ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

気に入らない。

2007-03-31 18:21:10 | 日常
何が気に入らないってこのgooブログ、
説明どおりにアドレス入力してあれこれ設定して
コメントは書き込めるのに
携帯から自分のブログに投稿出来ない。
説明上はできる筈だし
こちらの入力ミスも疑って散々確認したり
入力し直したりしているが
携帯から送信したものはエラーにもならず、
行方不明。
長時間パソの前に座っていられない私は
携帯から投稿しようとしたが断念。
gooは使いにくいのでミクにばかり記事更新してるよ。
他所に引っ越そうかな。

四旬節

2007-03-22 10:15:29 | 信仰
受難週が近づくとA君を思い出す。
彼は私達の教会の教会員である。
私達が老朽化した会堂の新築を
実行に移そうとした頃だった。
A君は取り壊す前の思い出残る古い会堂で
結婚式を挙げる予定だった。
5月の挙式が決まり、
教会家族の温もりの中での結婚式を
皆でほんわかと楽しみにしていた。
A君はその日曜日、
礼拝の後皆と雑談で話していたという。


「これから中標津の実家に行く。
 うちの両親と式の事でいろいろ相談するので。」


御両親が楽しみに待っている。
A君は教会を出て実家に向かった。
そして二度と戻って来なかった。


その日曜日、
私は礼拝には行かず
夕方4時半からの準夜出勤の前に
父の入院先の脳外科に行った。
脳梗塞の再発した父に洗濯物を届け
急ぎ勤務先に向かおうとしたのは4時ぎりぎり。
日曜日なので
脳外の出入口は救急出入口しか開いていなかった。
処置室が騒がしかった。
扉が開きっ放しで、
誰かに心肺蘇生を施していた。
私は外に出ようとして救急車に阻まれた。
ストレッチャーが降りて来て、
体格のいい男性が搬送された。
閉眼しぴくりとも動かない。
「交通外傷!CPA!CPA!」
救急隊員と外来スタッフの声が私の耳に残った。


「さっきここに来る時、
じじの入院先から来たんだけどさ、
何かひっどい交通事故あったみたいよ。」
「へえ。現場どこだろうね。」
「さあ・・ニュースとかまだ見てないからなぁ」
私は同僚達とそんな会話をして、
私達はいつものようにバタバタ走り回って、
その夜はさほどのトラブルもなく、
急変や急患入院もなく、
順調に仕事が終わった。午前1時半。
帰り間際に携帯を見ると、
Fさんからメールが入っていた。
『A君が今日亡くなりました。
教会で礼拝の後、
結婚式の打ち合せのために実家に向かう途中、
車の事故でした。』


あの時、自分の目で見ながら
どうして私は気付かなかっただろう。
搬送されて来たストレッチャーの上の
あの『CPA!』は、
A君だった。
翌朝、
ローカルニュースにも地方紙にも出ていた。
A君の車は踏み潰されたような姿で
ぐちゃぐちゃに大破していた。
そこは市の郊外で、
人も車もあまり通らず、
事故発生から通報まで時間がかかり、
潰れた車からやっと脱出させるまで
さらに時間がかかり、
脳外の救急外来に搬送されたのは
発見から2時間半後。
それまでA君は
あのぺしゃんこに潰れた運転席に
ずっと挟まれていたのだ・・・。


翌日も夜勤で
私は葬儀に参列出来なかった。
慌ただしくA君の実家の町に向かう
教会の中間達の姿を思い浮かべた。
教会で挙げる結婚式が
葬式に取って替えられてしまった。
2ヵ月後に結婚式を挙げる筈の人の葬式を
どうして私達の教会はしなければならないのか。
郊外の道をA君が実家に向かった時、
どうしてよりによって
無免許、無保険、無車検で指名手配中の人物が
対向車線をはみ出し
突っ込んで来たのか。
時間がずれていたら。
あと数分、いや数秒。
考えても仕方のない事ばかり考えた。
現実が受け入れられないとはこれだ。


夜勤が終わって、
近所の聖堂に立ち寄った。
黙想・・というよりも
ただぼーっとしに行ったようなものだ。
その日、
イタリア人の神父様が声をかけてくれたので
少し話をした。
私はA君の事を話した。
どうしてこんな事になったのか、
何か神様の御計画があるとか、
何か意味があるとか、
復活するとか天国に行くとか、
どれもこれも納得出来ない、
私がそう言うと神父様は嘆息した。


「何も言えない。
 わかったような事や、
 偉そうに悟った事は、
 僕には何も言えないよ。」


そうだ。
誰も何も言えないのだ。
この現実に対して。



間もなく受難週が過ぎ、
復活の主日、
私は早朝に朝祷会の早天祈祷会に参加した。
会場はバプテスト、
説教は私達の教会の牧師先生だった。
たくさんの教派の牧師、宣教師、教会員達が
集まって盛会だった。
昇ったばかりの低い朝日をガラス越しに受けて
テッポウユリが美しかった。
水野源三の詩のような美しい朝が
無性に悲しかった。
その後、
私達の教会で復活の主日礼拝が始まった。
賛美歌が始まった時、
皆の歌声の中に
A君の声だけが聞こえなかった。
誰かが教会からいなくなるという事は
こういう事なのだと思った。


数いる教会員の一人に過ぎない
私のような者でさえ、
受け入れるまでに時間がかかったこの現実。
2ヵ月後にA君の花嫁になる筈だった人は
この現実をどうやって受け入れたのか。
息子の結婚式を楽しみに心待ちにしていながら
突然何の補償もなく息子を奪われた人達は
この現実をどうやって受け入れたのか。
花嫁になる筈だった人は心を病んでしまった。
音信は途絶え
今では連絡先すらわからない。


A君の御両親は熱心な仏教徒である。
しかし息子の生前の信仰を尊重してやりたいと、
キリスト教での葬儀を受け入れて下さった。
息子を何の補償もなく奪われた御両親に
私達は何かしたかった。
しかし私達に一体何が出来るのか
かける言葉すら考えつかないまま
会堂新築が着工し
A君達が結婚式を挙げる筈だった
思い出の古い会堂は解体された。
ある日、A君の御両親が牧師を通じて
献金を捧げられた。
それはA君が長年勤めた職場の退職金だった。


A君が新会堂の完成を楽しみに話していた事、
そのためにいろいろなアイデアを考え、
新しい会堂の姿を思い描き夢見ていた事を、
御両親は牧師先生に話し、
退職金は息子が夢見ていた新会堂のために
役立てて欲しいと申し出られた。
私達は知っている。
長い勤続年数の間、
A君がどんな思いをして働いていたか。
A君は生前、
過労からパニック障害を病み、
大変な思いをして克服し職場復帰していた。
初対面の時、
自己紹介で明るくさらっと私に語っていた。
血の滲んだ年月を。
血の滲んだ退職金。
待ち望んでいた息子の夢をこんな形でしか
実現出来なくなった親の気持ちを
一体誰がどんな言葉でどんな行為で
慰める事が出来るだろう。
復活を信じながら
その秋の新会堂完成を皆で目指しながら
正直、私は悲しかった。
つい思ってしまったからだ。
A君がいたら・・と。
A君の御両親と親戚の方々は
今も毎年昇天者記念会に来て下さる。


Fさんと話した。
A君の事故以来、
毎年四旬節には思い出す。
Fさんも克明に覚えていて
私にメールした事や
事故と判ってからの皆の動きなどを話した。
自分達の教会生活の中で
あれほど衝撃を受け
現実を受け入れられず
意気消沈した辛い経験はなかった。
もう5年も経つのに昨日の事のようだ。
A君のご両親は立派な信仰者だ。
信仰者だからこそA君の信仰を尊重して
毎年私達の教会を訪ねて下さるのだ。
A君が夢に描いた教会で結婚した各家庭には
それぞれ子供達が生まれた。
受洗者も加えられた。
教会は今、明るく賑やかだ。

摘出した髄核

2007-03-22 09:28:35 | 入院生活
とりなしのお祈り感謝します。
神経を圧迫していた髄核は無事摘出しました。


写真.今まで私を苦しめていた憎っくき髄核。


HR=86sinus、BP=118-72mmHg、KT=35.5℃、spO2=98%room。


呼吸が少し重い。
まだ息がセボフルレン臭い。
気管内挿管の時のブレードで
咽頭が少し傷ついてる。
右脚足の痛みはありません。
動きも普通です。
第2、3、4趾が少し痺れている。
縫合した創部は動くと痛む程度。


皆さん お祈りして下さってありがとう。
心から感謝します。

発症から受診まで

2007-03-22 09:03:04 | 入院生活
コメントで経過報告として
UPしたものだが
改めて記事としてまとめた。
読んでいると腹が立ってくる。
釧路の医療事情とはこういうもの。
背景には医者不足とかいろいろな事情もあるのだろうが。
ま、皆さん読んで笑って下さい。


2月16日の昼に
右下肢の後ろから外側の痛みが生じて歩けなくなった。
椎間板の手術を受けたN総合病院は
外来受付は9~11時。
すでに過ぎていた。
一応救急扱いで診て貰えないか
電話で問い合わせると


「診療の受け付けは終わりました。
先生は手術で夕方まで診られません。
どこか別の
診てくれる病院を受診された方が
よろしいでしょう。」


それで私は
中規模単立の整形外科
H病院に伝い歩きで受診した。


H病院の医師は言った。
「2年前にオペして、
データも写真もN総合病院に全部あるんでしょ?
週明けにそっちに行った方がいいよ。
痛み止め出しとくから。」
院外処方箋を貰ったが
薬局まで歩けなかったので
薬は受け取らずにタクシーで帰宅。
17、18日の土日の2日間は
飲まず食わずで6時間置きに
痛み止めを使った。
痛みがどんどん強くなって理性も消し飛んだ。
月曜の朝、
物につかまって半身引き摺りながら
N総合病院に受診した。
総合受付から整形受付まで歩く事が出来ず、
車椅子を借りた。
そのまま待つ事3時間半。


診察室に入ったのは
12:40過ぎ。
医者、開口一番、


「痛み止め、何にします?」


おいっ
診察って
患者を診るもんじゃないのかいっ!


「えっと、あー、痛いんですね。
じゃー点滴か注射でも・・ロピオンどうですか?
あ、『V』50mg効かなかったんだ。
じゃー『P』は?点滴で『P』を行きますか。」


何でもいいから早く痛み止め!


「えっとー
MRI撮っときますか。
ボク、13:30からオペなんですよね。
結果は夕方6時くらい。
明日聞きに来られます?入院はねー
今ベッドないんですよ満床で。」

(先にそれを言え!)


生理食塩水100mlに
準麻薬の『P』1Aを入れて
滴下しながら
MRIを待つ事約1時間半。
14時過ぎ。
『P』はぼーっとしたり
ラリったりはするけど
局所的な鎮痛効果ゼロ。
MRIの撮影中、
痛みで何度か動きそうになった。
撮影終わったのは15時過ぎ。
立ちくらみがする。
顔面から血の気が引く。
前夜から水一滴飲ます食わずで
『P』なんか点滴したからラリってるし。
この状態で帰宅して明日出直せと言うのか。
H病院の午後外来に、
私の過去のデータ全て
持ち込む事にした。
N総合病院の医師は手術中。
画像をまだ見ていない。


結局、あのN総合病院の医師は
診察もろくにせず、
私を『P』でラリらせて
見る訳でもないMRIの指示を出して
オペに入った。
明日まで待てる痛みかこれが。
タクシーでH病院へ。
酔っ払いみたいにふらつきぶつかり
外来受付でデータ類を渡す。

しばらく待つと
看護師が来て言った。

「明日、札幌から腰の専門医が来ます。
今日このまま外来診察受けられても、
結局明日また来て頂く事になります。
明日の午後2時にもう一度来て頂けますか?」

結局、帰宅した。
翌日出直し。


20日は自力歩行出来なかった。
牧師夫妻に助けられて
H病院に午後から受診した。
車椅子で待つ間に限界が来て
処置室に寝かせて貰い
そのまま入院。
H病院の医師が
N総合病院撮影のMRIを見て言うには
椎間板の再発ヘルニア。
それもでっかく飛び出している。
正直、
こんなに飛び出しているとは思わなかった。


「これは手術した方がいいでしょう。」


一週間安静にして
痛みがこのまま引かなければ再手術。


「ゆっくり考えて下さい。」


痛みが引けばこのまま温存。
引かなければ再手術。
今回はやりたくない。


と思っていたが
痛みは全く改善せず、
2月26日、
手術を受けようと気が変わった。
看護師長と話した。
手術までに必要な検査
スパイロがまだ残ってる。
ミエログラフィは要らない。(ホッ(*。*;))
Ccrも要らない。
執刀医は札幌から来る腰の専門医。
手術中の術野のビデオ撮影はダメ
麻酔のリスク
再手術のリスクは、癒着がなぁ。
後遺症の問題は、ある人もいるだろう。


医師の体の空いてる日程で
痛いから可能なだけ早く
明日、札幌から執刀医が来る。
明日以降また相談。
切らずに安静臥床で
保存的治療に留めるつもりだったが
手術を希望すると
主治医に伝えて貰った。


2月27日、
札幌から出張して来ている医師から説明を受けた。
3月6日(火)9時入室予定
腰椎椎間板再発ヘルニア(L5/S1)に対して
右側開窓、髄核摘出術。
現在飛び出している髄核だけでなく
飛び出していない、
中の髄核も鋭匙で全部掻き出すので
これ以上椎間板ヘルニアの再発を
繰り返す事はない。
但し、L5とS1の間には
緩衝するクッションがない状態になるので
将来的には椎骨と椎骨の摩擦によって
腰椎変形症が起こり得る。
執刀医は当日札幌から来るので
天候の影響で時間のずれもあり。
天候・・・来週の火曜は
札幌も釧路も雪マーク。

3月2日、手術承諾書に署名した。


これも恵みか?
今のこの状況も
試練だとか訓練だとか
ご計画だとか
霊的成長のためだとか
神様がもっと
大きな恵みを下さろうとしてるとか
ありがたく考えるぺきなのだろうな。
キリスト者なら。

一時帰宅

2007-03-22 08:46:01 | 入院生活
いつもここに来て下さる皆様、
ご心配お掛け致しました。
お祈り下さった皆様、
心から感謝申し上げます。

手術は無事終わり、
現在リハビリ中です。
外出許可が出て
午前中だけちょっと自宅に来ました。

入院中の事など、
整理してUPしようと思います。
ではまた。