ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

『バラバ』

2006-07-30 05:27:31 | 映画・DVD
原作P.ラーゲルクビストの『バラバ』は、
岩波文庫が確かあると思って探したら絶版になっていた。
イエス・キリストと引き換えに死刑を免れたバラバという男が
そのどうなったかは誰も知らないが、
バラバの人生に焦点を当てて想像を膨らませ、
葛藤の中で生き延び神を求める人間の姿が描かれている。
神を信じなかったバラバが硫黄鉱山での苦役の中で
一人のキリスト者と出会ってその殉教を目の当たりにし、
葛藤と試行錯誤を繰り返しながら
次第に自分の中に神を求める心を見い出していく。
バラバの神に対する反発や迷い、
葛藤に共感するところがたくさんある。
もっと詳しく原作を読んで考えたいと思っても、
原作の岩波文庫は絶版で再版の見通しもないらしい。
(ノーベル賞受賞作なのだそうですが。)
映画としても面白くてすごくいいのに、
VHSも廃盤、DVDもなし。
大昔、近所のレンタル屋でダビングして貰ったものが
手元にあってたまに見るが、
もうテープが伸びてきている。限界だ。寿命だ。
そのレンタル屋も親元の電気屋が倒産して今はない。
この映画、監督はR.フライシャー、
主演バラバ訳はアンソニー・クイン、
共演にシルヴァーナ・マンガーノ。
当時見つけたレンタル屋では
主演男優がアンソニー・クインだからなのだろうか、
アクション映画の棚に分類されていた。
アメリカ映画にしてはすっごくいいのに。
いい映画なのに・・・。


波乱万丈の果てに、
放火犯として投獄されたバラバは、
牢獄で20年ぶりに再会した使徒ペテロと問答する。
これから処刑されようとする2人の会話は、
作者の一番言いたかった事なのだろうか。
私はこれを深く読みたいのだが、
原作が手に入らないので映画の台詞(それも字幕)から
読み取るより他にない。
そんな訳で『バラバ』のテープは終わりの部分だけ
巻きが乱れてもうぼろぼろ。


(バラバ)
「はっきりしねえ神様だな。
 いろいろな希望や天使や約束、みんなどこに消えた?
 最後に残るのはいつも死体だけで何の成果もない。
 犬死にだ。」

(ペテロ)
「殉教者の死は無益だと言うのか?
 この20年の君の苦しみは無益だと言うのか?
 いや、人間はそれほどつまらん存在ではない。
 神から見れば1人1人が1つの世界であり
 慈しむべき存在だ。」

(バラバ)
「おれは教えと正反対の人間だ。
 イエスは何故おれの身代りに死んだ?」

(ペテロ)
「正反対だから近かったのだ。」

(バラバ)
「今でも近づいていない。」

(ペテロ)
「遠ざかってもいない。
 主は常に君の近くにおいでになった。
 よく聞きなさい。
 君が心の中で激しい闘いを繰り返してきた事、
 それ自体が神への道であり、神を知る道程だ。
 その心の大波が王国を招く。
 陣痛に似た心の闘争からやがて尊いものが生まれる。
 我々は先立ちだ。
 地上が神の王国になる姿は見られない。
 しかし今こんな状況でも目的には到達している。
 王国は我々の中にある。
 恐れるものは何もない。」

作者が小説の中でペテロに言わせたこの台詞を
私は今も反芻している。
やっぱりちゃんと読みたい。
しようかな。古本屋巡り。

夏の納豆メニュー

2006-07-29 18:24:22 | 
1.納豆チャーハン
 1.冷ご飯を冷蔵庫で冷やしておく。
 2.納豆をしっかり混ぜて糸をよく出させる。
 3.混ぜた納豆をざるに入れ、流水で粘りを洗い流す。
 4.納豆の水気を切って器に入れ、めんつゆに浸す。
  (めんつゆの量は納豆全体が浸る程度)
 5.長葱を刻んでおく。
 6.フライパンに油を引き、よく加熱する。(強火)
 7.冷ご飯を炒めながら木のヘラで完全にほぐす。(強火)
 8.ご飯に熱が通って艶が出てパラパラしてきたら、
  鰹節と黒胡椒を振りかけてさらに混ぜる。(強火)
 9.納豆をめんつゆごと加えて混ぜる。(火力全開)
 10.刻み葱を加えて手早く混ぜる。
 11.火を止めて余熱でしばらく混ぜる。
 12.皿に盛り付けて、刻み海苔をかけて食べる。
 注意:混ぜる時は斜めに切り目を入れるように混ぜると、
    ご飯がべたつかない。
    納豆は粘りを流さずに使うと全体がダンゴのように
    固まって独特の臭気が強くなるが
    それを好む人もいるのでそこんとこはお好みで。


2.納豆スパゲティ
 1.大根おろしを多めに作っておく。
 2.青じそを刻んでおく。
 3.納豆をしっかり混ぜて糸をよく出させる。
 4.混ぜた納豆をざるに入れ、流水で粘りを洗い流す。
 5.納豆の水気を切って器に入れ、めんつゆに浸す。
  (めんつゆの量は納豆全体が浸る程度)
 6.スパゲティを茹でる。(アルデンテ!!!)
 7.フライパンにオリブ油を熱して
  茹で上がったスパゲティを炒めながら
  茹で汁を少量加えて乳化させる。
 8.皿に盛り付けて大根おろしをたっぷりかける。
 9.納豆をめんつゆごとかける。
 10.青じそを乗せる。
 11.刻み海苔を振りかけて食べる。

黒猫

2006-07-28 05:37:07 | 信仰
ここ数日、
自分の内部の文章化しにくいものを
自分で読むために無理矢理書く作業をしていたので
ずっと出力状態だった。
消耗した。
出力状態の時は空腹を感じない。
睡魔も襲って来ない。
昨日の朝から起きていてそのまま今朝を迎える。
時間を意識しない。
カモメやカラスが騒ぎ出してやっと朝だと気づく。
こんな朝を、猫と一緒に過ごした事がある。


昔、宣教師が建てたという旧福住センターには
メノナイト教会の関係者が数人で共同生活をしていた。
老朽化して防火条例にぎりぎり触れそうなほどの
古い建物にはネズミが出た。
住人が貰って来たのか誰かが貰って来たのか
ネズミ捕りのための猫を飼う事になった。
それもまだ子猫をやっと脱するかどうかの雌の黒猫を。


その黒猫は自閉症だと住人が私に言った。
貰って来る前の飼い主の家で
まだ小さいうちから子供達に虐待されて
人間恐怖症状態になった猫。
誰かがドアを開けて入ろうとした瞬間飛び掛かる。
立ち上がろうとすると
逆毛を立てて敵対反応の姿勢をとる。
歩くと足首に噛み付く。
顔を覗き込むと奇声を発し、
目は瞳孔が全開になり、
怯えてわなわなする。
ネズミ捕りどころではなかった。
私はこの黒猫を面白がって猫じゃらしでちょっかい出したり
よくからかって遊んだ。


ある日、勤務先から近いこともあって
私はBSで放送される映画を録画しに立ち寄った。
(自宅のテレビはBS無しだ。今でも。
 どうせ1週間延べ30分位しか見ないから)
目的の映画の放映は午前0時過ぎ。
私はうっかりソファの上で撃沈した。
数人集まって食べたり話したりしていたが、
他の客や住人達は私の眠っている間に引き上げたらしい。
黒猫が私の肩や頭に手を掛けて何か訴えていたが、
夜勤明けだったので構っていられないほど眠くて無視した。


その黒猫、構ってもらえないとなると
意地でも構われたいのか、
私の頭にパンチしたり髪の毛をしゃぶったりしていたが、
なおも無視していると、
急に足音を立てて室内を走り出し、
一周して私の顔面に蹴りを入れた。
私は起きて猫用バスタオルでぐるぐる巻きにして
床に転がしてやり、
そのまま部屋を出てドアを閉めた。
ちょうど30前。
いい時間だった。


知人が寄贈して行った大型テレビの前で
ロッキングチェアに座っていると、
ドアをがりがり掻き毟っている。
映画『ざくろの色』の前に
パラジャーノフのドキュメンタリーがあった。
ドアに体当たりしている。
『ざくろの色』が始まった。
しおらしい、哀れっぽい声で何か言っている。
うるさいので開けてやると
私の隣、テレビの真ん前のテーブルに乗った。
住人に怒られるぞと思って一度下に降ろしたがまた乗った。
暴れまわる様子もないし
面倒臭いのでそのままにした。


テーブルの真ん中には
住人の食べ残した菓子の入った大皿があるのに
全く興味がないらしい。
大きなテーブルの上の、
わざわざ端に寝そべって
私と顔を並べて
テレビの画面を見ていた。
目線がちょうど私と同じ高さだな、と思った。
人間と同じ目の高さでテレビを見たいのか?
飽きる様子もなく約90分間、
映画が終わるまで私の隣で
画面の中の人や物の動きを
凝視していた。
最後まで。


パラジャーノフの作り出した
音と色に酔っ払い、
寝不足も限界を超え、
私は意味不明の上機嫌になって
テープを巻き戻すと再び見始めた。
2度見直しているうちに、
途中でカラスが鳴き始めた。
外は薄明るくなっていた。
黒猫は
私がテレビの電源を落とすまで
私と顔を並べたまま
時々瞬きしながら画面に見入っていた。
体内時計が完全に狂ったなと思いながら
私も画面に見入っていた。
約4時間半。
小顔でなかなか美人だった。

偏愛的マンガ本棚

2006-07-26 23:54:38 | 読書
わが懐かしの昭和のマンガ。
今と違って書く人も読む小中学生もハングリーで、
私達子供にとってマンガの価値は高かった。
読むと頭が悪くなると言われて迫害され、
(迫害されなくても頭悪かったし)
友達の兄ちゃん姉ちゃんのをこっそり借りて読んだ日々。
何度かの引越しの度に手放して、
大半が売られて行った。
しかし
小中学生の時に買ったまま
後生大事に手放さず
まだ手元に生き残っているマンガあり。
または忘れられずに文庫版を買ったコミックスもあり。
昭和50年代になって高校に入った途端雑誌も単行本も増えた。
でも面白くなくなった。
マンガがそれだけで輝いてた、
懐かしの昭和40年代。


『おはようエルザ3』細野美智子著(1、2巻捜索中)

『スマッシュを決めろ!』志賀公江著

『風の中のクレオ』一条ゆかり著
『デザイナー』一条ゆかり著

『真由子の日記』大和和紀著

『罪と罰より-ラスコーリニコフ』大島弓子著
『バナナブレッドのプディング』大島弓子著
『四月怪談』大島弓子著

『ガラス玉』岡田史子著
『ほんのすこしの水』岡田史子著
『ダンスパーティー』岡田史子著

『アラベスク第1部』山岸涼子著
『アラベスク第2部』山岸涼子著

『ポーの一族』萩尾望都著
『11月のギムナジウム』萩尾望都著

『ベルサイユのばら』池田理代子著

『みそっかす』ちばてつや著
『あしたのジョー』ちばてつや著

『ばけ猫の呪い』古賀新一著

『へび少女』楳図かずお著
『まだらの恐怖』楳図かずお著
『紅グモ』楳図かずお著
『ミイラ先生』楳図かずお著
『黒い猫面』楳図かずお著
『のろいの館(赤んぼう少女)』楳図かずお著
『鬼姫』楳図かずお著
『うろこの顔』楳図かずお著
『怪』楳図かずお著
『恐怖』楳図かずお著
『おろち』楳図かずお著
『猫目小僧』楳図かずお著
『生き人形』楳図かずお著
『百本目の釘』楳図かずお著
『アゲイン』楳図かずお著
あれれれ・・・
楳図かずおオンパレードになってしまった。。。

『どろろ』手塚治虫著
『火の鳥』手塚治虫著
『ブラックジャック』手塚治虫著
『きりひと讃歌』手塚治虫著
『リボンの騎士』手塚治虫著

『アシュラ』ジョージ秋山著

はー。
今日はこのくらいにしておこう。


偏愛的キリスト映画リスト

2006-07-26 22:12:40 | 映画・DVD
映画に詳しい皆様、
キリストの生涯を題材にした映画はこれで全部でしようか。
まだあったら教えて下さい。



 『キング・オブ・キングス』
          (1927無声映画。C.B.デミル)

 『ゴルゴダの丘』(1935J.デュヴィヴィエ)

 『キング・オブ・キングス』(1961N.レイ)

 『奇跡の丘』(1964P.P.パゾリーニ)

 『偉大な生涯の物語』(1965G.スティーヴンス)

 『ナザレのイエス』(1977F.ゼッフィレッリ)

 『ジーザス』(1979P.サイクス/J.クリシュ)

 『JESUS奇跡の生涯』(1999R.ヤング)

 『パッション』(2004M.ギブソン)



あと見てないのは、
 『メサイア』(1975R.ロッセリーニ)
見たい見たい見たい見たい見たい



あ、これら2つは圏外ね。↓
 『ジーサース・クライスト・スーパースター』
                  (1973N.ジュイソン)
 『最後の誘惑』(1988M.スコセッシ)





おまけに
独断と偏見で選んだお気に入り映画
 『イントレランス』(1916D.W.グリフィス)
 『レベッカ』(1940A.ヒッチコック)
 『らせん階段』(1945R.シオドマク)
 『天井桟敷の人々』(1945M.カルネ)
 『無防備都市』(1945R.ロッセリーニ)
 『神の道化師フランチェスコ』(1950R.ロッセリーニ)
 『羅生門』(1950黒澤明)
 『白痴』(1951黒澤明)
 『禁じられた遊び』(1952R.クレマン)
 『道』(1954F.フェリーニ)
 『マルセリーノ・パンとぶどう酒(邦題;穢れ無き悪戯)』
                    (1955.L.バホダ)
 『挽歌』(1957五所平之助)
 『バラバ』(1962.R.フライシャー)
 『地獄に堕ちた勇者ども』(1969L.ヴィスコンティ)
 『サテリコン』(1969F.フェリーニ)
 『どですかでん』(1970黒澤明)
 『ざくろの色(サヤト・ノヴァ)』(1971S.パラジャーノフ)
 『フェリーニのローマ』(1972F.フェリーニ)
 『カサノバ』(1976F.フェリーニ)
 『鬼龍院花子の生涯』(1982五社英雄)
 『そして船は行く』(1983F.フェリーニ)
 『スラム砦の伝説』(1984S.パラジャーノフ)
 『アシク・ケリブ』(1988S.パラジャーノフ)

偏り過ぎか・・・でもいいや。

無題

2006-07-25 14:48:03 | 信仰
私の中には
未だに死に切れない5歳児が住み着いていて
こいつは怨念の塊だ。
血を吸ったダニみたいに
頭が怨みと呪いでパンパンに膨らんだ
いつも壁を向いて座っている
醜い5歳の子供。
この子供を封じて
二度と生き返らないように
足で踏み潰そうとしても
なかなか死なない。


この子供、
テレビやネットに
子殺しや虐待する親が登場すると
生き返って呪う。
「お前達はゴキブリだ。蛆虫だ。
 お前達に遺伝子を残す価値なんかないんだ。
 クズが劣悪な遺伝子を撒き散らして
 こんな事になったのだ。
 お前達がじじばばになって
 足腰立たなくなって
 歯が抜けて食えなくなって
 大小便垂れ流しになった時に
 同じ目に遭わされろ。
 思い知れ。」


この子供、
イエス・キリストに話しかける。
「あのね、
 うちのあの女がさ、帰って来ない。
 買い物に行ったまま
 ずっと戻って来ない
 もう暗くなったから
 いつも行く八百屋まで行ったけど
 来てないって。
 あの八百屋、キリストの仲間だね。
 玉葱みたいなガンガン寺の人だよ。
 八百屋にいないから、
 ショッピングセンターかと思って
 でもどっちに行けばいいかわかんない。
 とうとうカトリック教会まで来てしまった。
 あそこの幼稚園の子達は
 ひよこみたいな黄色い帽子被って
 白黒のマザーとかシスターに
 ホウキで叩かれるんだ。
 知ってる子が言ってた。
 中に入っちゃダメだよ。
 白黒のおっかないのが出て来るから
 もう戻るよ。
 あの女はきっと先に家に帰ってるんだ。
 また往復ビンタだね。」


この子供、
イエス・キリストに文句を言う。
「短冊に書く事なんて何もないよ。
 何書けばいいの。
 願ったり祈ったりしても聞かれないよ。
 聞かれないのは
 自分の欲のために不純な動機で願うからだって
 キリストの仲間が言ってたよ。
 でも司祭も牧師も
 素直に甘えろとか信頼しろとか言ってるよ。
 別の司祭は
 願ったり祈ったりして
 それが叶わないのは
 そんな小さいみみっちい願いじゃなくて
 もっと大きいものを与えたいからだと言ってる。
 それが『霊的成長』だって。
 これは私の欲しいものじゃなくて
 別の誰かのだね。
 でも
 これを欲しがりなさいって言われてる。
 短冊にこれを書けって。
 全然欲しくないよ。
 でも書く事が何も無いんだから仕方ない。
 書くよ。
 それでいいんでしょ?」


この子供、
イエス・キリストに駄々をこねる。
「あのさ、本当は、欲しいものはあったんだけどさ、
 捨てられたんだ。
 トラ猫のぬいぐるみ。
 あの男が自分の子供に初めて買って来たものだよ。
 トラ子って呼んでずっと抱いて寝てた。
 5年間ずっと抱いてたから
 擦り切れてぼろぼろになって
 毛がなくなったところから針金の肋骨が見えてたけど
 一番好きだった。
 あの女がもう汚いから捨てて来いって。
 私、自分で外の焼却炉に入れたよ。
 トラ子はこっち見てた。
 まだ燃やす日じゃないから
 私も焼却炉の中をずっと覗いてて
 トラ子を見てた。
 あの女が怒って出て来て
 また往復ビンタされたけどね。」


「もう付き合い長いよね。
 短冊なんか書いたって始まらないけどさ、
 あのトラ子のぬいぐるみがあったらな。
 新品のじゃないよ。
 同じような猫のぬいぐるみでもないよ。
 ずっと抱っこしてぼろぼろになった私のをね。
 あのトラ子を焼却炉から取り返したい。
 5歳から後もずっと時間が続いて、
 まだこの先に40年も50年もあるのかも知れないけどさ、
 その40年50年の間に
 もっともっと大きな、
 もっともっといいものを、
 何だかわからない『霊的成長』とかをさ、
 貰えるのかも知れないけど
 いらない。
 40何年かの間に貰ったもの全部返すよ。
 これから貰うはずだったものも
 全部いらないからさ、
 トラ子のぬいぐるみを取り返しに焼却炉に入りたいな。
 入るからね。
 いつか。」

七夕の短冊

2006-07-25 05:34:32 | 信仰
今日、入院中の友達を見舞った病院の玄関ホールで、
飾り立てた木を見かけた。
木の緑に銀紙で煌びやかに、
一瞬、
遠くからは季節外れのクリスマスに見えた。
よく見ると柳の木。
枝に七夕の短冊が吊るされていた。
見なきゃ良かったと思った。
考えないようにしていた事が
再びむっくりと起き上がってきて、
消えない。


このブログの中の『5歳児』(2006.7.1)と
『死んだ死生観』(2006.7.6)とに書いたように、
私という人間は
一昔前の流行語になったいびつな心理構造を持っている。
自分の信仰を見直すうちに
引っ掛かるキーワードを見つけた。
『福音の森』という
晴佐久昌英司祭の説教サイトによく登場する、
神様と自分との関係を、
親子の関係に例えて表現する言葉。


『神の親心(=神の愛)』
『親に甘えるように、神に甘える(=神を信頼する)』



きっと多くの人には身近でわかり易い、
神の愛と憐れみを理解し易いたとえなのかも知れない。
もし私も神の愛と神への信頼を説明しろと言われたら、
言葉を探して選んで、結局同じ表現をするだろう。
多分これが
わかりやすい表現なのだろうなと思いながら。
多くの人にとってきっと
一番適切で受け入れ易い表現だと思う。
そのように頭で半分納得しながら
私は自分でそれがわからない。
晴佐久司祭の言っている事は正しい。
おそらく別の司祭も牧師も皆、
表現こそ異なっても考え方は同じだ。
しかし私は固まって、
そこから一歩も前に進めなくなる。


晴佐久司祭の講和を聞いて感動した人のブログに
書き留められていた言葉。


「7月7日の七夕に短冊が
 1枚だけあったら何をお願いしますか?
 ・・・
 何をどう祈るのかどう願うのかという以前に、
 こんなことお願いしちゃっていいのかとか、
 これお願いしても無理だとか、
 自主規制したり諦めちゃってる人。
 ・・・
 聞いてくれているのかいないのかってことじゃなくて、
 聞いてくださっている天の父を信じて、
 信じきっているかってこと。
 親と子の関係ってそう言う事でしょ。
 ・・・
 駄々をこねる、それは相手を信頼しているから。
 子供が親に甘えるみたいに
 わがまま言うところがなければ、
 先に進めないし、
 『霊的成長』が望めないんですよ。」



この言葉を聞いてブログに書いた人は
涙が出そうになったという。
許される喜びとはそういうことかも知れない。
一緒に聞いていた多くの人も
同じ気持ちだったのではないだろうか。
もっと神様に甘えていいんだ、
もっと信じきって甘えていいんだ・・・


しかし
私は自分が奈落の底に落ちたと感じた。
皆はたった1枚しかない短冊に何を書くのだろう。
神様を「親」に例えたら
私には短冊に書く願いが何もない。


「親心」
「親に甘えるように甘える」
「親を信頼するように信頼する」
どれ一つとっても自分のものではない他人のもの。
「親」に例えると神様がわからなくなる。
「甘える」「信頼する」という心理からしてわからない。


「甘える」という言葉は日本語にしかない言葉だという。
「甘える」は「頼む」「依頼する」に近い。
「頼む」とか「依頼する」という言葉は
私の場合、
「相手が多分こちらを無視する可能性と
 拒絶する可能性とを踏まえた上でお願いしてみる」
という意味で使っていた。
「甘える」という言葉を
家族間や学校や職場、社会で忌み嫌われる行為の名称として
私は使っていた。
「甘える」という言葉の意味は
人を犠牲にして重荷を負わせ、
その人の重荷の上に当然のつもりで胡坐をかく事。


「信頼する」は「信用する」「期待する」に近い。
「信用する」とか「期待する」という言葉は
私の場合、
「相手が多分こちらを裏切る可能性と
 絶望させる可能性とを踏まえた上で待ってみる」
という意味のつもりで使っていた。
「信頼する」が文字通り「信じて頼る」だと
ますますわからない。


数年前、信仰歴20年以上の教会員が突然、
「私はキリストの十字架がわからない」と言って
教会を去ったのを見た事がある。
当時は牧師も私達教会員も動揺しうろたえた。
あれは今の私のような事だったのかも知れない。


洗礼を受けて10数年の歳月が経っていて、
自分も周囲も当然わかっているつもりでいた事が
実はわかっていなかったと気づく。
神がわからないというよりも
自分で自分の信仰が一体何なのかわからなくなった。
わかっていなくてもわかったつもりになっていて
それで幸せなつもりでいて
突然キーワードという地雷を踏んでしまった。


私が書き込みをしたブログの主から質問された。
「それではあなたの『親』に代わる希望のキーワードは?」


親の代わりになる対象。
駄々をこねたり、甘えたりする対象・・・。
希望のキーワード。
希望って何だろう。
手に入らなければ駄々をこねるほどの望みって何だろう?
駄々をこねて甘えて手に入るものってあるんだろうか。


質問を投げかけて下さった方は
司祭や牧師に肩を押されたという。
「そんなに難しく考えるなよ」
「いいからその方の腕、胸の中に飛び込んでみろよ。
 ゆだねてみろよ。」
自主規制や諦めになってしまっていると、
最も簡単で最も深くて最も真理に近い本当に大切なものが
見えなくなってしまうのではないかと、その方は言った。


本当に大切なもの。
ああ、それはTさんが私に言い残した事だ。


 「ともちゃん
  そんなに勉強するんじゃねぇ
  神様は人を救うけど
  学問は人を救わねぇ
  余計な事考えないで
  迷子のちびっ子が
  親にむしゃぶりついてくみたいにさ
  イエスさまーって行きな
  大切なのはそれだけだ」


そう。
Tさんも同じ事言っていたのだ。


でもTさん、
私はその
「親にむしゃぶりついてくみたいに」
がわからない。
親が自分よりも
子供らしい子供で
人に甘えるのが上手で
ねだるのが上手で
利用価値だけで人を評価し、
思い通りにならないとだだをこねて
言い分が通るまで病気のふりでも
死んだふりでも何でもする、
5歳の子供の自分よりももっともっと
子供らしい子供が親だったら
どうすればいい?
大人になった今になって仕返ししてやろうと思っても、
彼らも年をとって頭が壊れて
今では本物の子供になってしまった。
私は誰にむしゃぶりついて何をねだればいい?
そういう行為を誰からどうやって学べばいい?
代わりになるものはどこにある?
Tさん、晴佐久司祭もあなたと同じ事を言ったよ。


 子供が親に甘えるみたいに
 わがまま言うところがなければ、
 先に進めないし、
 『霊的成長』が望めないんですよ。


年齢だけは40歳超えたけどね、
霊的には5歳から成長してないんだよ私は。
その通り。
一歩も先に進めない。
望みがないんだから。


『霊的成長』
私達の教会でも、前にいた母教会でもよく聞く言葉。
神様に何か願っても聞き入れられないのは、
利己的な動機で願うから聞き入れられないのだと教えられた。
或いは、
神様がその人に小さな願いよりももっと
それ以上に大きなものを与えたいのだと教えられてきた。
それが神の望みであり、
神が自分に何を望んでおられるかを考えろと。
神が望んでおられる事。
たった1枚の短冊にはこう書けばいいのだ。


「私の望みはありません。
 神様のお望みのようになりますように。」


駄々をこねて甘える事とは対極だ。
これでは『霊的成長』は望めないのだ。
どうすれぱいい?

へんな生き物

2006-07-24 12:43:36 | 日常
こいつ、去年の夏に
出掛けようとしてドア開けた瞬間、
いきなり飛び込んで来た生き物。
慌てて外に追い出したら
膝にタックルしたり
しゃがんで両手バンザイしてたが、
最近見かけない。
ペット禁止なのに内緒で飼ってた住人に
捨てられたんだろうか。

本当のたった一人の

2006-07-23 06:52:58 | 読書
『銀河鉄道の夜』(新潮文庫 昭和36年)


キリスト者になってから『銀河鉄道の夜』の見方が変わった。


ジョバンニは
友達の代わりに溺死したカムパネルラと一緒に、
死者達の汽車に乗る。
本当の幸いを探しに。
本当の幸いとは、
全ての人の一番の幸福のために自分の生命を捨てる事だ。
この命題を、
受洗以前の私はお話の中の誇大妄想と思っていた。


イエスご自身がヨハネ伝の中で述べられている。
 「人がその友のためにいのちを捨てるという、
  これよりも大きな愛は誰も持っていません。」
             (ヨハネの福音書15;13)


ヨハネは言っている。
 「キリストは、
  私たちのためにご自分のいのちをお捨てになりました。
  それによって私たちに愛がわかったのです。
  ですから私たちは、
  兄弟のためにいのちを捨てるべきです。」
              (ヨハネの手紙Ⅰ3;16)


幼い姉と弟を連れた家庭教師が登場する。
船が難破し、家庭教師は悩む。
救命ボートに全員は乗り切れない。
皆が道を開けてくれてももっと大勢の子供や親がいる。
家庭教師には彼らを押し退ける勇気がない。
他の子供を押し退ける罪を
自分一人が背負ってでも姉弟を助けるか。
他の子供を押し退けてまで助けるよりは
皆一緒に神の御前に行くか。
どちらがこの子達の本当の幸いだろう。
親達は我が子を子供ばかりのボートに放す。
「主よみもとに近づかん」を歌いながら乗客と船は水没した。
家庭教師も二人の子供と手をつないだまま沈んだ。
ここに登場する家庭教師の信仰は一途だと思う。


「ハレルヤ。」
3人は南十字星で汽車を降り、十字架への行進に加わる。
ジョバンニは名残惜しくて彼らを引き止める。
「そんなのうその神さまだい。」
引き止めても彼らは聞かない。
家庭教師がジョバンニに問う。


「あなたの神さまってどんな神さまですか。」
ジョバンニは答える。
「そんなんでなしに、
ほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしに、
たった一人のほんとうの神さまです。」


賢治も宣教師とそんな問答を交わしたのだろうか。
本当の神は主なる神一人だけ。
家庭教師の信仰告白が、ジョバンニの耳には
自己満足的に矮小化されてしまうのは何故だろう。
ジョバンニを
「ああ、そんなんでなしに・・・」
と失望させるものは何だろう。


「宗教の事は知らないが、
唯一の本当の神を探す」という人はたくさんいる。
探すからこそ色々な宗教や思想を転々とする。
人前で福音を語る時、
私の語っているキリストが
自分本位に歪められていないか気になる。
私は自分の信仰をそこまで吟味した事があったろうろか。
信仰を告白し唯一の救い主を証ししても、
「ああ、そんなんでなしに、
本当のたった一人の神をさがしてるんです。」
と失望の嘆息が返ってきたら・・・。

賛美の歌

2006-07-23 01:07:31 | 信仰
私の母教会、札幌のメノナイト白石教会にいた頃、
知人から日本クリスチャン・ペンクラブ発行の
『祈りについて』という文集を一冊頂いた。


その中に寄せた一文の中で、水谷節子さんという方は
御自分の祖母の事を書いている。
400字の短い文章から鮮明な情景が浮かび上がってくる。
大正時代の受洗。
信仰生活60年。
賛美歌の好きだった人。
水谷さんのお祖母さんは60年という歳月の日々の生活の中で
賛美歌を歌いながらどんな事を思っていたのだろう。
愛用したのは足踏みのオルガンだろうか。
その背後にガラス越しの午後の日差し、
晴れ上がった高い空が見えるような気がする。


水谷さんは文中で言う。
「私は一人で耐えられないから賛美歌を歌う。」
私もそうだ。
この1行の文に言葉で言い表せないほど共感する。


意気消沈している時、人との語らいに飢えを感じる時、
無性に賛美歌や聖歌を
聴きたくなったり歌いたくなったりする事がある。
久しぶりに皆の顔を見たいと思っても日曜日がずっと仕事で
塞がったままひと月以上経った時、
道を歩いていて何となく唇から歌が出てくる。


礼拝に出られなかった日。
「神の力を常世に讃えん・・・」(賛美歌1番)
「力の主をほめ讃えまつれ・・・」(賛美歌9番)
今頃はもう礼拝が始まっているだろうな。
「天地こぞりてかしこみ讃えよ・・・」(賛美歌539番)
「父御子聖霊の・・・」(賛美歌541番)
今頃は頌栄を歌って礼拝が終わる時間だ。
「日々の糧を与えたもう恵みの御神はほむべきかな・・・」
                     (賛美歌?番)
今頃大鍋で作ったカレーを皆で食べているに違いない。
いや、うどんかな。


夜の聖書研究祈祷会に行けなかった夜。
「日暮れて四方は暗くわが霊はいと寂し・・」(賛美歌39番)
「わが霊の光、救い主イエスよ・・・」(賛美歌38番)
「静けき祈りの時はいと楽し・・」(賛美歌310番)
今頃は皆で聖書を開いて輪読しているだろう。
今頃はきっと皆で祈っている。
今頃はもう皆帰ったかな。
今頃は・・・・・。


今日も教会に行けなかった。
そんな事を思いながら一人で道を歩く。
気がつくと歩きながら歌っている。
「久しく待ちにし主よ疾く来たり、解き放ちたまえ・・・」
                     (聖歌620番)
「主よ御許に近づかん・・・」(賛美歌320番)
教会の喧噪が恋しくなる。
そんな時、無性に誰かと賛美歌や聖歌を歌いたいと思う。
何かの目的のためでなく、
何となく皆で手に聖歌や賛美歌の本を持って、
お互いの好きな歌を出し合ってリクエストして何曲でも歌う。
時間を気にせず、明日の仕事を気にせず、
一つのパンを皆で少しずつ分け合って食べるように、
一つの歌に込められた思い出なんかを語り合いながら歌う、
そんな事が無性にしたくなる。


手に余るような自信のない仕事を
一人でしなければならない時、気がつくと歌っている。
「わが身の望みはただ主にあるのみ・・」(賛美歌280番)
「神はわがやぐら・・・」(賛美歌267番)
「歌いつつ歩まん、ハレルヤ・・・」(聖歌498番)
歌いながらその歌を誰かと一緒に歌った時の事を思い出す。


 昼はもの言わず
 夜は語らねど
 声なき歌声
 心にぞ響く(賛美歌74番より)


いつも気がつくと歌っている。
誰かが一緒に歌ってくれる気がして。

只者ではない

2006-07-22 18:53:02 | 信仰
Tさんが友達から貰ったという
フランシスコ会訳の新約聖書を私も欲しくて、
カトリック北11条教会敷地内の売店
『光明センター』まで買いに行った。
その光明センターで、只者ではない人に出会った。


Kさんは店番として働いていた。
司祭でも修道士でもない、一人のカトリック信徒らしい。
本名も知らない。私が勝手にKさんと呼んでいる。


「私の洗礼名はマキシミリアノ・コルベなんです。
 若い頃アウシュビッツで殉教したコルベ神父に憧れて、
 洗礼名をそこから頂いたのです。」


Kさんはいろいろと説明してくれた。
「フランシスコは、
 フランシスコ会が資産や人を増やして
 どんどん巨大な組織になっていくのを願わなかった。
 キリストのように清貧であり、
 貧しい人々と共に福音を分かち合う理想が、
 彼の晩年には既に崩れていたのです。
 そこにフランシスコ自身の苦悩があったと思います。」


私がフランシスコ会訳の新約聖書は言葉が温かく、
登場人物が生き生きしていて好きだと言うと、
そこから聖書の話が始まった。
Kさんも、毎日の糧として聖書を読むのが大好きで、
新約と旧約との間に対応する事柄を見つけることが出来る、
と目を輝かせた。
「例えば、
 創世記でアブラハムが
 イサクを犠牲として主に捧げる場面を読んで、
 マルコ、ルカに登場する貧しいやもめを思い出しました。
 貧しいやもめが誰よりも多く主に捧げたというのは、
 子に恵まれなかったアブラハムが
 やっと授かったイサクをさえ主に捧げようとしたと同じ程の
 痛みを伴う捧げ物だったのではないかと思うんです。
 乏しい中から持てるもの全てを主に捧げたんですから。」


Kさんはすごい。
どうしてこんな深い聖書の読み方が出来るのだろう。
もっと話が聞きたい。
Kさんと聖書の話をするのはすごく楽しかった。
話題が豊富で、しかもお薦め上手だった。


お薦めのCD。
「今、全世界で教派を問わず
 祈りと賛美を共にする共同体があるんです。
 テゼと言ってCDが出たんですよ。聴いてみますか?」


お薦めのビデオ。
「元ヤクザの方々のミッションバラバを知っていますか?
 素晴らしい。感動しました。
 私は修道会にこのビデオを勧めています。」


お薦めのテレビ番組。
「先日のNHKの特集番組、見ましたか?
 社会から弾き出された人にとって教会は敷居が高すぎます。
 しかも教会の内部も膿んでいる。
 教会の中の私達よりも外の人の方がよく見ています。
 私達はそれをよく自覚しなければなりません。」


Kさんの愛読書。
「私は三浦綾子さんの愛読者で、小説は全て読みました。
 中でも『続・氷点』が一番好きです。
 『氷点』では原罪が主題ですが、『続・氷点』は許しです。
 読んだ後に旭川まで行って、小説の中の林を探しました。
 実際行ってみるとそこは寒々と寂しい所でした。
 人を許す事は本当に難しい。
 神の許しと憐れみを思いました。」


修道院のクッキー。
「私はこれまで世に出て働く活動修道会にばかり注目して、
 修道院に引き籠る観想修道会を軽く見ていました。
 でもトラピストを訪れてみて考えが変わりました。
 修道士達は人生の全てを捧げて
 全世界のために祈っているんです。」


賛美歌の話になって、
Kさんは聖歌を探していると言って鼻歌を・・・。
「いつどこで聞いたのか思い出せなくて、
 歌詞もわからない聖歌があるんですが、
 メロディーだけ憶えているんです。
 聖歌の中の一曲だと思って探したんですが
 未だに見つからない・・・
 (鼻歌)・・・知らないですよね、この曲。
 でも私にとっては忘れられない、
 一人鎮まって神様を思い出す懐かしい歌なんです。
 どこで聞いたんだったろう・・・。」
えっ?メノナイト教会の夜の集会で私達が歌う賛美歌だ。
私は商品棚の隅に一冊あった賛美歌の本を手に取って
Kさんに開いて見せた。
日本基督教団出版局の『賛美歌・賛美歌第二編』。
有名な曲だ。賛美歌39番。
糠味噌も腐るような声で私は歌った。


 日くれて四方はくらく
 わがたまはいとさびし
 よるべなき身のたよる
 主よ、ともに宿りませ
(Abide with me:fast falls the eventide
              / Henry Francis Lyte,1847)


「ああ、その曲ですその曲です。」
Kさんは子供のような顔で
嬉しそうに賛美歌の番号を書き留めた。
Kさんはカトリックの信徒だが幼児洗礼ではなかったという。
彼のキリストとの出会いはどんなだったのだろう。
信仰の道程の事をいつか聞いてみたいと思った。