受難週が近づくとA君を思い出す。
彼は私達の教会の教会員である。
私達が老朽化した会堂の新築を
実行に移そうとした頃だった。
A君は取り壊す前の思い出残る古い会堂で
結婚式を挙げる予定だった。
5月の挙式が決まり、
教会家族の温もりの中での結婚式を
皆でほんわかと楽しみにしていた。
A君はその日曜日、
礼拝の後皆と雑談で話していたという。
「これから中標津の実家に行く。
うちの両親と式の事でいろいろ相談するので。」
御両親が楽しみに待っている。
A君は教会を出て実家に向かった。
そして二度と戻って来なかった。
その日曜日、
私は礼拝には行かず
夕方4時半からの準夜出勤の前に
父の入院先の脳外科に行った。
脳梗塞の再発した父に洗濯物を届け
急ぎ勤務先に向かおうとしたのは4時ぎりぎり。
日曜日なので
脳外の出入口は救急出入口しか開いていなかった。
処置室が騒がしかった。
扉が開きっ放しで、
誰かに心肺蘇生を施していた。
私は外に出ようとして救急車に阻まれた。
ストレッチャーが降りて来て、
体格のいい男性が搬送された。
閉眼しぴくりとも動かない。
「交通外傷!CPA!CPA!」
救急隊員と外来スタッフの声が私の耳に残った。
「さっきここに来る時、
じじの入院先から来たんだけどさ、
何かひっどい交通事故あったみたいよ。」
「へえ。現場どこだろうね。」
「さあ・・ニュースとかまだ見てないからなぁ」
私は同僚達とそんな会話をして、
私達はいつものようにバタバタ走り回って、
その夜はさほどのトラブルもなく、
急変や急患入院もなく、
順調に仕事が終わった。午前1時半。
帰り間際に携帯を見ると、
Fさんからメールが入っていた。
『A君が今日亡くなりました。
教会で礼拝の後、
結婚式の打ち合せのために実家に向かう途中、
車の事故でした。』
あの時、自分の目で見ながら
どうして私は気付かなかっただろう。
搬送されて来たストレッチャーの上の
あの『CPA!』は、
A君だった。
翌朝、
ローカルニュースにも地方紙にも出ていた。
A君の車は踏み潰されたような姿で
ぐちゃぐちゃに大破していた。
そこは市の郊外で、
人も車もあまり通らず、
事故発生から通報まで時間がかかり、
潰れた車からやっと脱出させるまで
さらに時間がかかり、
脳外の救急外来に搬送されたのは
発見から2時間半後。
それまでA君は
あのぺしゃんこに潰れた運転席に
ずっと挟まれていたのだ・・・。
翌日も夜勤で
私は葬儀に参列出来なかった。
慌ただしくA君の実家の町に向かう
教会の中間達の姿を思い浮かべた。
教会で挙げる結婚式が
葬式に取って替えられてしまった。
2ヵ月後に結婚式を挙げる筈の人の葬式を
どうして私達の教会はしなければならないのか。
郊外の道をA君が実家に向かった時、
どうしてよりによって
無免許、無保険、無車検で指名手配中の人物が
対向車線をはみ出し
突っ込んで来たのか。
時間がずれていたら。
あと数分、いや数秒。
考えても仕方のない事ばかり考えた。
現実が受け入れられないとはこれだ。
夜勤が終わって、
近所の聖堂に立ち寄った。
黙想・・というよりも
ただぼーっとしに行ったようなものだ。
その日、
イタリア人の神父様が声をかけてくれたので
少し話をした。
私はA君の事を話した。
どうしてこんな事になったのか、
何か神様の御計画があるとか、
何か意味があるとか、
復活するとか天国に行くとか、
どれもこれも納得出来ない、
私がそう言うと神父様は嘆息した。
「何も言えない。
わかったような事や、
偉そうに悟った事は、
僕には何も言えないよ。」
そうだ。
誰も何も言えないのだ。
この現実に対して。
間もなく受難週が過ぎ、
復活の主日、
私は早朝に朝祷会の早天祈祷会に参加した。
会場はバプテスト、
説教は私達の教会の牧師先生だった。
たくさんの教派の牧師、宣教師、教会員達が
集まって盛会だった。
昇ったばかりの低い朝日をガラス越しに受けて
テッポウユリが美しかった。
水野源三の詩のような美しい朝が
無性に悲しかった。
その後、
私達の教会で復活の主日礼拝が始まった。
賛美歌が始まった時、
皆の歌声の中に
A君の声だけが聞こえなかった。
誰かが教会からいなくなるという事は
こういう事なのだと思った。
数いる教会員の一人に過ぎない
私のような者でさえ、
受け入れるまでに時間がかかったこの現実。
2ヵ月後にA君の花嫁になる筈だった人は
この現実をどうやって受け入れたのか。
息子の結婚式を楽しみに心待ちにしていながら
突然何の補償もなく息子を奪われた人達は
この現実をどうやって受け入れたのか。
花嫁になる筈だった人は心を病んでしまった。
音信は途絶え
今では連絡先すらわからない。
A君の御両親は熱心な仏教徒である。
しかし息子の生前の信仰を尊重してやりたいと、
キリスト教での葬儀を受け入れて下さった。
息子を何の補償もなく奪われた御両親に
私達は何かしたかった。
しかし私達に一体何が出来るのか
かける言葉すら考えつかないまま
会堂新築が着工し
A君達が結婚式を挙げる筈だった
思い出の古い会堂は解体された。
ある日、A君の御両親が牧師を通じて
献金を捧げられた。
それはA君が長年勤めた職場の退職金だった。
A君が新会堂の完成を楽しみに話していた事、
そのためにいろいろなアイデアを考え、
新しい会堂の姿を思い描き夢見ていた事を、
御両親は牧師先生に話し、
退職金は息子が夢見ていた新会堂のために
役立てて欲しいと申し出られた。
私達は知っている。
長い勤続年数の間、
A君がどんな思いをして働いていたか。
A君は生前、
過労からパニック障害を病み、
大変な思いをして克服し職場復帰していた。
初対面の時、
自己紹介で明るくさらっと私に語っていた。
血の滲んだ年月を。
血の滲んだ退職金。
待ち望んでいた息子の夢をこんな形でしか
実現出来なくなった親の気持ちを
一体誰がどんな言葉でどんな行為で
慰める事が出来るだろう。
復活を信じながら
その秋の新会堂完成を皆で目指しながら
正直、私は悲しかった。
つい思ってしまったからだ。
A君がいたら・・と。
A君の御両親と親戚の方々は
今も毎年昇天者記念会に来て下さる。
Fさんと話した。
A君の事故以来、
毎年四旬節には思い出す。
Fさんも克明に覚えていて
私にメールした事や
事故と判ってからの皆の動きなどを話した。
自分達の教会生活の中で
あれほど衝撃を受け
現実を受け入れられず
意気消沈した辛い経験はなかった。
もう5年も経つのに昨日の事のようだ。
A君のご両親は立派な信仰者だ。
信仰者だからこそA君の信仰を尊重して
毎年私達の教会を訪ねて下さるのだ。
A君が夢に描いた教会で結婚した各家庭には
それぞれ子供達が生まれた。
受洗者も加えられた。
教会は今、明るく賑やかだ。