜はいろいろと書き物をする。
実働まであと10日。
今のうちに出来る事をしておく。

死生観を問われる時

2015-08-20 23:41:50 | 信仰
昨年7月6日に父が帰天し、教会での葬儀と、死後の事務手続きと
父宅の片づけ、遺品整理、部屋の清掃と明け渡しを完了し、
8月10日に教会墓地に納骨と、一気にを済ませた。
仕事では急変対応が多くて随分くたびれていた。

めそめそする間も無いほどしなければならない事が山積していた。
父はこの地上での苦しみを終えて天の御父の元に行った。
だから辛気臭くなりもせずただ時間に追われていた。

PCを開いてSNSを見ると、
ブログを通して父の死を知った人から挨拶のメールが来ていた。
その文面を見て固まった。
メールは私への慰めの言葉に始まり、
近況報告の中で前の年に一人息子を亡くした事が書かれていた。
母一人子一人の、その人にとってたった一人の家族である息子だった。
唯一の家族である一人息子を亡くした人の無念な思いに比べたら
私が父親を天に見送った事など蚊に刺された程度にも及ばない。
若い人が亡くなって残された親を見るのは辛い。

以前20代の若い教会員が婚礼を2か月後に控えながら
無免許無保険無車検で指名手配中の人物の暴走車に
激突されて亡くなった時も、
その人の両親と配偶者になる筈だった人を思い浮かべた。

メールを頂いてそんな事を考えていた昨年9月、
教会仲間の息子が突然不慮の事故で亡くなった。
まだ20歳になっていなかった。
父が生前日曜日に教会で会えるのを楽しみにしていた子だった。

誰もが思う事だ。

「どうしてだろう。
 どうしてこんな酷い事が起こるのか、
 神様はどうしてこんな…」

死生観が問われ、
信仰者の確信がぐらぐら揺れるのはこんな時だと思う。

こうして去年は私の父の葬儀の翌月に若い人の事故死が起こり
教会は立て続けに葬儀を出した。
正直、私は自分の父親の死の時よりもこの教会仲間の息子が
突然事故で命を落としたと知った時の方が
感情を抑えられなかった、今でも何故か抑えられない。

84歳だった父の死は長い生涯のうちに悩み苦しみながら
最後まで完走した、達成とか完了と言い表せるような
晴れやかなものの気がする。
若い人はある日いきなり奪われるようにいなくなった。
人の死は死であっても
私の父の死と教会仲間の息子の死とが同じ筈はなく
地上に残された者にとってはむしろ全然違うものの気がする。

身近な人の死を乗り越えたかどうかと尋ねられると
私の場合は父が生きて介護していた時に消耗し過ぎたのか、
父の死が忌むべきものとも不幸な出来事とも思われず、
長い苦しみをやっと終えた父が天国に凱旋して行くような、
晴れやかなイメージがどうしてもある。
父が息を引き取った朝も、前夜式の日も、告別式の日も晴れていた。
出棺の時の太陽は眩しく、火葬場に向かう時に見上げた空が
一つの雲もない深く青い青空、快晴だったからだろうか。


病床で迎えた死と不慮の死とでは受け止め方が当然違う筈だ。
人の死を「親族の死」という一括りにはできない。
悲しみは共有出来るようでいて、出来ない。
私は父の死に納得し、反芻して色々考え記録し分析する余裕があった。
父が生きている時から死が来る事を意識して身構えていたからだ。
7月6日の父の死去から1か月のうちに、短期間で全ての事を完了し
職に復帰して自分の生活を最優先する事が出来た。
しかし息子を失った人はそうではない。
1年経ったからと言って何かが変わる事はない。
子供を失った人の時間は告別式の直後のまま止まっている。

子供を失った人は「朝が辛い」と言う。
寝坊するよと起こしてやる必要が無くなった。
早起きして弁当を作ってやる必要が無くなった。
毎朝していた事があれもこれも要らなくなった。
何もしなくてよくなった朝が辛いと。
決して共感し得ない人の思いに情緒だけで共鳴し過ぎて
どうも私は心理的に引き摺られている気がする。

この事について助言を頂いた。

私の言った、死が天国への凱旋である事は間違いないと。
たとえ不慮の死であっても神が呼ばれたものだ。
だから死は天国への凱旋であり、
そこに目を向けられたらその人は楽になるのに、と。

その通りだ。
何故なら生命は全て神のものだから。
キリスト教徒の死生観とはそのようなものだ。

「そうなんだよ。思い通りにならないよね。
 それは僕達の生命が自分の物ではないからなんだ。
 病気になったのはあなたのせいじゃない。
 誰かのせいでもない。
 生命は預かり物なんです。
 誰から預かったのか、
 あなたにとって神様か、仏様か、ご先祖様か、
 僕は知らないけど。
 預かり物だから決して自分の思い通りにならないし、
 故障だってします。
 預かり物はいつか返さなければならないし、
 返す時まで慈しんで大切にしなければならないんだ。
 故障してて辛くてもね。」

「あなたは弱くないよ。
 本当に弱い人は
 自分で自分の事なんて考えられないもの。
 あなたは悩む事ができるし、
 考えて、話して、泣く事もできる。
 強いんだ。
 強いからできるんだ。
 乗り越えられるよ。必ず。」


看護学生だった時に出会った精神科医が
絶望した人にそう話したのを私は聞いた。
あの時の精神科医は信仰者だった。
生れる時も生きている時も死ぬ時も、
私達の命は主の御手の中にある。
「主」とか「キリスト」と言う言葉を使わず言い表された、
信仰者の死生観を私は反芻している。
パウロが言ったとおりである。

  私たちの中でだれひとりとして、
  自分のために生きている者はなく、
  また死ぬものもありません。
  もし生きるなら、主のために生き、
  もし死ぬなら、主のために死ぬのです。
  ですから、
  生きるにしても、死ぬにしても、
  私達は主のものです。
                  (ローマ14;7~8)


生きるにしても、死ぬにしても。
自分自身の生き死にならば受け止めやすい。
しかし身近な人をどんな形であれ天に見送った者にとっては
そうではない。
常に後悔と自責が自分の中にある。

私自身でさえ1年経っても
父の入院していた病院の前を通る時に嫌でも頭を過ぎる。
酷い目に遭わせて死なせてしまった、
拘縮した手が少し動いたからとベッド柵に紐で縛りつけ
水平仰臥位で口腔ケアをした挙句に上顎を傷つけて血液を誤嚥させ
まともに体位変換すらせず仙骨にも踵骨にも褥瘡を作り
8ヶ月間もIVHカテーテルを交換せず菌血症に陥らせ
下血しても共同偏視が起って急変しても
「年寄はこんなものだ」と見もしなかった、
あんな劣悪な強制収容所同然の老人病院に入院させたのは私だ。
そのために父を酷い目に遭わせてしまった。
もっと話しかけてやればよかった。
もっとあれもこれもしてやればよかった。
急変する前にあの劣悪な病院から転院させればよかった。
「苦しみを終えて天国に行った」とは言っても
その苦しみの原因は私が作った。
後悔する事は数え切れない。

まして事故や自死という形で突然子供を失った人は
どんな思いで、どれほど自分を責め続けるだろう。
あの時何としても引き止めていればこんな事にならなかった。
もっとゆっくり話を聞いてやっていたらこんな事にならなかった。
どうしてもっと早く気付いてやらなかったのか。
そのように自分を問い詰めて自分を責め続け、
生涯悔やみ続けるだろう。

自分を責め続ける人に何と話しかけたらいいのか、
かける言葉が見つからない。
仕事も辞め食事も摂らず寝ても起きても自分を責め続ける人が
その責めから解放されるにはどうすれば。

ここでも助言を頂いた。

「神様はあなたを責めるだろうか?」

と問われて気付く場合があると。
これは大事な事だ。

あくまで信仰者同士の間の会話である。
私達信仰者は主なる神の赦しと憐れみの無限な事を知っている。
身近な人の事故死や自死を防ぐ事が出来ず
助ける事が叶わなかったために自分を責め続けて
苦しむ人を神は責めない。
そのような人を裁いて責め苛む事を神が決してなさらない事を
私達信仰者は知っている。
死生観は神への絶対的な信頼である。
神が責めないものを責めてはならないのだ、
それが他者であっても自分自身であっても。

こんな事でいいのか

2015-08-20 19:23:58 | 日常
半袖だと寒くて辛い。



もう完全に秋である。
昼間、太陽の出ているうちはそれなりに暖かいが、
日没と共に一気に寒くなる。
これから冬に向けて如何に節約して暖房費を捻出するか
考えると胃か痛い。


晴れたり曇ったりしているが雨は降らなさそうだ。


買い出しに行こう。
その前に、冷蔵庫内の在庫を一掃する。
発掘して、いろいろと出て来た。



冷蔵庫を開けて考えている。
今年、当地に桜が咲いたのは何月頃だったっけ。
調べてみる。

・・・・・

この日記ブログ調べたら桜が咲いたのは5月の始め。
ヒヨがうちに来ていたのは桜が咲くまでだったから、
この、ヒヨのために買ったネーブルは
どうやら4月以前に買ったものだったらしい。

えっと・・今、何月だっけ。
4か月以上か。
さすが防腐加工によって4か月前のまま変わらず美しくみずみずしい、
このめりけん産ネーブル、どうすっかな。

はっ・・
きぬさやのミイラ発見。
4月に買ったネーブルがこんなにみずみずしいのに、
1週間前のきぬさやが早くもミイラ化したのが納得いかないが
ミイラは廃棄するしかない。

この何か月経っても全然腐らないめりけん産ネーブルは、
これからどうしようか思案中にて、
でも考えるのめんどくさいからとりあえず再び冷蔵庫内に戻した。


さて、買い出しに行って来る。
今日もどんよりした空模様。


・・・・・


今日は予定外にとんでもない買い物をしてしまった。
食い改めねばならない。



このLEE×30の赤いカレー、実はすんごくウマい。
結構前に一度買って食べてみて気に入り、何個か買った。
見た目はトマトピュレーみたいに真っ赤っかのカレーで
唐辛子効かせただけの単純なものかと思ったら、全然違った。
予想外に濃厚でまろやかな味で、
しかもしっかり辛味があってレトルトにしてはとても気に入った。
先日まだあるかなと思ってレトルトの陳列棚を見たら、
同時期に発売されたLEE×10の黒カレーはあるのに
×30の赤は撤収されていた。
辛いから嫌われて売れなかったのかと残念に思っていた。
それが今さっき買い物に行くと
商品入れ替えのための見切り品ワゴンに×30赤カレーが
150円に値引きして20個ばかり積んであるではないか。
手に取る客は誰一人いない。
20個全部買い占めた。


会計の時、レジのおねっちゃんが何故かくすくす笑いながら数えた。

井「これ、美味しいんですよ、気に入ってたの。」

レ「美味しいんですか?
  私も気にはなってたんですが何処にあるかわからなくて。」

私はレジのおねっちゃんに説明した。

井「あの向こう側のワゴンにありましたよ。
  カレーのコーナーから引き上げられてたから
  やっぱり辛いと売れないのかと思ったら見切りワゴンにあったのね。
  私、全部買い占めるからね。」

レ「一度食べてみたかったです。」

井「あれ、そう?
  じゃ1個キャンセルするからあなた買いますか?」

レ「えっ・・・いいえっ」

井「もし何なら1個差し上げましょうか?」

レ「いえっまさかそんな、とんでもない。」

井「遠慮しなくていいんですよ?
  それとも買う?」

レ「いえっ・・・あの私、いいです。」

井「そお?
  じゃ、全部買っていい?」

レ「はい、どうぞ」

井「どうもありがとう」


何かちょっと不条理な会話をしたような気がするが、
諦めていた赤カレーが安く買えたのでよかった。

・・・・・

帰宅。
収台所の棚に納出来ない。
早急に台所を整備して場所を確保しないと。

・・・・・orz

こんな事でいいのか自分。

雲が押し寄せて来る

2015-08-19 23:03:17 | 日常
来月の第2週まであと1ヶ月切った。
焦る。


で、カレーを仕込もうと思ったが、
冷蔵庫の中を整理整頓するため食材の買い出しは自粛。
今残っている食材を完全に消費し尽すまで。
それで、レトルトのキーマカレーを消費する事にした。
ただこのまま温めて食べる気がしないので、
茄子、ズッキーニ、プチトマトを
鷹の爪とにんにくを仕込んだオリブ油で炒めて、
レトルトのキーマカレーをソースとして投入し、
カレー粉とバルサミコとウスターソース微量と塩で調味し直し、
売ってた既製品のキーマカレーとは全くの別物にした。



普段食べない種類のカレーである。
しかしウマいわー♪


さて、雑用に戻る。
9月1日の実働開始までに礼拝メッセージの準備を
完了しておかないと。


・・・・・


ちと所用あり出かける。



先日辞めた元職場から電話が来たので出向かねばならない。
何だか福利厚生関係の「健康増進グッズ」を
毎年春にカタログから選んで貰えるのが
私はそれを受け取る前に退職したので取りに来てほしいと。
私が申し込んだのは麦飯の麦と十六雑穀だった。
いずれ切らしたら買うので取りに行って来よう。


晴れたからと思って出てきたら雲が押し寄せて来るではないか。




あれっ?
いつも乗っている路線バスが何だか変な方角に迂回すると思ったら、
今日は市民盆踊り大会だったのか。
ご近所で全く盆歌が聞こえなかったけど、
いい加減に盆の明けた、
三日も経ってからの盆踊り大会、仮装盆踊りも恒例。
しかし重たい雲が迫って来てるんだよ。



だいじょぶか盆踊り。

・・・・・

スーパーでトウモロコシ買って来た。
ふふふ茹でよう。


ありゃー
外は雨降ってるし。
盆踊りの人達、気の毒な事だのう。
皆、風邪引いてしまうわこれは。

夜道で一人空を見上げたら

2015-08-18 19:52:59 | 日常
土砂降り雨の中、教会に行った。
スモール・ストーン・ミニストリーを主催する巡回伝道者、
通称「刺青くりすちゃん」と呼ばれる井上薫牧師の講演会のため。


土砂降り雨の中、小さな礼拝堂に大勢集まった。
『親分はイエス様』そのものの信仰者であり伝道者である。
姓と出身地から、もしかして親族ではないかと思い尋ねてみたが
どうやら違うらしい。
しかし、じじの遺品にたった1枚だけ残る古い写真の曽祖父と
額の形や眼窩の形が似ている・・・ように見えるだけか?


去年も来て下さったけど、私は聞きに行けなかった。
井上薫牧師の信仰体験は壮絶である。
チラシの説明。

「やくざ歴10年、
 覚醒剤に溺れて幻覚と被害妄想に襲われ、
 日本刀と柳葉包丁を手離せず自殺未遂を繰り返していた」

その人が一人の信徒と出逢い、教会に迎えられて回心し、
稼業から足を洗って信仰告白し受洗、伴侶と共に
伝道者となって自らの信仰体験を語る。


井上薫牧師はごく小さい子供の頃に聖公会の幼稚園に通っていたと言う。
物心つくかどうかの幼い時期に福音に触れた小さな体験が、
何十年も経って後にとてつもなく大きな意味を持つようになる事を、
私達は知っている。
私達信徒の多くが自分の人生を振り返って知っている。
井上牧師はその生きた証しである。

 「幼稚園か小学1年か、そんな小さい頃、
  夜道で一人空を見上げたら空一面に星が出ていたんです。
  一人ぼっちで無数の星を見上げていると
  何とも言えない感情が湧き起ってきました。
  無性に寂しいような恋い焦がれるような、
  言葉では表現出来ない感情が湧き起りました。
  今思うと、
  唯一の神を思う思いとは、そのようなものです。」

言葉では難しいが、
表現し難い感情は熱伝導のように伝わる。
聞きに行ってよかった。

子供の頃一人で空を見上げたくだりは、何とも形容し難いが
理屈の通用しない、深い所で共感した。

福音書の山上の垂訓、

「心の清い人人々は幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ5;8)

「幼子のようであれ」(マタイ11;25、19;14、マルコ10;13~15、ルカ10;21、18;16~17)

とは、そういう事かも知れないと思った。


私が当地に引っ越して来た年のクリスマスだったと記憶する。
所属教会の牧師先生が説教で話していた。

 天の星を仰ぎ見る人は
 天の神を仰ぎ見ている・・・
 絶望的に
 なす術なくただ天の神を仰ぎ見る。

私も空を見上げる事がある。
いや、気がつくといつも空ばかり見上げている。
見上げる時はいつも
途方に暮れ、行き詰まり、絶望して見上げている。

子供の頃一人で空を見上げた時は、
無性に懐かしいような、寂しいような、幸せのような、
何とも言えない感情をもって見上げていた。


数々の修羅場を潜り抜けた今、
自分が救われた喜びを高らかに宣言する人の眼は輝いている。
今日、ご夫妻と出逢う事が出来てよかったと思う。