ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

いちいち泣いて帰ってくるな

2006-10-31 23:37:26 | 日常
シスターみみっくさんの
本日の記事に触発されたので、
私も書こう。


私にもいじめられっ子の時代はあった。
3~4歳頃まで。
泣かされてよく家に逃げ帰っていた。
しかし
夫に対する不満と舅に対する恨みと
子育てに嫌気が差していた母は、
私が泣いて帰ると


 「うるさい。
  いちいち泣いて帰ってくるな」


と言って戸を閉めた。
もともと
いじめを受けるという状況に対して免疫はあった。
外にいるクソガキなんぞ
生まれた家庭にいる父親と母親の
理不尽な八つ当たりや折檻に比べたら
屁みたいなものだった。


小学校に入学して間もなく、
学校帰りに学校の敷地の隅で
大して面識もない
隣のクラスの女の子が私にガンを飛ばし、
胸ぐらを掴んで突き飛ばし、
そのまま馬乗りになって殴ってきたので
私は手近にあった石を咄嗟に掴んで
相手の額をしたたかに殴りつけた。


 (※当時は舗装道路も少なくて、
   結構大きめな石がゴロゴロしていた。)


相手は予想外に大無きした。
狂ったサイレンみたいに泣き叫ぶ相手の
これ見よがしな被害者面に苛立った私は
癇癪を起こしてランドセルを放り投げて帰宅した。
やり返されて泣くぐらいなら
初めから人にケンカなんか売るな、と思った。
担任の教師が後で
母親にランドセルを届けに来た。


 (※この担任教師は精神を病んでいた。
   異常なヒステリー女で
   私達生徒のちょっとした何かが気に入らないとか
   生徒が思い通りにならないとかで
   訳のわからない逆上の仕方をした。
   今思い出しても完全に基地外。
   学校教師になりたがる奴は
   こういうのが多いと思う。
   先生と言う敬称で呼ばれないとすぐ感情を害し
   生徒に対する支配欲をコントロール出来ない。
   私の出合った学校教師とは
   多かれ少なかれそういう人種だった。)


この事で
私はその夜両親からこっぴどく折檻された。
理由は学校でケンカしたからではなく、
面倒を起こして親に恥をかかせた事と、
健康的に故障の多い私が
内科、耳鼻科、歯科、整形外科と
病院通いばかりする経済的負担が主な理由だった。
当時私は母親からよく「金食い虫」と呼ばれていた。


親にも
教師にも
相手が大人だという理由だけでは
頼ったり
何ら信用に足る者など
この世にいないという現実を
私はこの時期に体験し学んだ。

教会の姿

2006-10-29 22:08:39 | 信仰
写真は牧師館の西表アサガオ。


今日礼拝の後、
ヘルパーからの情報で、
老父が教会に来ている子供達に
何かあげたがっていたと聞いた。
教会に出かける間際になってうろうろ、


 「今日は子供が何人来るだろうか」


 「何か子供にあげられる物はないか」


しまいには


 「老健の売店に行って甘酒を買って来てやろう」


などと言い出して
ヘルパーを困らせたらしい。
(老健の売店は今日休みだってば。
 それに
 子供は甘酒なんて好きじゃないと思う。)
土曜日の夜に
「明日の教会行きは・・」と気にして
そわそわしていた理由がわかった。
老父は子供達に会いたいのだ。


この父親が子供好きとは知らなかった。
私が子供だった時は
疎まれた記憶しかないからだ。


しかし
これが本当なんだな。
教会には子供がいて年寄りがいて、
若者も働き盛りもいる。
いろんな世代が一つ屋根の下に共存する「家族」。
教会の姿。


来月、
私は日曜日が仕事で完全に塞がって全滅だ。
老父は今日でまる1ヶ月、
教会の主日礼拝に通った事になる。
2、3週目の日曜日で
「行きたくない」と言い出すかと思っていたが、
予想外に喜んで教会に来る。
ヘルパーが協力的なので助かる。
来月も多分皆勤だな。
私の代わりに説教を聞いてきて頂こう。

信じる者の責任

2006-10-29 07:21:49 | 信仰
教会に集う人々のうち
招かれていない人は一人もいない。
人は招かれ、運ばれて、教会に集められる。
私達はキリスト者になって
万事何もかも安泰という訳ではなく、
むしろ悩みや問題だらけだ。
しかし私達は同じように悩みや問題を抱えており、
お互いにとりなしの祈りを捧げながら支え合っている。
そこに神の国が実現していると私は信じている。


水曜夜の聖書研究祈祷会では
ローマ人の手紙を読んでいる。
パウロの言う
「先に信じた者の責任」を考えさせられた。


キリストと出会って助けられ生かされながら、
そしてそれを自覚しながら
自分は責任を果たしているかどうか。


まだキリストと出会っていない、
まだ信仰の恵みを受けていない人に伝え、
教会という家族の中に迎え入れるという使命が
自分に課せられている事を私は知っている。
しかしその使命の責任を私は果たしていない。


先に神を信じた者は
まだ信仰の恵みを受けていない人々に対して責任がある。


では何をしなければならないか。
ただ教会に人を引っ張って来る事ではない。
日々の生活の中で
神を信じる事が出来ずに苦しんでいる人の
苦しみ悩みにかつての自分を思い出し共感する事。
そして耳を傾けて話を聞き、
共に見て共に歩く事。
まず第一に捧げるべきものは時間。
自分の時間。


主イエス・キリストが何故あれほどに
当時のユダヤの宗教的指導者達を批判したか。
それは選ばれた者の責任を果たさなかったから。


牧師先生が解説して下さった。
天の父なる神は
お造りになった全ての者を救う事を願って
そのためにイスラエルの民を選び、
宗教的指導者達を立たせ、
仕える者達としてお選びになった。
しかし
彼らは信仰の恵みを他者に分け与える事をせず
特権化してしまった。
自分達こそ神に選ばれた者、
自分達こそが一番よく神を知っている、
という特権意識を以てあぐらをかき、
迷う者や異邦人達を見下し虐げた。
神に選ばれて宣教の使命を担っていたはずの
宗教的指導者達は特権意識を以て
天の父なる神の救いの意図を捻じ曲げてしまった。
だから
父なる神は一人子を世に送られた。
全ての人々を救うために。
神様は
救われる者と救われない者とを
分け隔ててお造りになったのではないのだ。
先に神を知り、
信仰の恵みに与った者を通して
まだ神を知らない者に救いが及び、
全ての者に信仰の恵みが行き渡る事を願われたのだ。
では
信じる者となった自分は
信じる者に課せられた使命を果たしているか?


ローマ書は受洗以来
何度も読んできた。
しかし
私は今まで聖書の何を読んでいたのだろう。
ここまで学んで気がついた。
私達キリスト者も
バリサイ人や律法学者同様、
同じ事をしてきたではないか。
中世近世の歴史は言うまでもなく、
今まさにそうではないか。
国際情勢レベルの話だけではない。
私達キリスト者は
救われた者の特権意識にあぐらをかいていないか?
まだ信仰の恵みに与っていない人々を
見下してないと言い切れるか?
洗礼を受けた自分達を「クリスチャン」と呼び、
それ以外の人を総じて


「ノンクリスチャン」


「ノンクリ」


「まだ救われていない人」


信仰の恵みを受けていない人を
こんな蔑称で呼んで
「救われた自分達」と「そうでない人」とを区別し、
分け隔て、識別したがる。
「自分は神を知っている」という優越感を以て
信仰の恵みにまだ与っていない人を見下す。
これが特権の上にあぐらをかく行為でなくて何なのか。


私は自分自身に危機感がある。


私達の教会に求道者が何人も与えられている。
私にとって、
まだこの地に来て間もない新参者だった時から
友達になってくれて、
教会に出られない事の方が多かった時期に
魂が萎えていても
忠実に礼拝を守っていた求道者から


「井上さん、お久しぶり!」


の一言で迎えて貰えた事で
どれだけ心を軽くされ慰められた事か。
そんな人々に対して私自身は
先に信じた者の責任を果たしているか。
彼らが今何を悩んで
教会に来ながら
キリストを救い主と告白出来ずにいるのか、
私には知らされていない。
しかし主なる神がご存知だ。


 「招かれ、運ばれて教会に来ている人は
  既に御手の中にいる。
  私はそう思います。
  まだ洗礼を受けていない皆さん、
  その事に気づいて欲しい。
  洗礼を受けて欲しい。
  イエス・キリストと共に苦楽を共にしませんか。」


私は先月の礼拝でメッセージ奉仕の中で
心からそう言ったし、
臆面も無く月報にも書いた。
(うちの教会の場合、
 メッセージ奉仕をした教会員は
 話した事を文章化し
 翌月の月報に載せる事になっている。)


ローマ書を読んで、
パウロから言われた気がする。


 「気づいて欲しい」じゃないだろ。
  自分がまず気づけ。
  気づいて仕えろ。
  責任を果たせ。

明日は日曜日

2006-10-21 23:11:21 | 信仰
今夕、
老父は早々と就寝していた。
私は父宅に行って
明日の教会行きの用意をしてきた。
父は目を覚まし、
明日ヘルパーが来るかどうか、
どのヘルパーが来るか、
ちゃんと教会に連れて行ってくれるかどうか、
しきりに気にしている。
今月初めから日曜日は教会に行き始めたが、
明日で4週め。
父の中では既に日曜日は教会に行くものと
習慣化しつつある。
これも
主なる神と、
教会の牧師先生夫妻と教会の兄弟姉妹のおかげ。
そしてヘルパーの協力のおかげ。
来月は
私は勤務のために1ヶ月間日曜日が塞がっている。
つまり11月は1回も礼拝に与れない。
その事を父に話し、
「私の代わりに牧師先生の話を聞いてきて」と、
話したら、
妙に嬉しそうにしていた。
身支度して、
必要なものを用意して、
車椅子に乗って、
車椅子をタクシーに積んで、
昼食をどうするかの段取りをし、
ヘルパーと時間配分を打ち合わせし、
随分手間隙がかかって
教会に行くだけでも大変なのに
父は
先週も先々週も、
前夜から教会に行くのを楽しみにしている。
教会が父にとって
病院、デイケア、馴染みの喫茶店と同様に
重要な「馴染みの居場所」になる事。
それが目下の目標。
クリア出来たら、
やっと次に進む事が出来る。
天の父なる神様、
教会の皆さん、
どうぞよろしく。

ひどい話

2006-10-21 09:41:42 | 日常
老父はこの1年、
デイケアとヘルパーと教会によって
脳を連日刺激されたためか、
最近よく笑いよく泣き、よく喋る。
1年前の
廃用性症候群を在宅で絵に描いたような生活とは
ドえらい違いだ。
ニュースを見てよくコメントもする。
1年前はありえなかったことだ。


一昨日、
何見て泣いてるのかと思ったらテレビ。
奈良の妊婦死亡事件、
老父はニュース見て泣いてた。
妊婦が18も19も病院を盥回しにされた挙句、
何とか子供は生まれたけど
脳出血を見落とされて生命を落としたニュース。
病院も医者もバッシングにあってるんだそうな。


インタビューで
赤ん坊を抱っこしたご主人が泣きながら、


「(妻は)あんなに
 子供が生まれるのを楽しみにしていたのに
 この子を一度も抱っこ出来ず、
 一度もこの子におっぱいをあげる事も出来ず、
 病院を盥回しにされて挙句に誤診で
 生命を落としました・・・」


じじでなくても泣ける。
しかし
医療従事者だからって
かばうつもりは全くないが、
病院も医者も大変だね。
この現状。


産科と小児科の医師は本当に少ない。
私の住んでいる北海道釧路市でも
小児の急患重患を夜間救急で受け入れても
診る事が出来るのは市立、日赤くらいかな。
しかし市立も医師不足で
来年からの小児医療の夜間受け入れは
なくなるという話だ。
本当かな。
本当なら大変な事だよ。
完全決定ではないのだろうが、
人材不足で
大学が医師を派遣してくれなくなると聞いた。
市内で開業医の小児科も減った。


消化器外科で昔一緒に働いてた元同僚が
今、市内の総合病院で唯一頼りになる小児科に
転職しているが、
日勤で1時間早く7:30に出勤して
出来るだけ早く仕事を終えようと努力しても、
勤務を終えて帰宅するのは
夜の9、10時、
一番ひどかった時は
日勤でも連日午前1時とか2時に帰宅していた。
とんでもない時刻にメールが来た事があって、
夜勤の休憩か?と聞けば、


 「いや、日勤で今帰った。疲れた。腹減った。
  休憩に入れなくて昼飯食べられなかった。
  でも残業になってしまって
  早く帰りたいから晩飯食べずに頑張ってたら
  重患が来た。
  人工呼吸器と人工透析だよ。子供に。
  気がついたらこんな時間になってた。」


で、
この元同僚はこの翌日も日勤だったので
また朝7:30から出勤した。
月給は毎月ボーナス同然らしいが、
消化器外科で一緒だった頃には
美肌を誇っていた彼女は現在
吹き出物に悩み、
体脂肪と体重が増えて浮腫みも出て
人前に出たくないと嘆いていた。


暴言を吐き
エゴイスティックで
傍若無人な言動行動をするヤンママ達と
関わるだけでも
頭痛と胃潰瘍と吹き出物の原因の一つになる。
胃が痛い胃が痛いと言うので
消化管穿孔で緊急オペなんて
シャレにならない事態にだけはならないでよね。。。って、
真面目な話。


ま、これも
小児科医療の現実の一端。
元同僚はまだ若い。
頑張って働いてキャリアと金貯めて
いずれどこか違う分野に羽ばたくであろう。
こんな仕事、
やってられっかい辞めてやると思いながら
皆頑張ってるさ。
でも自分自身が燃えカスの消し炭にならないうちに
心身ぼろぼろで再起不能にならないうちに
なよ、
と私は思っている。


本当、あなた達はよくやってると思うよ。
私には出来ません。

孤独という地獄

2006-10-18 01:19:14 | 信仰
これは、
ある意味本当に恐怖の体験かも知れない。


地獄について考えた。
孤独という地獄。


私の受け持ち患者だったある男性は、
食道癌の術後再発で末期に至る過程で
鎮痛剤のコントロールがまずかったのか
元々いろいろな苦痛を表出しない、
明るく温厚な人だった分、
心の内側に苦悩や不信感を溜め込んでいたのが
鎮痛剤によって心理的な抑制が外れたのか
ある朝突然不穏になった。
興奮して暴れだし、
夜勤だった同僚の持っていたステート(聴診器)を奪い、
それで同僚の頸を絞めた。
物音で飛んで来た師長を突き飛ばし、
床頭台の引き出しからナイフを取り出して
自分の喉元にあてて身構えた。
目がぎらぎらしていた。


「こんなに苦しんでいるのに
 お前ら何してる。
 死んでやる。」


主治医が鎮静剤の注射を持って病室に入った。


「何だその注射は。
 お前が自分で自分に打ってみろ。」


師長がなだめようとした。


「○○さん
 落ち着いて。
 話を聞いて。
 ナイフをこっちに頂戴。」


その人は
自分の喉元にあてていたナイフの刃先を
師長に向けて振りかざした。


たまたま
そんなに緊迫した状況とも知らない私は
その場に足を踏み入れたのだ。
絞め殺されかけた同僚から聞いて
鎮痛剤による譫妄かと思い
様子を見に来たのだ。


病室に一歩入った瞬間、
その人に腕を掴まれた。


「さぁ、
 行こう!
 あんたも行こう!」


私は無我夢中で説得した。


「わかった、
 わかったからまず横になりましょう。」


そう言った私の方に
その人の関心が向いた瞬間、
主治医と師長と他の看護師達が一斉にその人を抑えて
ナイフを手から毟り取った。


そのナイフは、
その人の家族が果物でも食べなさいと
差し入れたナイフだった。
しかし
食道癌の再発末期のその人は
口から物を食べる事も飲む事も
既に何ヶ月も前から出来なくなっていた。
家族はその人の病状を
どこまで理解していたのだろう。
経口摂取不能になっていたその人に
何の果物を
剥いて食べさせるつもりだったのだろう。


家族の関心も理解も得られない中で
その人はずっと
孤独な戦いをしていた。
一人っきりで癌と戦っていた。
私にはわかる。
その人は生きながら地獄にいた。
家族の理解を得られず、
思いを傾聴してくれる友人も無く、
診断も治療方針も信じられず、
医師も看護師も信じられない、
誰一人味方になってくれる者を見い出せない、
孤独という地獄の中で
たった一人、
癌と戦わなければならなかったのだ。

主治医は鎮痛剤の量を上げ、
その人が再び覚醒した時には
朝の事など全く覚えていなかった。

その人が息を引き取る時、
受け持ち看護師として見送ったのは私だった。
私の準夜(16:30~1:05)勤務の時、
その人の顔は既に死相が表れていた。
私はその人の見開いたまま乾いた眼球を
濡れコットンで閉じた。
心拍は40を下回っていてた。
血圧、酸素飽和濃度は測定不能、
1分間に40秒以上の無呼吸が続いていた。
家族はベッドサイドの椅子に座って
雑誌を読んだり、
他の病室の患者と立ち話をしていた。

その晩は、
術前術後の患者と
末期癌の患者がたまたま多くて、
処置や指示変更が多く、
私はその人の病室を最初に見て、
真ん中でまた見て、
その後で術後の指示変更や急変に対応し、
何とか消灯の5分前、20:55に
他の全ての病室を回り終えて
その人の病室に3回目に辿り着いた。
その人はまだ呼吸をしていた。

家族に挨拶し、
開いたままの口が乾燥してしまうので
口腔清拭をしようとして
濡れガーゼを手にとって顔を覗いた瞬間、
その人は2、3回ほど
大きく深呼吸して、
すーっと長く呼気が続き、止まった。
そのまま心拍もフラットになった。
ちょうど21:00だった。

私は電話で主治医を呼んだ。
臨終宣告の後、主治医はICUに入って行った。
死後処置を終えて霊安室に搬送するために
再び主治医を呼ぶと、
電話の向こうの声は緊迫していた。

「今行く、今行くから、
 ちょっと待ってくれ。
 こっちでたった今、2人急変した。
 オレが搬送して家族に挨拶するから
 井上は残ってICUを手伝ってくれ。
 こっちは医者はいるけど
 夜勤看護師はたった2人しかいないんだ。」

ICUに行ってみると、
気管内挿管、心臓マッサージ、除細動の真っ最中。
修羅場だった。
21:00を1、2分回った時、
ICUの患者が2人一度に急変し、
2人とも同時に心肺停止したのだった。
2人のうち1人は蘇生する事が出来た。
1人は戻って来なかった。

そして、
その晩から10日の間、
急変と死亡退院が毎日続いた。
毎日1人ずつ。
11日目にやっと止まった。
病棟スタッフが何人か口々に同じ事を言っていた。
「ああ、
 あの人、やっと行ったね。
 やっと納得したんだね。」

あの時の、
あの人のぎらぎらした目と
あの言葉が頭から離れなかった。

「さぁ、
 行こう!
 あんたも行こう!」

自分は死ぬからあんたも一緒に来い、
という意味だった。

2006-10-16 23:26:21 | 信仰
空を見るのは大好きだ。

こんな風に

白い雲がどんどん形を変えて

青空の中を流されて行くのを

見るのが一番好きだ。

天の父なる神の御臨在を感じるから。

雲の隙間から

歌声のポリフォニーが漏れて

響くのを感じる。

歩きながら阿呆のように

上ばかり見てしまう。

このブログを始めた時、

最初の記事を書きながら、

ペロティヌスの曲を聴いて、

こんな光景を連想していた。

これも地震雲

2006-10-16 23:19:53 | 
これも多分地震雲。
東西に極度に長い雲が何層も、
空全体にシワを寄せたみたいに現れた。
でも、
この時の地震はそれ程大きくなかった。
3くらいだったかな。
他の地域の方がもっと揺れたんではなかったかな。

黒雲

2006-10-16 23:15:00 | 
これは
震度6の朝、
地震の大揺れの直後、
仕事場の中央材料室から
窓越しに撮った、阿寒方面。
阿寒の山の方から真っ黒な雲が
一直線になって迫って来た。
地震が大きい時は、
職員全員が即出勤する決まりになっていた。
老父も老母それぞれに電話がつながらず
安否がわからないまま
余震が続く中で
職場の棚の落ちた物を片付けた。
たた眺めるだけなら
こんな黒雲も迫力あって面白い。

地震雲

2006-10-16 23:05:45 | 
空の橋から端まで東西に、
空いっぱいに、
長い筋雲が幾重にも現れて、
美しかったので
その場で携帯で撮った。
その10日後に
震度6の大地震が来た。
地方紙の1面に『地震雲』と題して
これとほぼ同じ時刻、
同じ方角を撮った、
もっと大きな写真が出ていた。
新聞記事の写真の時刻と方角を読んで
初めて
この携帯で撮ったのは
ただの筋雲ではなくて
地震雲だったと知った。
そう言えば見た時に
ただの筋雲にしては異常に長いと思った。

橋の上

2006-10-16 22:37:56 | 散歩
受診の帰りに坂を下りて少し歩いた。
橋の上にカメラや携帯を構えた人が
たくさんいて、
何してるのかと思ったら、
河口の先に見える海に太陽が沈むのを
皆で撮っていた。
私もそんな観光客に混じって
ちょっと撮ってみた。
うーん。
携帯だと
太陽のぎらぎらした赤さと巨大さが
いまいち出ないなあ。