仕事休みなので鶏肉のカレーを仕込んだ。
少量であればカレーは何故か胃に響かない。
玉葱の大玉3個を飴色になるまで炒め、人参もしつこいほどよく煮込む。
強く煮込むなら肉は鶏が良い。
辛味を抑えて完成した。
良い出来具合だったので電話で母に食べるかと聞いたが
口の中が荒れているからカレーは要らないと言うので全部自分用になった。
小分けしてラップで密封し冷蔵する。
食べてみたが久しぶりでウマい。
米飯は120g以内だと胃に響かない。
・・・・・
洗濯と台所の洗い物を済ませ、一息つく。
ネットも見るが、本も読む。
水出し珈琲を仕込んだので今朝、MOWのバニラをアフォガードにした。
MOWはアフォガードにしてもウマい。
映画「ゾウを撫でる」を見ている。
この映画も好きだ。
“羅生門のような夜に”
地下のバーでウィスキーのボトルに客が書いた文言に歓喜する。
土砂降り雨の夜のシーンは感慨深い。
・・・・・
たった今、無駄に電話がかかって来て逆上し携帯電話を叩き切った。
電話は母からだった。
昨日休みで教会帰りに様子見に立ち寄って安否確認した。
今日は午前中カレーを仕込んだと連絡を入れた時に口内炎があるからやめておくと言ったが
体調は特に変わりない様子で普通に電話を切ったばかりだ。
それが一息ついていると今度は母が電話を鳴らす。
「昨日休みだったのに、さっき電話くれたから、あれ?仕事行ってるのかなと気になって」
シフト上2連休だから今日も家にいるが何か問題でもあるのか?
特に用は無いけど、と言って母は聞かれもしない自分の体調についてだらだらとりとめなく喋り始めた。
何の用件も無く「ただ気になったから」というだけで話の口火を切り、
そこからだらだらと自分の思いつきや不定愁訴を延々と垂れ流す。
私の休日は貴方のげろバケツのためにあるのではない。
この時間泥棒。
体調については午前中の電話で聞いた。
差し当たってもう用は無い。
こちらの仕事がシフト制で不定期の休みである事や、定時に帰宅する事は常に無く、
帰宅のついでに立ち寄る時刻が18:00であれば「あら?今日は随分早いね、仕事行ったのでなかったの」
19:00過ぎれば「仕事随分遅いんだね」と、そこからだらだらぐずぐずと己の体調を喋り出し
不定愁訴を垂れ流す。
その無駄な喋りのために玄関先に立って何分も時間を無駄に費やし、仕事帰りの疲労が倍増する。
体調→不定愁訴→誰かの個人的な事情つまり噂に脱線し迷走する。
安否確認だけは毎日怠らないようにしなければ、父の時のように人知れず室内で倒れていたと言う事態が起こり得る。
実際母も昨年トイレで気絶し転んで顔面強打して自分で覚醒し翌日の夜になってから事後報告があった。
こういう前科があると話を聞きたくなく顔を見たくなくても日に1回は訪ねて安否堪忍をしない訳にはいかない。
訪ねないとしても電話だけでもかける事にしている。
物心ついた時から私はこの女とは会話が成立しない。
自分の体調のあれこれや、身の回りのほんの僅かな狭い人間関係を根掘り葉掘りぐたぐたと
一方的に垂れ流すのみでこちらが聞いていようといまいと仕事帰りだろうと夜間の急変待機だろうと
母は自分の喋りを垂れ流す事にしか意識が向いていないためこちらの話は一切聞いておいない。
こちらが聞いても聞かなくても3時間でも4時間でも、何時間でも自分語りを喋り続ける。
用件だけ簡潔に言えと言って電話を叩き切った。
私はあの母親とは会話をしたくないのだ。
最近、胃痛だけでなく、食べると嘔吐するようになった事とは無関係ではないかも知れない。
物心ついた時からこの女に対して不信と警戒心が消えない。
年老いて我欲の塊になってくるとなおの事、嫌悪感が強くなった。
頭では寂しい独居老人である事を理解している。
医療福祉の人間としてしなければならない事はする。
しかし親だの子だの、個人的な関わりをしようとするとアレルギーが起こる。
亡き父は今の母とは逆でADL自立の頃は私を排斥し、
認知症が進むと昔父が子供だった時に虐められた継母や作法に厳しかった父の祖母と子供である私とを混同した。
父が私を殺そうと刃物を隠し持っていたのがヘルパーによって発覚し、精神科受診につながった。
脳血管性の認知症と統合失調の診断がつき、精神科医から助言を受けながら父の在宅介護生活を続けた。
母にはまだ認知症の兆候が見られない。
年齢なりの記憶の衰えが少しある程度だ。
元々若い時からの狭心症持ちで自分の気に入らない事があると「発作」を起こして自分の言い分を押し通す。
父と離婚する時には味方をしてくれない子供である私に気違いじみた電話や手紙を寄越した。
自分の言い分を押し通すために嘘をつくのは当然、自殺を仄めかして人を脅す事もする女である。
この母親と関わると自分が阿修羅になる。
父がその父親や継母達から受けた理不尽な扱いに抵抗しない子供であったように、
私も死んだ父やこの母親から受けた折檻や暴言に抵抗しなかった。
抵抗する術を2歳や5歳の子供は持ち合わせていないがその内側は呪いで満たされている。
ジョージ秋山の名作『アシュラ』の人間像は私自身そのものである。
しかし同時に、このように邪険にして明日の夕方部屋で母が人知れず冷たくなっていたら、とか
先日のように勤務中或いはそうでない時に病院から私の携帯に母の心肺停止を知らせる着信があったら、とか
そのようにして最期の対面も無くこの世での別れの日を迎えたら、自分は後々後味悪く後悔するだろう、とか
父の生前の時と同じ強迫観念がある。
親と言うものは必ず2人いる。
1人を見送ってもまだ1人残っている。
それも、父の時よりも介護制度は格段に貧弱なものと変わっており、以前なら何とか出来たものが
今の母には使えない。
父の時はいつも「疲れた、早く自分の人生が終わらないか」と思っていた。
今は胃が痛む。
親が先に逝くとは限らないものだ。
ものを通常通り食べられなくなった者から衰え死に向かうのは自然の成り行きである。
母は何十年も昔の、家族全員が揃っていた当時の観念だけでしか自分の子供を認識しない。
安否確認に行くと料理したものをくれるが昔よく食べていたものを今の私は食べる事が出来ない。
胃が受け付けないからだ。
日本人の食生活で必ず好んで多用される味噌、醤油、砂糖、味醂の味付けが今の私にはダメだ。
野菜も、繊維を細かく粉砕して少量しか食べられない。
胃が悪いし以前と違って夕食は食べない、食生活が完全に変わったと説明し辞退するが母は理解しない。
何度同じ事を説明しても全く受け入れず耳を貸さないので玄関先のしつこい押し問答にうんざりし
遠慮ではなく食生活が違うと幾ら言っても母には伝わらない。
しかしよく考えてみれば母は私の事を何一つ知らないのだ。
食の事だけでなく健康の事もどんな仕事をしどんな生活をしているかも、
この母親は私という人間を全く知らない。
無理も無い事だ。
18歳以降何十年も関わっていなかったのだから。
くれたものは食べられるものは感謝して食べてから電話で「おいしかったありがとう」と言わねばならない。
胃に残る食べられないものはとりあえず受け取って持ち帰り、冷凍庫に放り込む。
切り干し大根や野菜の煮物などは冷凍し後日時間ある時に半解凍状態で微塵切り作業をしなければならない。
刻んだものは炊き込み飯や炒飯の具にする。
完成した炊き込み飯や炒飯をまた安否確認に訪ねる時に母への差し入れにする。
何かで母がまた体調悪くなった時に食事の準備を手早く出来るように備えている。
こうして休日の生活時間は生き残っている親のげろバケツ役のために消費される。
そんなに長い期間ではない筈だ。
しなければならない事をしていればやがて自分の人生も終わってくれる筈だ。