ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

死生観を問われる時

2015-08-20 23:41:50 | 信仰
昨年7月6日に父が帰天し、教会での葬儀と、死後の事務手続きと
父宅の片づけ、遺品整理、部屋の清掃と明け渡しを完了し、
8月10日に教会墓地に納骨と、一気にを済ませた。
仕事では急変対応が多くて随分くたびれていた。

めそめそする間も無いほどしなければならない事が山積していた。
父はこの地上での苦しみを終えて天の御父の元に行った。
だから辛気臭くなりもせずただ時間に追われていた。

PCを開いてSNSを見ると、
ブログを通して父の死を知った人から挨拶のメールが来ていた。
その文面を見て固まった。
メールは私への慰めの言葉に始まり、
近況報告の中で前の年に一人息子を亡くした事が書かれていた。
母一人子一人の、その人にとってたった一人の家族である息子だった。
唯一の家族である一人息子を亡くした人の無念な思いに比べたら
私が父親を天に見送った事など蚊に刺された程度にも及ばない。
若い人が亡くなって残された親を見るのは辛い。

以前20代の若い教会員が婚礼を2か月後に控えながら
無免許無保険無車検で指名手配中の人物の暴走車に
激突されて亡くなった時も、
その人の両親と配偶者になる筈だった人を思い浮かべた。

メールを頂いてそんな事を考えていた昨年9月、
教会仲間の息子が突然不慮の事故で亡くなった。
まだ20歳になっていなかった。
父が生前日曜日に教会で会えるのを楽しみにしていた子だった。

誰もが思う事だ。

「どうしてだろう。
 どうしてこんな酷い事が起こるのか、
 神様はどうしてこんな…」

死生観が問われ、
信仰者の確信がぐらぐら揺れるのはこんな時だと思う。

こうして去年は私の父の葬儀の翌月に若い人の事故死が起こり
教会は立て続けに葬儀を出した。
正直、私は自分の父親の死の時よりもこの教会仲間の息子が
突然事故で命を落としたと知った時の方が
感情を抑えられなかった、今でも何故か抑えられない。

84歳だった父の死は長い生涯のうちに悩み苦しみながら
最後まで完走した、達成とか完了と言い表せるような
晴れやかなものの気がする。
若い人はある日いきなり奪われるようにいなくなった。
人の死は死であっても
私の父の死と教会仲間の息子の死とが同じ筈はなく
地上に残された者にとってはむしろ全然違うものの気がする。

身近な人の死を乗り越えたかどうかと尋ねられると
私の場合は父が生きて介護していた時に消耗し過ぎたのか、
父の死が忌むべきものとも不幸な出来事とも思われず、
長い苦しみをやっと終えた父が天国に凱旋して行くような、
晴れやかなイメージがどうしてもある。
父が息を引き取った朝も、前夜式の日も、告別式の日も晴れていた。
出棺の時の太陽は眩しく、火葬場に向かう時に見上げた空が
一つの雲もない深く青い青空、快晴だったからだろうか。


病床で迎えた死と不慮の死とでは受け止め方が当然違う筈だ。
人の死を「親族の死」という一括りにはできない。
悲しみは共有出来るようでいて、出来ない。
私は父の死に納得し、反芻して色々考え記録し分析する余裕があった。
父が生きている時から死が来る事を意識して身構えていたからだ。
7月6日の父の死去から1か月のうちに、短期間で全ての事を完了し
職に復帰して自分の生活を最優先する事が出来た。
しかし息子を失った人はそうではない。
1年経ったからと言って何かが変わる事はない。
子供を失った人の時間は告別式の直後のまま止まっている。

子供を失った人は「朝が辛い」と言う。
寝坊するよと起こしてやる必要が無くなった。
早起きして弁当を作ってやる必要が無くなった。
毎朝していた事があれもこれも要らなくなった。
何もしなくてよくなった朝が辛いと。
決して共感し得ない人の思いに情緒だけで共鳴し過ぎて
どうも私は心理的に引き摺られている気がする。

この事について助言を頂いた。

私の言った、死が天国への凱旋である事は間違いないと。
たとえ不慮の死であっても神が呼ばれたものだ。
だから死は天国への凱旋であり、
そこに目を向けられたらその人は楽になるのに、と。

その通りだ。
何故なら生命は全て神のものだから。
キリスト教徒の死生観とはそのようなものだ。

「そうなんだよ。思い通りにならないよね。
 それは僕達の生命が自分の物ではないからなんだ。
 病気になったのはあなたのせいじゃない。
 誰かのせいでもない。
 生命は預かり物なんです。
 誰から預かったのか、
 あなたにとって神様か、仏様か、ご先祖様か、
 僕は知らないけど。
 預かり物だから決して自分の思い通りにならないし、
 故障だってします。
 預かり物はいつか返さなければならないし、
 返す時まで慈しんで大切にしなければならないんだ。
 故障してて辛くてもね。」

「あなたは弱くないよ。
 本当に弱い人は
 自分で自分の事なんて考えられないもの。
 あなたは悩む事ができるし、
 考えて、話して、泣く事もできる。
 強いんだ。
 強いからできるんだ。
 乗り越えられるよ。必ず。」


看護学生だった時に出会った精神科医が
絶望した人にそう話したのを私は聞いた。
あの時の精神科医は信仰者だった。
生れる時も生きている時も死ぬ時も、
私達の命は主の御手の中にある。
「主」とか「キリスト」と言う言葉を使わず言い表された、
信仰者の死生観を私は反芻している。
パウロが言ったとおりである。

  私たちの中でだれひとりとして、
  自分のために生きている者はなく、
  また死ぬものもありません。
  もし生きるなら、主のために生き、
  もし死ぬなら、主のために死ぬのです。
  ですから、
  生きるにしても、死ぬにしても、
  私達は主のものです。
                  (ローマ14;7~8)


生きるにしても、死ぬにしても。
自分自身の生き死にならば受け止めやすい。
しかし身近な人をどんな形であれ天に見送った者にとっては
そうではない。
常に後悔と自責が自分の中にある。

私自身でさえ1年経っても
父の入院していた病院の前を通る時に嫌でも頭を過ぎる。
酷い目に遭わせて死なせてしまった、
拘縮した手が少し動いたからとベッド柵に紐で縛りつけ
水平仰臥位で口腔ケアをした挙句に上顎を傷つけて血液を誤嚥させ
まともに体位変換すらせず仙骨にも踵骨にも褥瘡を作り
8ヶ月間もIVHカテーテルを交換せず菌血症に陥らせ
下血しても共同偏視が起って急変しても
「年寄はこんなものだ」と見もしなかった、
あんな劣悪な強制収容所同然の老人病院に入院させたのは私だ。
そのために父を酷い目に遭わせてしまった。
もっと話しかけてやればよかった。
もっとあれもこれもしてやればよかった。
急変する前にあの劣悪な病院から転院させればよかった。
「苦しみを終えて天国に行った」とは言っても
その苦しみの原因は私が作った。
後悔する事は数え切れない。

まして事故や自死という形で突然子供を失った人は
どんな思いで、どれほど自分を責め続けるだろう。
あの時何としても引き止めていればこんな事にならなかった。
もっとゆっくり話を聞いてやっていたらこんな事にならなかった。
どうしてもっと早く気付いてやらなかったのか。
そのように自分を問い詰めて自分を責め続け、
生涯悔やみ続けるだろう。

自分を責め続ける人に何と話しかけたらいいのか、
かける言葉が見つからない。
仕事も辞め食事も摂らず寝ても起きても自分を責め続ける人が
その責めから解放されるにはどうすれば。

ここでも助言を頂いた。

「神様はあなたを責めるだろうか?」

と問われて気付く場合があると。
これは大事な事だ。

あくまで信仰者同士の間の会話である。
私達信仰者は主なる神の赦しと憐れみの無限な事を知っている。
身近な人の事故死や自死を防ぐ事が出来ず
助ける事が叶わなかったために自分を責め続けて
苦しむ人を神は責めない。
そのような人を裁いて責め苛む事を神が決してなさらない事を
私達信仰者は知っている。
死生観は神への絶対的な信頼である。
神が責めないものを責めてはならないのだ、
それが他者であっても自分自身であっても。

2011-09-02 00:35:42 | 信仰
日付が変わった。


  小さなお願いとは、
  毎日のさまざまな具体的なお願いで、これを祈ることはもちろん必要です。
  しかし、
  神はしばしばその小さな願いを聞き入れてくださらないことがあります。
  ・・・それはなぜかというと、神はその人に
  小さな願い以上の、もっと大切なものをプレゼントしたいからです。
           (英隆一朗著『道しるべ』新世社刊 第五話 望みについて)


信仰の手引書を読み直し、
「霊的成長」という言葉を反芻する。


路上のゴミ箱にくっ付いていた幼虫を拾って世話し、餌をやる。
餌を貰った虫は育ち、飼い主に懐くと、
飼い主は虫に、死なない程度に殺虫剤をかける。
虫は苦しむが、餌をくれる飼い主を頼って手の中に逃げる。
飼い主は頼ってきた虫を介抱し、餌をやり、養育するが、
育ってでかくなってきた虫に餌をやりながら度々殺虫剤をかけ、
虫に主が誰であるかを思い知らせる。
虫は殺虫剤に対する耐性を身に付け、殺虫剤をかけられても死に難くなった。


雨の音が聞こえる。


信仰の手引書として読んだ英神父の著作にも、
いつかブログ仲間の日記に紹介されたはれれ神父の説教にも
自分が願った以上の、
主から与えられる恵みを表現する言葉として語られる「霊的成長」。
苦しい目に遭って主に依り頼み、
助けられ救われた自分は一匹の不潔な虫である。
一度や二度助かってもいずれまた殺虫剤をかけられる。
それでも主を避け所と頼れば、
頂けるのは自分が願ったものではなく「霊的成長」。(笑)
日付が変わって半世紀。
くたびれており、主なる神と自分とをこのように考える。


虫にも寿命がある。

2011-03-27 23:59:11 | 信仰
3月11日の大地震、大津波から16日目。
未だ被害の全容が知れない程の大災害で被災された方々のために、
教会でも、あちこちのSNSでも、キリスト者同士呼びかけて祈っている。


3月17日の記事で紹介させて頂いた、
或るカトリック司祭からの祈りの呼び掛けの9日間はあっという間に過ぎた。
しかし祈りはこれからも続ける。


 主が被災の苦しみを担って下さる事を確信し、
 兄弟姉妹の心に合わせて祈ります。


 今もまだ誰からも発見されず瓦礫の下で助けを求め待っている人々、
 救援の届かない避難所で辛い生活をする人々、
 家族の消息を求めて瓦礫の中を、遺体安置所を、徒歩で探し歩く人々、
 不眠不休で救援活動に従事し続ける人々、
 原発事故の被害を食い止めるために体を張って闘う人々、
 風評被害で生活の糧を絶たれた人々、
 被災地の家族の安否情報の届かない離れた所で心を引き裂かれる人々、
 被災に遭われたお一人お一人の苦しみを癒して下さい。
 

 この大災害で生命を奪われた、
 数知れないほど大勢の犠牲者お一人お一人の魂を
 御手に抱き取って、天国にお迎え下さい。
 永遠の安息に犠牲者のお一人お一人をお迎え下さい。
 

 原発事故の被害がこれ以上拡大しませんように。
 周辺地域の人々の健康が守られ、
 地域が生活の場として甦りますように。


 主なる神、憐れんで下さい。




避難所にいる人々や福島の人々の今置かれた現状を知る限り、
祈らずにはいられない。


海外から見ると考えられないくらいの物凄い速さで
現地は復興の道を進んでいるかも知れないが
被災された方々にとっては
地獄のように長い苦しみの日々であろうと思われる。


今日礼拝の時、
牧師先生が福島の原発事故による放射能漏れで
現地の或るプロテスタントの教会が根こそぎ別の地域に
避難しなければならなくなった事を紹介し、祈りの課題に挙げた。
きっと同じような事情の教会が他にも、各地にあるに違いない。
私達の知らない所で、
災害のために教会が一度根を下ろした場所にいられない現実がある。


祈ります。
この試練は決して失望に終わらない。
主が共にいらして教会員一人一人の信仰を強め、導いて下さる。
今、住み慣れた土地を出て行き場の無い教会が
この試練を乗り越える事が出来、数え切れないほど多くの収穫を
主なる神から受けますように。
確信をもって。
アーメン。

祈。

2011-03-17 23:58:00 | 信仰
今、祈りを捧げておられる皆様と共に心を合わせて。


被災者への支援が十分に行き渡りますように。
亡くなられた方々が永遠の安息に迎え入れられますように。
原発の事故の被害が最小限に抑えられ、無事に収束しますように。


そして、
まだ見つかっていない場所で助けを求めている方々が
一刻も早く救出されますように。
被災者が望みを失う事無くこれからの生活に希望を持って
日々生きていかれますように。


私達の主イエス・キリストの御名によって
アーメン。

絶望してはいけない

2011-03-15 23:37:15 | 信仰
金曜日の大災害からずっと
祈る度に思い出されて反芻している、一冊の古い説教集の中の言葉。


「絶望してはいけない。
 どんな状況のただ中でも絶望してはなりません。
 ・・(ヨハネ黙示録2;10)・・
 10日の間、苦難にあう、しかし11日目はないのです。
 苦難は必ず区切られる。
 無限に続くと思い込んではなりません。
 まさに信仰者とは
 11日目をめざして歩む者です。」
             (辻宣道著『教会生活の四季』/日本基督教団出版局より)

断ち切る

2011-01-14 19:49:00 | 信仰
また一つ勉強になった。
つぃったであるお方の呟きを読んで感じ入った。


カトリックの方の日記や本などでよく目にする、
修道者の誓願「清貧・貞潔・従順」とは何だろうと思っていたが、
一切の執着を絶つ事らしい。
清貧は被造物への執着(物欲)を断ち切る事、
貞潔は人間への執着(他者への情や怨恨)を断ち切る事、
従順は自分自身への執着(自己愛)を断ち切る事。


物凄く難易度高いな。
しかし達成すれば己の魂は
要らんものを全て捨てて身軽に、自由になれる。


で、私は修道者ではないが、
執着を捨てる事について考えるに、
自分などは一切の執着を絶つなど出来ようも無く、
世の修道者の方々は何と凄い請願を立てておられる事かと感じ入った。


それでは私という者は何に執着しているかと言えば、
どうしても捨てられないあれとかこれとかいうものが、
何一つ思い浮かばない。
あれもこれも自分自身も、案外どうでもよかったりする。

タイトルなし

2010-09-25 13:25:36 | 信仰
「嘆くのは今でなくてもいい、後でいい。
 何もかも終わった後いつでも出来るから。」


余計な事は考えない、
今しか出来ない事を出来るだけ、最大限する。
確かに、私にそう言ったご家族が実際いた。


苦しい闘いだという事はこの目で見て知っている。
それでも闘ってほしいと思う。
時間との闘いに打ち勝ってほしい。
主が力を与えて下さり、
共にいて支え、一緒に闘い、苦しんでおられる事を
私は確信する。
そのために出来る事、働ける事を模索し、
祈って神に願い求めようと思う。

“書いてある”(追記あり)

2010-08-28 22:52:14 | 信仰
先日、診察待ちが長くて耐えられず、
頭が痛いくせに手持ちの新約聖書を読んで
思い浮かんだ事を書こうとしたが
今月発売の月刊モーニング・ツー『聖☆おにいさん』を読むうちに
忘れてしまってがっかりしていた。
しかし、唐突に思い出したので書く。


(マタイ4;1~11)


荒野で40日断食して空腹のイエスに悪魔が誘惑の囁きをする。


ψ(`∀´)ψ「腹へってんだろ。
       お前が神の子なら石をパンに変えてみな。」


┐( - 。-)r=3 「パンに変えたからって石なんか食ってどーする。
       人間、パンだけじゃ世の中生きていけねーんだよ。」


ψ(`∀´)ψ「お前が神の子ならここから飛び降りてみな。
       神が天使達に命令して助けるって書いてあるから、
       飛び降りても死なないんじゃね?」


o( -"-)o-3 「ちゃんと読まんかいアホ。
       書いてあるからって飛び降りてどうする。
       飛び降りるちゅー事は神を試すっちゅーこっちゃ。
       ええ度胸や、よっしゃお前が飛び降りろ。」


ψ(`∀´)ψ「土下座してわしを拝みな。
       そしたら金も地位も権力もやるよ。」


ε-o( Д) ゜ ゜ 「いらんわ!
        お前に土下座してどーする。」



という会話だ。


第一の誘惑は、
「空腹なら、石をパンに変えてみろ。」
悪魔は生理的欲求によって神に向かう心を挫こうとする。
イエスは人間を生かしているのは食い物ではない事を指摘する。


第三の誘惑は、
「権力と富の総てをやるから私を拝め。」
悪魔は支配欲と所有欲によって神に向かう心を脱線させようとする。
イエスは神以外の何者にもひれ伏さないと宣言し、突っぱねる。




私は第二の誘惑に注目する。
三つの誘惑の中で、第二の誘惑は信仰者にとって罠だ。
巧妙な罠。


「飛び降りても天使が助けると聖書に書いてあるから
 ここから飛び降りてみろ」


実際に高い場所から飛び降りれば
当然人間は地面に叩きつけられて木っ端微塵、
砕けたスイカ同然になる事はわかりきっている。
信仰の無い人にとってこんな馬鹿げた誘惑は誘惑にならない。
しかし信仰者にとってはそうではない。


“聖書に・・・・・・と書いてある”という罠。


信仰者にとって、この第二の誘惑は、
「聖書の一字一句を字義通り鵜呑みにする」
という悪魔の巧妙な罠だ。
高慢と盲信の二重構造の罠で、
表向きは敬虔な模範的信仰者の仮面が被せてある。


「聖書に・・・と書いてある」という言葉を
信者同士で意見が対立し議論になった時に聞く事がある。
「俺の方がお前よりも聖書わかってんだぞ」と相手を見下す、
恥ずかしい知識自慢の意味を含んでいたり、
議論の席の自己防衛の盾として、或いは相手を言い負かす武器として
聖書の文言を自分に都合良く切り貼りして持ち出し利用する、
自称知識人の歪んだ自尊心を悪魔は巧妙にくすぐる。
読んで優等生か何かのように得意げになるなら
聖書など読まない方がましだ。


しかし、
「聖書に・・・と書いてある」という言葉を
幼稚な知識自慢ではなくもっと盲目的に、
鵜呑みとしか言いようの無い自己完結の仕方で
“書いてある”“書いてある”と連発する類の人達もいたりする。
熱心に聖書を読む真面目な信者なのに
感想を話し合い分かち合う事が全く出来ない。
共感するものが何も無い。
何故なら彼らは
どの人も共通して聖書に書かれた事に疑問を持たない。
聖書の文言に疑問を持つ事自体を罪深い事、禁忌として避けたがるので
お互いに同じ聖書を読んでいるのに対話が成立しない。
自分の行動や意見の根拠に聖句を引用して理由付けする。
何か言ったり何かする度にいちいち聖句を引用するので
日常会話がどえらく長い話になる。


「私は・・・を・・・・します。
 聖書の***の**章**節に・・・・と書いてあります。」


「聖書は考えたりしないで、幼子のようにただ素直に読むべきです。
 天国は幼子のような者達のものであると書いてあります。」


「聖書を自分で読んで解釈したりすると
 学者のように高慢になるから、難しい事は考えずに信じます。」


確かに、神学は人を救わない、人を救うのは神だけだ。
しかし、本当に一つも何も疑問を持たずに聖書を読めるものだろうか?
聖書に書かれた教えと現実の日常生活の出来事との間で生じる矛盾に
葛藤や苦痛を感じて神に向き合おうと祈ったり、意味を考えたり、
本当にしないのか?


「・・・『神があなたのために天使たちに命じると、
 あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」(マタイ4;6)


聖書にそう書いてあるから考えずに信じる、信じて飛び降りるのか?
書いてあるからって、いいのか飛び降りても?


悪魔の第二の誘惑はこういう罠ではないかと思う。
聖書を読んで自分の心の奥底に起こる思いを正視せず、
聖句の意味を吟味せずただ鵜呑みにする事は
生きた生身の人間の信仰だろうか。


聖書を読んで生まれた疑問は大切にするべきだ。
封じるべきではないと思う。
その疑問から祈りが生まれる。
神に祈る事、神と向き合って神に聞く、
祈りは疑問から始まるものではないのだろうか。
到底信じられない事柄も、納得いかない事も、
どうしてそうなるのか神に聞いて答えが示されるのを日常で待つ。
私の場合、祈りはいつもそうやって生まれる。
心の奥底の疑問を認めないで聖書を読んでも
それは死んだもの同然、
呼吸をせずに飯を食おうとするようなものではないか。


よく気をつけないと、
真面目に熱心に聖書を読めば読むほど第二の罠に引っ掛かる。


聖書に書かれた事柄を字義通りに丸呑みする読み方は
真面目で熱心なようでいて実は怠惰な読み方ではないか。


字面だけを追って、
前後の文脈を把握して適切に理解する努力をしない。
書かれてある事柄を自分自身に置き換えたり
教えと現実との落差に気付いて苦悩する事を回避する。
書かれた事柄を通して神から自分に与えられた課題に向き合わず
無い物として目を逸らす。


自分の頭と心を惜しんで感性の鈍磨した、
疑問を認めず神に「何でですか」と問う事もせず、
自分自身で咀嚼する事すら放棄した、
ただ丸呑みし嚥下するだけの、死人のような怠惰な読み方。


怠惰だから聖書に疑問を持たない。
怠惰だから信者同士でしか通用しないクリスチャン用語を
会話の中で連発する。
怠惰だから、
人間を二分化して理解しようとする。
救われた自分達と救われていない未信者との二分化。


「私達は救われたクリスチャン、
 クリスチャンは救われて天国に行くと聖書に書いてあります。
 クリスチャン以外は救われていないノンクリ。
 ノンクリの人達のために祈ります。
 早く私達と同じように救われて天国に行けますように。」


この怠惰で短絡的な思考回路こそが悪魔の第二の誘惑。


ああ。
やはり悪魔はあくまで悪魔だな。
書いていて吐きそうになってきた。
アレルギーだ。
この辺でやめとこ。

福音書読んだけど

2010-08-24 22:01:29 | 信仰
今日、脳外科の待ち時間があまりにも長くて
頭が痛いくせに退屈に耐えられず、
普段持ち歩いている新約聖書を
マタイ1章から読み始めて
診察に呼ばれるまでに「種蒔く人のたとえ」まで
読み進んでしまった。
どれだけ待たせるんじゃ。怒)
福音書には新たな発見がまた幾つかあった。
帰宅して少し睡眠を取ってから
信仰ネタのブログに書こうと思った。


しかし
診察終わって病院を出たら近くに本屋が。


昨日内科で新しく処方された薬を調べるための
薬理の本を買うついでに
月刊モーニング・ツーも買った。


『聖☆おにいさん』の
海開きネタと鳩の父さんがツボにはまって
せっかく待ち時間にマタイで発見したブログネタが
何処かに消し飛んでしまった。泣)

じじとヨハネを読んだ。

2010-04-03 22:30:00 | 信仰
自分一人で福音書を読んでいる時には
福音書の中に入り込み過ぎて
ペトロに感情移入して泣けてきてどうにもならなかったが
じじ宅で自分が朗読したりじじに朗読させたりすると
多少は冷静に読む事が出来た。


夕方、外は寒かった。
とりあえず珈琲を沸かし、
ストーブの傍でじじと一緒になって
珈琲を啜りながら聖書を開いた。


読み終わるなり、じじは感極まった声で言った。


「何かこれ小説みたいだなぁ。」


いや、事実は小説より奇なり。
イエスキリストは死んで三日後に甦り、弟子達の前に姿を現された。


じじと珈琲を飲みながら、
しばしイエスの教えられた無条件の赦しについて語った。
甦られた主イエスが、
ご自分を裏切って見殺しにした弟子達を責めずに
「おいで、朝飯食べなさい。」と言って炭火を起こし、
魚を焼いていた。


土壇場で師を見捨てて逃げ出した弟子達が
もし甦られた主イエスに出会わなかったら
「オレはダメな奴だ」と自分自身に失望し自己嫌悪のまま
生涯を終えた筈である。
しかしペトロはじめイエスの受難の時にあれ程不甲斐無かった弟子達は
その後迫害の中で命を懸けて宣教の働きをし、殉教した。
復活したイエスに出会って、
不甲斐無い弟子だった自分の裏切りを
無条件で赦して頂いたという事実が無ければ
確信を持って福音を語る事など出来ようも無かったであろうし
まして大勢の群集に宣教して多くの人の心を動かすなど出来る筈も無く、
その後の新しい信仰者達を誕生させる事もなく、
後世に福音を語り継ぐ事も無かったであろうと思う。
聖書だって書き残される事も無かったであろうし
2000年後の今の時代に私達がイエスの教えを受ける事など
有り得無かったであろうと思う。
そんな話を
私はイエスの復活についての自分の考えとしてじじに語った。


一番重要な事は、イエスの教えられた赦しは
この世の「許してやる」とは別物であるという事。
イエスは相手が悔い改めようと悔い改めなかろうと
反省しようと反省しまいと
償いを要求せずに無条件で相手を赦した。


被害者の立場で高みから相手を見下して「許してやる」のとは違う。
大晦日にじじが私に語った、
相手が死んだ今に至ってもじじが生涯どうしても赦せない、
あの継母に対しても、
主イエスはじじに赦す事を望まれている。
イエスはイエスが弟子達を無条件で赦したと同じように
じじにも私にも誰にも赦せない相手を無条件で赦し
受け入れる事を望んでおられる。


簡単な事ではない。
しかし主の祈りを唱える時、
私達はイエスから突きつけられた課題に対して
「私も赦します」と宣言している。
主の祈りを唱え、
口で赦しますと宣言しながらいつまでも赦さないのは
偽りの祈りを捧げて神を欺くのと同じ。


じじは一言、「難しいな」と呟いた。
難しいんだ。
私達はいつもこの事で、これが出来なくて苦しんでいる。