曇り。
寝起き悪い。
バス停まで歩くのが億劫だ。
帰り頃雨に当たりそうだ。
・・・・・
仕事終わった。
帰りに食堂で何か食べようかと思ったら休みだった。
そのままぶらぶら歩いて帰宅。
寒い。
暖房を強化して熱い緑茶飲みながら海葡萄を食べる。
「ペテロの葬列」で引用されていた福音書の箇所を反芻している。
ドラマは土壇場でイエスを裏切って後悔するペトロの贖罪に視点を置いていた。
"ペテロはイエスを裏切った事を後悔し、立ち直って立派な宣教者となり、
処刑される時にはキリストと同じ十字架刑を辞退し自ら望んで逆さ磔刑で殉教した"
という伝説を挿入しペテロの人物像をドラマの中で紹介している。
罪を犯した人間をペテロに擬え、それぞれの懺悔の在り方によって物語が進行する。
私はドラマから大きく脱線してペテロの事を考えながら画面を見ていた。
サスペンスドラマの物語は進行し殺人と自死と詐欺が展開し、罪人の葬列に譬えられる。
しかし画面を見ている私は全く違う角度からペテロを思い浮かべていた。
信仰者だけが注目する出来事はここには登場しない。
ペテロはイエスを死に追いやった自分の裏切りからすっくと立ち直り初代教会の指導者となり殉教した、
・・・というのは、私には不自然に思われる。
ペテロを1人の人間として見た時に同じ人間として取って付けたような心理的な不自然を感じる。
イエスの復活と言う出来事が欠落しているからだ。
・・・・・
ペテロも含め12人の弟子達は イエスが十字架の死を迎える前も後も師であるイエスの
語る事もする事も何一つ理解していなかった。
最後の晩餐の直前まで自分達の中で誰が一番偉いかとか天国では誰が一番偉いかとか言い争ったり
「うちの息子らをあなたの右と左に」と頼み込んだヤコブとヨハネの母親に腹を立てたりしていた。
ペテロは最後の晩餐で「自分は死んでも裏切らない」と豪語しておきながら
起きて一緒にいてくれと言うイエスをゲッセマネに一人残して寝てしまい、捕まったイエスを見捨てて逃げた。
その他の弟子達も散り散りに逃げてしまい捕まったイエスの傍に弟子は誰一人残らなかった。
ペテロは小心な裏切り者の弟子の代表格であった。
「たとえ死んでも私は裏切らない」と大見栄を切りながら
イエスが逮捕されて状況が変わった途端「そんな人は知らない」と3度イエスを否定する、
惨めな弱い人間の代表。
逃げて息を潜めて生き延びるのが精一杯であっただろう。
イエスを知る人々からは反感と軽蔑を買い、身近な人々から嘲笑されたであろう。
惨めな新興宗教の信者のなれの果てと。
ウィリアム・バークレーの註解書の中に伝承が紹介されている。
…わたしたちは、ペテロがどのように自分を償ったかを想い起こさねばならない。
ペテロにとって、事態は容易ではあり得なかったはずである。
おそらく、否認の物語はほどなく知れ渡ったことであろう。
というのも、大衆は悪意のある物語を愛するからである。
伝説が語っているように、
ペテロが通ると人々が鶏の鳴き声をまねたというのは、おそらくほんとうであろう。
ペテロは自分を贖うこと、すなわち失敗から出発して真の偉大さに到達するための
勇気とねばりを持っていた。
(W.バークレー著『聖書註解シリーズ6 ヨハネ福音書(下)』ヨルダン社 1968年より)
嘲笑と恥に埋もれ官憲から追われ、何よりも師を裏切り見殺しにした自分自身を
ペテロはどう思っていただろう。
どれ程の失意と自己嫌悪の中にいただろうか。
そのペテロが初代教会の信徒達を育て迫害の時代に信仰者を励まし支え書簡を残すまでに、
どんな劇的な変化がペテロの心の中に起こったのだろう。
ペテロは手紙を信徒達に書き送り、迫害の中で誕生したばかりの初代教会を励まし育てた。
もしイエス・キリストの復活がなかったら。
もしイエス・キリストの復活が単なる誰かの空想話や捏造だったら
人々から軽蔑され自己嫌悪のどん底にいたペテロは宣教し書簡を書き残し殉教出来ただろうか。
迫害に耐えて殉教するまで宣教し、多くの信仰者を励まし続けたペテロの手紙は、
復活の事実がなければ矛盾そのものだ。
ローマ帝国による弾圧の時代に危険を冒してまでこんな手紙を書く動機は何処にあるだろうか。
イエス・キリストが現実に甦られた事実、ペテロが復活したイエスに会って裏切りを赦された事実、
聖霊を送られた事実。
もしイエス・キリストの復活が事実でなかったら
弾圧と嘲笑と自己嫌悪のどん底からペテロはどうやって這い出したのか。
ペテロが自分の保身に都合のいい復活の夢物語をでっち上げてまことしやかに語ったとしても
一体誰が耳を貸すだろうか。
捏造した作り話や夢物語のために危険を冒して各地を宣教して歩き殉教まで出来るものだろうか。
自分で自分を騙している者のでっち上げた空想話が2000年の長い時間人の心を打ち続けるだろうか。
復活が事実でなかったとしたらペテロが挫折した信仰者の立場から手紙を書くに至るまでの
心理的変化が何もかも不自然で矛盾だらけになる。
信じがたい復活の奇跡を私はあっさり信じた。
5歳の子供だったからだろうか。
そうではない。
復活を捏造された夢物語として否定した場合に生じてくる、
ペテロの不自然な心理変化と矛盾の方に私は目をつぶる事が出来ない。
復活は捏造された夢ではなく現実であり、ここに手紙という証拠が残っているのだと
信仰者である私は確信する。
2000年以上もの時間を経て私はペテロの手紙を読む度に自分が今ここで、
イエス・キリストの復活の証拠を手にしているのだと思う。
ドラマの端っこにほんの少し貼り付けられただけの悔悛のペテロから、
信者である自分はキリストの復活を思い浮かべる。
私が見たサスペンスドラマのような娯楽番組であっても、
一度福音書のペテロを盛り込むと誰も証明する事の出来ない2000年前の復活を突き付けられる。
ペテロの悔悛は悔悛だけで終らなかった。
ペテロと言う一人の人間の生涯を通して示されるキリストの復活を信じるか信じないか。
ドラマを見てそんな事を考えていた。