ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

万次郎の背景

2009-01-31 02:02:00 | じょん万次郎
ブログ仲間のさるお方から
ペットの背景画像をDLする事を教えて頂いた。


画像を持ち帰ってみた。


よく考えたら
他人の描いた絵でなくても
自分で撮った写真のサイズを編集調節して
万次郎の背景として使えばいいのだと気づいた。


自分の撮った写真の中で
うちの万次郎を遊ばせてみた。
いろいろ合わせてみて
海とか線路とかいつもの道とか
よさげな写真を適当に背景にした。
線路といつもの道と波打ち際を選んだが
サイズ調整して使えそうなものを
幾つか他にもコピー、縮小して
万次郎の背景ファイルとして保存した。


これは遊べる。


気に入った。
いろいろ合わせてみたら
予想外に面白いのが見つかったので
当分の間万次郎の背景として固定する事とした。


さらに、
合わせ鏡の原理を使ってみた。


この画像の中に万次郎は3匹いる。
歩き回るのは手前の1匹だけだけど。

人生の全盛期・最盛期

2009-01-29 13:43:00 | 日常
ブログを書き始めて2年半経った。


当たり前だが
書き始めの頃と今とでは
自分の人間像が変わってきている気がする。


ブログを書き始めた最初の頃は
それまでで一番長く働かせて貰った職場を退職し
父親のADL低下に対応して転居させたり
それに伴って
長年積もり積もった家族の軋轢の残骸を
整理しなければならなかったり
自分自身が失業して職探しに苦心したり
やっと就いた職場で椎間板ヘルニアが再発して入院したり
働く事も出来なくなってひどい抑鬱状態に陥った時だった。


詰め放題のタイムバーゲンで
浅ましく食品を袋詰めする主婦のように
工面してやっと作った空き時間に
するべき事としなければならない事とを詰め込もうと
躍起になっている間に
漠然とした心身の不調を通り越して
本当に物理的に故障した。


本当に向き合わなければならないものと向き合わずに
その場凌ぎでやり過ごし続けて
どんどん脱線したツケは大きい。
実際その代償は高かったと思う。


人生に全盛期とか最盛期というのが
あるかどうか私にはわからないが
それでも
失業して経済的な不安を抱え
介護と家族への怨み辛みで頭に血が昇り
故障で歩けもしない抑鬱状態だった
ブログ書き始めのた頃であっても
もっとそれ以前の
例えば子供の頃や二十代の頃よりは
全然ましでいい時代になったと思っていた。


子供の頃と違って現在の私は
親に抑圧されてやられっぱなしの
萎縮した蛆虫のような動物でいなくても良い。
表現するための言葉を与えられており
祈りの言葉を与えられており、
聖書を読む楽しみとそれに必要な読解力を与えられており
感動を自分のものとして受け取る事の出来るための
出会いと経験をも与えられてきた。
自分の思いを訴え、祈り、
願い求めるべき御方の存在を疑わずに向き合う事を
学ぶ機会にも恵まれた。


二十代の頃はこれまでの人生で
過去最低最悪のどん底であった事は間違いない。
自分が何をして生きるかなど考る事なく
全てがその場凌ぎで
とりあえず食べるために職に就き
実家の家庭崩壊を切っ掛けに
自己憐憫と血族に対する恨み辛みと呪いで凝り固まり
どうすれば自分の人生が終わって確実に死ねるか
そればかり考えて荒廃し
病み腐っていた。


しかしそこから這い上がるための手段として
宗教を選びキリスト教に走りましたという、
信仰告白話によくある過程を私は通らなかった。
何故なら私はキリストとは既に出会っていた。
受洗するずっと前、四半世紀も前に。


自分が何時何処でキリストと出会って
どうして救い主と信じるようになったか
そもそも
キリストとの出会いが人生の何処から始まったかは
立ち止まってよくよく記憶を辿り
掘り下げて追求しなければ行き当たらない。


何の用語かはわからないが
数年前に
"アダルトチルドレン"とは自分の事であると理解した。
そして
自分の父親も同じ病理を持っていたという現実を
この数年のうちに嫌というほど味わった。


それを整理するために
自分という人間を分析しようとして
書くという手段を選び
ブログという道具を使って書き始めた。


最初のブログの書き始めの頃の文章は
抑鬱状態と自己憐憫と被害者意識でガチガチに固まっており
自分で読むと呆れ返る。
他人に読まれるよりも
将来の自分に読まれる方が恥ずかしい。
しかしそれでいて
例え懐かしむ事はあっても
昔の若い頃の自分の人生が良かったとは
断じて思わない。


愚かな男女の勘違い、
まるで愛とか幸せとか
何か価値でもあるかのような
理想の家庭という偶像を信じた結果、
するべきでなかった結婚、
作られるべきでなかった家庭、
生まれるべきでなかった子供。
自分の人生がそこから始まった事は同じ。
動かない現実である。


そこに
何の意味があるのか
どんな価値があるのかを
自分は今も
書き始めた時と同じように問うている。
唯一絶対の唯一人の御方に。