ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

実現しない旅の夢

2006-11-30 01:32:49 | 信仰
吐き気で一日寝て棒に振った。


くさくさしてても仕方ないので
当分実現しないであろう旅について考える。


海外には
旅に出掛けるほど興味ある場所は
あまりないけど、


フィレンツェのパッツィ邸の中を
じっくり見たいな。
ルカ・デラ・ロッピアのレリーフを
1日じっくり眺めたい。


あと、
捨て子養育院の建物の細部も
じっくり眺めたい。


それから、
観光客の集まらないひなびた教会建造物で
ぼーっとしたい。


ごてごてした成金趣味の
装飾過多な教会建築や美術品には
あんまり興味ない。
そんなのは写真集で充分。


私はカトリックではないので
巡礼の習慣はないけど
巡礼には憧れがある。
主なる神と共に旅をする。
道の途中に
廃墟になった修道院や寺院や廃村がある。
そこでしばらく考え事をしたい。
時間を超えた遥か昔にも
同じただ一人のお方に祈りを捧げ
日々の生活を営んだ人々がいた、
その痕跡を見るのが好きだ。


同じ理由で、
国内を旅するなら
五島の島々に行って見たい。
長年の塩を含んだ風雨に晒された、
信徒達の手作りの木造建築の聖堂を訪ねて
長い歴史の間に
そこで祈りを捧げ続けた人々の
日々の生活や
主なる神に打ち明けてきた思いを
想像したりしてぼーっと時間を過ごしたい。
そこで今も信仰生活を営む高齢の人々の
話を聞きたい。
若い頃の話とか
信仰の道程の話を。


海を眺めたりして。


あ、
海ならここからも眺められるか。
港の見える場所で
私は以前も今も働いてるのだ。
ちょっと
足を伸ばせば遠浅の海岸もある。
そうそう、
つまり旅に出たいというのは、
ボーっと海と空を眺めたい、
それだけ。

『道ありき』

2006-11-29 01:08:11 | 読書
『氷点』の著者、
三浦綾子さんのエッセイにどっぷりとはまって
酔っ払ったようになった事がある。
洗礼を受ける前の求道中の1年間だった。


三浦さんご夫妻は私の母教会の教会員夫妻と
結核患者の短歌の会の友達だった。
それを聞いたのがきっかけで
私は『道ありき』を読んでのめり込んだ。
何度も何度も繰り返し読んだ。


実在する身近なキリスト教信者達の信仰の歩みは
求道者にとって感慨深い。


『道ありき』や故・前川さんとの書簡集には
当時の結核患者達の生きる苦しみ悩みが
生々しく書き記されている。
同時に躍動感というか生きる事への執念というか、
今現代の私達の世代にはない、
何か熱いものが流れている。
その熱いものって何だろう。


生前、ご本人にお会いした事はあるが、
病状もあって信仰の事を掘り下げて話し合ったり
著作についての感想を話したりはしなかった。
綾子さんから茶目っ気たっぷりに
質問されて答えに困った事がある。


「恋人いるの?何人?」


私は答えようがなかった。


  妻の如く想ふと吾を抱きくれし君よ君よ
                還り来よ天の国より

  「綾ちゃん
   ・・・
   綾ちゃんは真の意味で
   私の最初の人であり、最後の人でした。
   ・・・
   一度申したこと、
   繰返すことは控えてましたが、
   決して私は
   綾ちゃんの最後の人であることを願わなかったこと、
   このことが今改めて申述べたいことです。
   生きるということは苦しく、
   又、謎に満ちています。
   妙な約束に縛られて不自然な綾ちゃんになっては
   一番悲しいことです。・・・」
   (三浦綾子著『道ありき』新潮文庫昭和55年より)


上記は前川正さんの死後詠まれた綾子さんの短歌と
前川正さんから綾子さんに宛てた遺書である。
綾子さんの無邪気な問いかけに答えられなかったのは
付き合う相手が一人もいないからではなく、
今この世に生きている私は
あんなに一生懸命生きていないし
あんなに一生懸命人を愛したりしていない、
そう思ったからだった。


傍で光世さんが優しくたしなめていた。
暇乞いすると、


「もう帰るの、
 もっと歌って。
 踊って。」


綾子さんは可愛らしい、
童女のような人だった。
こんな歌を歌っていた。


この道は
いつか来た道
ああ
そうだよ・・・

待降節

2006-11-28 21:56:57 | 信仰
本当は
クリスマスに飾るなら
こっちなんだけどと
キャンドル立てと
馬小屋セットを持って来た。
いずれもステンドグラス。
聖家族はそれぞれアズキ大。
飼い葉桶は空っぽ。
クリスマスイブに米粒大の
幼子イエスを乗せる。
ちまちまとセットしながら
福音書の降誕の部分を説明した。
先日の小学校校歌以来、
老父はCDラジカセの使い方を習得したので
待降節と降誕節の
古い賛美歌カセットテープも
鳴らしてみた。
こないだの礼拝では
老父もクリスマスの賛美歌集を
貰って来ていたので。
あと1ヶ月、
しみじみ味わって頂く事としよう。

教会は共同体?

2006-11-24 11:32:25 | 信仰
過疎地で礼拝20人は多いのかな?
まるがりたさんのところでカキコし過ぎた。
すんません。
改めて自分とこでアップします。


うちの教会、
名簿上はもっとたくさんいるんです。
倍くらいかな・・・待って・・・ ああ、ほぼ倍だね。


北海道のメノナイト派では
教会を信仰の共同体と理解しているのが特色かも知れない。
だから
共同体に理想像を重ねて偶像化してしまう危険を
常に意識していなきゃならないけどね。


うちの教会は1969年の創立以来
いい時も辛い時もたくさん随分紆余曲折波風被って来て
私がここに来た頃は辛い時だった。
今の教会の祈りの輪のつながりも信頼関係も
来た頃には想像出来なかった。
この図太い私が札幌の母教会に戻りたいと思ったほど。


でも
いろんな事で教会は危機を経験するけど
その時に
司祭や牧師の傍らに
一緒に祈って苦楽を共にしようとする、
そんな信徒が1人でもいれば
神様が教会に人を送って下さるっていう事がわかった。
私自身も
自分が運ばれて来た者の1人だったという自覚がある。
あの辛い時に牧師夫妻の傍で
一言も文句言わずに祈っていた、
そんな教会員が1人いた。
私は
その人を見て思ったね。


 あ、
 この人は今キリストと一緒に十字架を担っている。


そしてその人は一緒に祈ってくれないかって
新参者の私に声をかけてくれた。
私はその時『De imitatione Christi』Ⅱの
11章を思い出した。


 イエズスの天の国を愛する人は多いが、
 その十字架をになおうとする人は少ない。
 慰めをのぞむ人は多いが、
 苦しみをのぞむ人は少ない。
 イエズスと共に食卓に着きたい人は多いが、
 イエズスと共に断食する人は少ない。
 キリストと共に楽しむことをのぞむが、
 キリストのために何ごとかを忍ぼうとする人は少ない。
 パンを裂くまでイエズスに従う人は多いが、
 受難の盃を共に飲もうとする人は少ない。
 多くの人はその奇跡に驚嘆する、
 しかし十字架のはずかしめまでつき従う人は、少ない。
 多くの人は不幸が来ない限りイエズスを愛し、
 慰めを受けている限り彼を祝する。
 しかし
 イエズスが姿を隠し、
 暫らくの間でも彼らからさると、
 不平を言い、ひどく落胆する。
 しかし、
 イエズスから受ける慰めのためではなく、
 イエズスをイエズスとして愛している人は、
 患難や苦しみのときにも慰めのときと同様に、
 彼を賛美する。
 そしてイエズスがいつまでも慰めを与えなくても、
 かれらはいつも、感謝と賛美を怠らない。


バルバロ訳だから
イエス・キリストが「イエズス」になってるね。
痛い所を突かれるでしょ。
教会はキリストの生きた体だから
いい時も辛い時もあるし、
そこにいて楽しくなきゃ嘘だけど、
だからと言って
教会に楽しい事ばかり求めているんじゃ
ダメだって事でしょ?
教会が内側から疲弊してくるからね現実に。


あれからもう何年も経ったけど、
その人の祈りを聞かれた神様の御手に
自分も
自分の後から転入して来た中間達も皆、
運ばれて来たのだと
私は思っている。


その頃から少しずつ
祈りの輪に加わり始めた仲間と協力し合って
奉仕やいろいろな教会運営を
牧師と共に皆で担う相談をした時に
ある注意事項が誰からともなく自然と出てきた。


それは
祈りとか分かち合いとか教会として当然の事とは別に
さらにもう一点。
「つかず離れず結束力が固い」が大切だという点。
教会が少人数の人間関係に凝り固まったり
左右されないために、
そして
自分達が仲良し便所友達グループみたいな派閥に
なり下がってしまわないために 、
自戒のつもりで最初の目標としたのが
「つかず離れず結束力が固い」という点。
それが大切。


それから徐々に
意見が合わなくて距離置いてた人と、
よく分からなくて遠巻きにしていた人とが
少しずつ加わってくれて、
さらに
何かに躓いて離れようとしていた人と、
一度立ち去った人とが
少しずつ戻って来てくれた。


人数だけを問題にすれば
結局何年か経つと
また何人も転勤や職探しで出て行って、
入って来る人は少ないんだから
同じと言えるかも知れない。
それで今礼拝は平均20人前後。
でも
遠くに転出した仲間とは
お祈りの輪はつながったまま。
転出した先の教会の力になってくれてると思う。
今も安否や近況報告や祈りの課題は
お互いにやり取りして
支え合ってて結束してる。
私自身随分励まされて助けられた。
ありがたい。


少し前、
牧師先生夫妻との雑談で
私が来た頃の大変だった話をした。


「あの時は
 今の教会の姿が想像も出来ませんでしたね。」


私がそう言うと、
牧師先生は笑っていた。


「僕が36年間牧師やってる間に
 似たような事は何回も遭遇したさ。
 でもその度に教会はちゃんと守られて
 乗り越えてきたよ。
 うちの教会だけでなくて、
 どこも皆そうだよ。」


あの大変な時に
ひたすら忠実に祈ってた仲間に教えられた。
祈りの輪は教会の土台だって事をね。
本人にいくらその話しても
「?」な反応しか返って来ないけど。(笑)

胸を張って

2006-11-20 10:59:39 | 音楽
このン十年間の間に聴いた日本語の歌の中で
一番心に響いた歌をご紹介。


 胸を張って(作詞作曲/びゃっきー)


  あぁ 何もかも全部うまくいかなくて
  まわりから白い目で見られて
  肝心なトコでミスしまくって
  恥はかいちゃうし辛いんだけど


  でも下は向かない
  心は真っ暗だけど
  出口も見えないけど  
  進まなきゃならない道ならば


  苦しいときこそ胸を張って
  みじめなときこそ胸を張って
  あしたはきっともっとヤなことがある
  だから負けないように
  胸を張るんだ 胸を張るんだ


  あぁ 
  ちょっとだけほめられて調子にのって
  だけど現実をすぐ見せられ
  人と比較していつも落ち込んで
  ため息ばっかりついてるんだけど
  でも崩れない
  少しはチャンスもある?
  ひざついて立ち上がって
  倒れてる場合じゃないのなら


  悔しいときこそ胸を張って
  男の子だって涙が出ちゃうけれど
  トスを見逃さないように
  胸を張るんだ 胸を張るんだ


  広いこの世界で僕らは迷いながら
  進んでいくんだ明日を生き抜くために


  そうさ下は向かない
  見上げれば曇り空
  雨模様 傘がなくて 
  どうせずぶぬれになってしまうのなら


  苦しいときこそ胸を張って
  負けそうなときこそ胸を張って
  耐えられなくってしんどくなったときは
  ちょっとだけ泣いて 寝て 起きて
  胸を張るんだ 胸を張るんだ


  胸を張るんだ


この歌が
ある人のブログに引用されたのを読んだのは
今年の初めだったかな。
仕事辞めていろいろやらなければならなくて
自分の時間がない事でイラついて
人に当たって
人から非難されて
人から嘲られて
人からゴクツブシ呼ばわりされて
(全部家族だけどね)
しかも
自分自身が
心身共にくたびれていて
本当は何もしたくないほど疲れてるのに
時間の大半が占領されてしまって
あれもこれもしなければならない事だけで
同時に自分自身の職探しと
金銭の心配もしなければならなくて
でも
そんな時に
聖書なんか開いたら


『いつも喜んでいなさい』


とか書いてあるじゃない。
アレルギー起きたね。
キリスト者だけど。


やってられっかい
やめてやる
生きるのやめてやる
そもそも今生きている事自体が間違いだ
いや、
生まれてきた事そのものこそが間違いだった
とか
人生呪いながら
うなだれて足引き摺って
やりたくもないでもしなければならない雑事を片付けて
これ片付いたらもういいよね人生終わっても
とか
これ以上はないところまでへこんで
グーの音も出ない時に


この歌詩を読んだ。


ちょっと元気が出た。
所詮こんな単純な自分なんだと思ったけど
でもありがたかった。


このブログの左、ブックマーク欄の


びゃっきーINFORMATION
http://www.satram.jp/byacky/


を開くと
この詩の作者びゃっきーさんの歌を聴く事が出来ます。


”苦しいときこそ胸を張って”のフレーズが
仕事してる時や
くたびれて帰りの道を歩いてる時に
耳の奥で回って
それでまた少し元気になる。


読者の皆様
是非聴いてみて下さい。
元気出ます。


最後に
びゃっきーさん
ありがとう。

自己紹介の末尾

2006-11-20 09:45:53 | 日常
先日、
お友達になって下さった方がいて、
その方からメールを頂いた。
ある健康上の問題を抱えておられて
自分自身ずっと苦しんできて、
周りからも偏見とか侮蔑的な態度とられたりとか
長年ずっと
そんな体験をし続けてこられたのだろうか、
初めて私に下さったメールの
最後の一文に書かれていた。


  もしも私(疾患名)等に
  嫌悪感を持たれているなら
  こんなメッセージをしたことを
  お許しください。


胸が痛くなって
物凄く悲しかった。
人と出会った時に
自分が相手から
まず嫌悪感を抱かれるであろう事を前提に
自分を紹介している。
誰かと出会う度にその方は
自己紹介の最後に
毎回こんな言葉を付け加えてきたのだろうか。
悲しくて泣きたくなった。


私自身は
人から拒絶されたり
存在を黙殺されたり
蔑笑される時に
大抵自分で種を蒔いている自覚がある。
自分でわざと原因を作っている。
相手から嫌われる時、
私は自分の方から既に
「こいつには好かれたくない」
というオーラを出しているらしい。
嫌われて当然の事を自分で自発的にやっている。
ある意味自業自得。
しかも
屁とも思わなかったりする。
これは
意図せずして嫌悪感を抱かれたり
拒絶されたりするのとは違う。


このメッセージを下さった方は
私とは全く違う。
先んじて相手に「アンタッチャブルだぜっ!」の
有害電波を送る私とは次元が違う。


この方の場合、
相手の拒絶の動機となるものは疾患だ。
疾患は不可抗力ではないか。
その不可抗力が原因で嫌悪感を抱かれたり
近寄ると拒絶される。
その体験を繰り返して苦しむうちに
心身のバランスが崩れる。
人間関係にも仕事にも日常生活の全てに陰を落とす。


この方は(疾患名)の中にある病名を書いてきた。
この()の中に
何でもいい。
病名を入れてみれば解る。
()の中に入れて不自然な疾患名はない。
一つもない。
そして
そんな疾患を全く一つも持っていない人間なんて
この世に一人もいない。


だからさ、
拒絶される前から
こんな言葉を書いてはいけない。
拒絶するつもりのなかった者は
これ読んで泣きたくなった。

父と三浦文学

2006-11-20 09:21:27 | 信仰
日勤で礼拝に出られなかった昨日、
父を教会に連れて行ってくれたヘルパーが
連絡ノートにコメントを書いていた。


 これから寒くなって、
 雪が積もる季節になりますね。
 今のところ
 毎週教会に行くのを楽しみにしている様子なので
 日曜日が
 吹雪とか悪天候にならなければいいと思います。


父は今のところ
教会に毎週行くのを楽しみにしているらしい。
毎回介助のため同行するヘルパーが
そう評価しているなら本当なのだろう。
ありがたいことだ。
昨日父に聞いてみた。


 「礼拝、今日どうだった?」


 「子供達が来てたぞ。」


牧師の話を説明できるほどには理解できていない様子だが、
確かに喜んで教会に行っているらしい。
父の行動半径に教会が確実に定着している。


自宅に戻ると
三浦文学にどっぷりはまっている。
上下巻を1週間で読み終わる集中の仕方で、
横にお茶と干し柿を置いても無視。
セットされた夕食も声をかけないと時々後回しになる。


私が釧路に来た頃は
私が送った『銃口』と『母』を読んで泣いていた。
三浦さんに自分で撮った丹頂鶴の写真をパネルにして
贈るほどの愛読者になった。
三浦さんが快く貰って下さって、
父は舞い上がるほど喜んでいた。
その後、
再梗塞や色々な事があって
父はしばらく読書をしていなかった。
最近、
大河ドラマに登場した細川ガラシャの
絶命シーンに触発されて
日本史好きの父に
三浦さんの『細川ガラシャ夫人』と
『千利休とその妻たち』を渡すと、
この2週間ほどはまったままになっている。
ちょっとしたマイブームだ。
先週ヘルパーが連絡ノートにコメントしていた。


 『ガラシャ』を読み終わったようです。
 私が帰る時に挨拶すると
 涙目になっていました。
 感動したのだと思います。
 見られないように顔を隠してたみたい。


文学を通して
どれだけキリストに近寄る事が出来るか、
目下観察中だ。
もうそろそろ『千利休』も読み終える。


次は
『塩狩峠』を用意してみた。
三浦さんの代表作。


父にとってこれまでの歴史小説とは別物のはず。
父は昔、
この小説の主人公と同じ鉄道機関士だった。
蒸気機関車に右脚を轢かれて管理局に配置換えされたが、
古い写真を見る限り、
機関士は父にとって一番好きだった仕事だ。


どう思うだろうか。
キリスト教の信仰をもつ実在の機関士が
乗客の生命を救うために
暴走する車輪の下に身を投げ出して
それを止めた。
実際にあった事件だった。
父は
自分の身体の一部を機関車の巨大な鉄の車輪に轢かれる、
その痛みを知っている。


どっちだろう。
父は主人公に
共感して感情移入するだろうか。
アレルギーを起こして反発するだろうか。

霊的成長って何?

2006-11-17 01:08:24 | 信仰
この『ぱんくず日記』を始める直前、
私は心身共に故障中だった。
身動きとれず起き上がれない状況で
仕事を失う事やいろいろな事の疲れや
信仰上の飢え乾きもあって
絶望的な精神状態でベッドの上に転がっていた。


そんな時に
しばらく前に注文していた本が宅配便で届いた。


 『道しるべ―スピリチュアル・ライフ入門―』
        (英 隆一朗著 新世社 2005年)


黙想の本である。


この著者の祈りの本『祈りのはこぶね』を
私はずっと以前から愛読していた。
信仰上の飢えを感じた時に
いろいろな検索から別の著作もある事を知って
注文していたのだった。
本を注文した事すら忘れて
寝転がって下肢の痛みが退くのを待っていた。
伝い歩きで宅配便を受け取り、
寝ながら読んでみた。


引っ掛かるものがあった。


  私たちの人生になぜ荒みがあるのでしょうか。
  なぜなら、私たちの人生で最も大切なことは、
  慰めを得ることではなく、
  霊的に成長することだからです。
  神はそれを一番望んでおられます。
  霊的成長に慰めが必要であれば、
  神はそれを与えてくださる。
  逆に荒みが必要であれば、
  神は荒みをその人に送られるのです。
  だからこそ、
  私たちはそれが荒みであれ、慰めであれ、
  それを素直に受けとり、
  そこから霊的に成長していくことを
  心がけねばならないのです。
  確実に言えることは、
  私たちの信仰は慰めによっても、
  荒みによっても深めることができるし、
  そうするように呼ばれているのです。
  それをどのように乗り切るか。
  まずそのことから逃げないこと。
  希望を捨てないこと。
  そして、
  祈りのうちに十字架のイエスと共に
  誠実に生き抜くことです。
  非常な困難なときは、
  結局のところ信仰によってしか
  乗り切ることはできません。
  むしろそういう形でこそ
  信仰は最も深まっていくのです。
  信仰は夜、成長するのです。
  夜を通り抜け、最終的に、
  私たちはキリストの復活の命に与っていきます。
  それこそ私たちの
  人生の最大の目的と言えるでしょう。
   (『道しるべ―スピリチュアル・ライフ入門―』
         英 隆一朗著 新世社 2005年より)


この文章に私は引っ掛かった。
これを読んだ時点の私自身の
ありのままの感想をここに書く。


 正しい事を言っている。
 でも痛い。
 私にとって痛い文章だ。
 霊的に成長なんかしなくていい、
 希望を捨てるなと言われても、
 キリスト者は希望を捨ててはならないと知っていても、
 現実に私は
 自分の人生にも
 自分自身にも
 今後の展望にも
 何の期待もしていない。
 望む事が何もない者は、
 どうやって、
 何の希望を持てばいいのだ?
 天国に行く事か?
 霊的に成長する事か?
 そもそも霊的成長って何?
 このまま生きていたら
 この先に希望と呼ぶべき何かが
 用意されているのかも知れないけど
 いらない。
 疲れた。
 終わりたい。
 終わろう。
 早く。


回想する限り、
ひどい毒の回りようだ。
抑鬱の毒。
教会の牧師先生夫妻や教会の仲間には
随分心配をかけ、
とりなしの祈りに覚えて頂いた。
有難い事だ。
半年たった今、
自分を取り巻くものは完全に様相を変えている。


今、私はもっと冷静に
自分の信仰を吟味するために
この本を読む事が出来る。
ただ、
一つだけまだひっかかったままだ。


 霊的成長って何?


よくわからないまま半年経った。


そして昨夜、
水曜夜の聖書研究会で再びこの言葉に遭遇した。
津波が来るとも知らずに皆で開いたローマ書の中。


  そういうわけですから、
  私たちは、
  平和に役立つことと、
  お互いの霊的成長に役立つこととを
  追い求めましょう。
        (ローマ14;19新改訳)


  だから、
  平和や互いの向上に役立つことを
  追い求めようではありませんか。
        (ローマ14;19新共同訳)


霊的成長って何?

委ねきれない心理

2006-11-17 00:20:43 | 信仰
委ねきれない自分は
手術の時に
全身麻酔で眠ってしまう事を
拒否した自分である。


写真の
1枚目は腹の中の腫瘍。
主治医が撮影したが上手くない。
中から骨の欠片が3、4個と
13.5mの髪の毛が出て来た。
手塚治虫の
『ブラック・ジャック』に登場するピノコは
これの仲間。
いろんな臓器に出来る。
私は腹から摘出したが
友達の娘は口腔内から摘出した。


良性。
どうって事もなく切除したもの。


あまり気持ちの良いものではないが
何故今でも手元にあるかと言うと、
理由は2つある。
捨てそびれてしまったため。
そして
切る側の立場に自分が立った時に
切られる側の心理を忘れないでおこうと思ったため。


これは良性だった。
腫瘍は摘出して中身を病理分析してみないと
良性悪性の判別は出来ない。
万一悪性だった場合の腹腔内精査のための
手術時間の延長を考えて
本来は全身麻酔下に行なうはずの手術だったが
私は麻酔科医に無理を言って
全身麻酔ではなく腰椎麻酔で
手術中は眠らずに覚醒していたいと頼んだ。


私は当時まだ営業職で何の知識もなかった。
何もわからない事に対する恐怖と
外科スタッフに対して


「人が眠っている間に
 こいつら何するか分ったものじゃない」


などと不信を持っていたために
手術中に自分が眠ってしまうなど
受け入れる事が出来なかった。
それで
術前の麻酔科オリエンテーションの時に
麻酔科医に相談してみた。


「あのー
 手術中眠らずに
 起きている訳にはいかないでしょうか?」


「あなたのように言って来る患者さんも
 多くはないけどよくいらっしゃいますよ。
 開腹している光景を
 その最中に自分で見る事は出来ないけど、
 麻酔の方法は出来るだけご希望通りにします。」


麻酔科医は快く承諾してくれた。
今考えると、
麻酔科医にとっては
すっごく麻酔管理が面倒で難しいのだ。
一定の期間手術場で働いて
見ていた今だから言えるが、
意識下でする手術は麻酔管理が難しい。
患者さんが手術中に覚醒してると
不安や緊張から
途中で気分悪くなったりする可能性が高くて
手術が中断したり予想外のトラブルが起き易い。
突然血圧がドンと落ちたり
心拍がビョ~ンと延びたりする事もある。
よく希望を聞いてくれたものだ。


私はそんな事情も知らずに
「手術中は眠りたくない」などと頼んで
手術中はシャッキリ覚醒していた。
術者の様子を観察し、
間接介助の看護師や麻酔科医にあれこれと質問して、
ひとつひとつ説明を受けながら手術を受けた。


「今、切って開いてます。
 気分大丈夫ですか?」


とか


「今、中を見ていますが、
 目で見ても良性の腫瘍ですよ。
 見ますか?
 これは念のため病理検査に出しますね。」


とか。


知らないと
そういう無謀な事もする。
知らないという事は恐ろしい。
今自分が何をされているのか
分らない事だけが不満だった。


やだなーこんな患者。
扱い難かっただろうな。


人それぞれ
何に恐怖を感じるかは違っているが、
患者さん達を見ていると、
殆どの人が
意識下での手術は恐怖だと言う。
私の場合、
手術中に何をされているかわからない、
見えない事の方に不信と不安があった。


安心して委ねる事の出来ない心理は
まさにこれ。

自分のために今一番したいこと

2006-11-14 23:50:31 | 信仰
『霊操』という言葉に引っ掛かって
マイミクのお仲間から
サイトをご紹介頂いた。


早速見てみた。
そのうち『34週の霊操』の中の、
「祈りの要点」では
具体的な週別の課題が出されている。


精神神経科で行なわれる内観療法のように
自分で自分の信仰の内部を見詰めて分析していく。

 
あー
自分は自分のために
こういう事をしたかったのだと
ちょっとわかった気がする。


しかし6月の時点では
身体も精神も故障したまま
自分でも漠然としていて
実際に何をどうしたらいいのか
方法論も何も知らず、
どうしようもないので試行錯誤の末に
書いた事も読んだ事もないブログという手段を使って
この『ぱんくず日記』を書き始めた。


読み返してみると、
書くという行為そのもので自己分析してはいるが
書く事によって自己完結してしまっていて
自分自身にとって実のあるものは書いてない。


このサイトに紹介されたような事を
自分自身に対して実践できたら
もう少しは楽になれるかも知れないと
思ったりする。


そう。
私は私自身のために
こういう事を実践したかった。


そして


自分の中にある最大の問題は


委ねきれない事。

昨日の礼拝

2006-11-13 07:37:55 | 信仰
私はまた仕事で
礼拝に出られなかったけど、
父は昨日もひどい雨の中
ヘルパーに連れて行って貰って
昨日は子供達全員に、
先週会えなかった一番小さい子にも
会う事が出来たらしい。
満面の笑みを浮かべていた。
子供の顔を見て甘酒や菓子をやって
自分の方が幸せになったじじであった。



なおとくん
早く教会においで。
待ってるから。


さっちゃんのお腹の中のチビちゃんも
早く元気に生まれておいで。
待ってるから。


それと
教会のカレーって
何でそんなに美味しいんだろう。
ヘルパーまでが報告ノートに
「とっても美味しかったです」
なんて書いてた。
でっかい鍋で作るからかな。
食べたかったなー私も。

ぱんくず日記を読んで下さるキリスト者の皆様へ

2006-11-09 00:59:13 | 信仰
今、
このぱんくず日記を読んで下さっている、
キリスト者の皆様に、
大真面目なお願いがあります。


私の教会仲間のkotsueさんのご主人のために
お祈り下さい。
私の教会の仲間です。
ずっと一緒に教会で
共に歩んできた家族です。


日付が変わって
本日午後1時に手術室に入室、
2時から手術開始します。
肺の転移巣の切除です。


抗癌剤、放射線治療と、
ひとつひとつの課題に対して
厳しい現実の中で
私達教会の家族は共にとりなしの祈りを捧げて
支え合ってきました。
そして今回の肺転移巣の胸腔鏡下切除。
この手術を平安のうちに乗り越える事が出来るように、
そして手術の後、
残るリンパの転移巣や
様々な治療による副作用とも戦うための
予備力が与えられるように、
どうかお祈り下さい。
私達と共に心を合わせて下さると幸いです。


先ほど夕方から教会の聖書研究会に出席し、
ローマ書を読みました。
パウロの言葉が目にしみました。


 わたしたちの中には、
 だれ一人自分のために生きる人はなく、
 だれ一人自分のために死ぬ人もいません。
 わたしたちは、
 生きるとすれば主のために生き、
 死ぬとすれば主のために死ぬのです。
 従って、
 生きるにしても、死ぬにしても、
 わたしたちは主のものです。
             (ローマ14;7~8 新共同訳)


私達が心を合わせて祈るならば
必ず聞き届けられると信じます。
私達にはこの地上で
まだこれからたくさんの
分かち合うべき信仰の恵みがあり、
分かち合うべき歌も笑いも涙もあり、
分かち合うべき時間も糧も、
分かち合うサックスの音色もライブの熱気も
まだこの先たくさんあると確信して祈ります。
ですから
どうか
同じ唯一人の救い主を信じるキリスト者の皆さん
共に祈って下さい。
力をお貸し下さい。
お願いします。

ありがとうを言いそびれた

2006-11-07 19:23:52 | 信仰
9年前、脳梗塞で倒れた父は
後遺症が残っても
なお一人暮らしの気ままな生活を望んだ。
リハビリによって
日常生活動作のレベルが維持可能とわかり、
私は仕事を辞めて父と同居し始めた。


疎んじられ折檻を受けて育ち、
恨みを表出せず燻らせたまま
情のつながらない子供である自分を
私は自覚してもいた。
しかし私自身も若い頃に病気で入退院して
経済的に父に迷惑かけた事があり、
そして何よりも主なる神の御手に他の選択肢を絶たれ
引き摺られるようにして、
長年音信不通の続いた父親と同居し始めた。


父にとっても私自身にとっても
抑鬱状態になるほどのどんよりとした日々。
信仰上こうするのが神の御旨だと
気づいて従っておきながら、
私の腹の中は呪いで一杯だった。
自分の元いた場所に
置き去りにしてきた仕事と進学や展望、
母教会での信仰生活に未練たらたらで、
つい今年の春先まで引き摺っていた。


今年の9月の末、
久しぶりに教会の礼拝で
メッセージの奉仕をする事になった時、
私は思い立って父を教会に誘ってみた。
父はそれ以来、今も教会に通っている。
私が不在でも構わずヘルパーに連れて来て貰って、
皆から歓迎され、
食卓を共にさせて貰い、
子供達から声をかけられ、
幸せに日曜日を過ごしている。
主なる神がずっと昔から父という人間を招いておられ、
教会に迎えて下さっている事を実感させられる。


私自身は自己分析と称して文章の上で完結し、
過去の恨みには関心も薄れつつある。
過去に手を上げられたり罵倒された恨みや呪いが
全て帳消しになるほどの
父の幸福を目に見ているからだ。


今の父の幸福は、
数え切れない人々の励ましと
とりなしの祈りに支えられている。
母教会の牧師先生と教会で出合った人々、
今の教会の牧師先生と教会で出合った人々、
これまで仕事を通して
助言やダメ出しをしてくれた上司や先輩、
そして患者さん達。


主なる神にこうしろと言われていても、
わかっていながらその通りに出来なかったり、
本当にこんな事していていいのかと
自分のする事に確信が持てない時、
ひとつひとつの事に確信を持たせ、
決断の勇気を与えてくれた。
特に患者さんから言われた一言一言は
何年経っても忘れていない。


父と同居し始めたばかりの頃、
働き始めた病院の外科で
私は癌の転移のため胆道閉塞を起こして
ENBDチューブを鼻から挿入された人に出合った。
長くて黒い髪の、
私よりも多少年上の女性だった。
来たばかりなのでと自己紹介しながら
私は受け持ち業務の病室回りをした。


その人は私に尋ねた。


「あなた、
 せっかく札幌の病院で働いてたのに
 何でこんな所に来たの?」


私は手身近に
父が一人暮らしの父が脳梗塞になったからだと答えた。


「脳外科退院後は施設に入れるとか、
 療養型の老人病院に転院させるとか、
 そういう選択肢もあったんじゃない?
 何も進学諦めてまで在宅で頑張らなくても。
 人からそう言われない?」


それは言われる。
実際いろんな人に言われた。
まして父自身から介護を頼まれた訳ですらなかった。
しかし私は
主なる神が自分に
何をしろと望んでおられるか気づいてしまった。
説明しても理解されないだろうとその時思った。


私は前の職場で出合った患者さんによって
背中を押されたのだ。
既に脳腫瘍で亡くなったその人は
円満な家族関係にありながら、
心配してくれた息子の勧めで田舎の自宅を処分し
札幌に移って入院していたが、
外出も外泊もしたがらず、孤独だった。


「この土地には自分の友達もない、
 知ってる店も馴染みの行き場所も何もない。
 私にはこの土地で居場所がないんだ。
 住いを処分した今となっては
 言っても始まらないけど、
 帰りたい。
 元いた所に、
 元いた家に帰りたい。」


その人の孤独な姿と言葉が今でも忘れられない。
主なる神はその人に私を引き合わせ、
御旨を悟らせようとなさった。


父は寝たきりになるほどの重度の後遺症はなかった。
適切な援助を受ける事が出来さえすれば、
今まで通りの生活をする事が可能だ。
でも適切な援助を受けるには
家族の誰かがキーパーソンになる必要がある。
ケアマネージャーがケアプランを立てたり
デイケアやヘルパーを利用するにしても
窓口役になる者が要るのだ。
施設は何年待っても空きの目途もないし
本人が絶対に嫌だと拒否する。
しかも父の身体レベルでは
優先順位がずっと後回しになってしまう。
だからと言って完全に独居では
自己管理もきちんと出来ず、
再び同じように室内で倒れて誰からも気づかれず、
いつか孤独死の腐乱死体となって発見されるような、
最悪の事態は免れない。
しかし私を頼って札幌に出ても
知人もなく土地も知らず
馴染みの店も行き場もない父には居場所すらない。
あの患者さんと同じ孤独に陥るのは目に見える。
また、
札幌の母教会につなげるには
当時父と私とはあまりにも疎遠すぎる親子であり、
まだ無理だった。


私の仕事は何処でも出来る。
自分が順応しさえすればどんな病院でも働ける。
後々になって後悔しないために
自分がこちらに移って来たのだと
私は興味を持って尋ねるその人に説明した。


「父本人がこっちに戻って介護してくれと
 願ったのでも頼んできた訳でもないんです。
 確かに自分の将来の事を考えたら、
 私の独断でバカな事をしているのかも知れませんが。」


「正しい選択だと思うよ。
 あなたの選択は間違ってないと思う。」


確信を失いかけていた時だったので
私はその人の言葉に泣きそうになった。
その人と会話らしい会話をしたのは
それっきりだった。


間もなくその人は
昼夜問わず激痛に苛まれるようになった。
鎮痛剤を増量して少し痛みが軽くなっても
朦朧として話を出来る状態ではなかった。
会話はどんどん減って、
痛いか痛くないかだけになっていった。
医師の指示で鎮痛剤を増量しても
痛みの軽減は僅かの時間しか保てず、
再び激痛が襲ってきた。
その人は病棟中に響き渡る声で泣き叫んでいた。
鎮痛剤の使用量の上限はどんどん引き上げられ、
やがてある日、
指示で決められた分の鎮痛剤を使い切ってしまった。
医師を呼んで次の指示を待っても
外来の急患や処置で医師の手が塞がっていて
すぐに指示を貰えなかった。


激痛の1分間はどれ程の長さだろう。


「今行くから待ってて。」


外来からこちらに向う医師を待つ数分間、
私達は責め立てられていた。
半狂乱で暴れ泣き叫ぶ本人と家族から。


「痛い痛い!
 早くして早くして!
 痛いよう!
 お願い早くして!」


「看護婦さん何とかして!
 早く何とかしやって!」


「痛い痛い痛い!」


「早く注射してやって!
 後生ですから!
 痛み止めで死んでも
 私達あなたを訴えたりしませんから、
 お願いします!
 早く楽にしてやって下さい!」


「痛い痛い痛い!
 殺してお願い!
 痛いよう!」


医師が来て鎮痛剤増量の指示を出してくれた。
既に持続で注入されている分だけでは
間歇的に襲ってくる激痛に対応し切れなくなっていた。
心電図のモニター画面を睨みながら
鎮痛剤を静注する日々が続いた。
恐怖で凍りつきながら注射器の押し子を押した。
自分が鎮痛剤を静注する間に
その人の心拍が止まるかも知れなかった。
手が冷たい汗でじっとり濡れていた。


その人はやがて痛みを訴える事すら出来なくなった。
黄疸で皮膚は黄土色に変わり、
眼は開いたまま乾き、
骸骨に薄皮を貼り付けたかのように痩せながら
腹が大きくせり出して、
辛うじて呼吸だけかすかにしていた。
その人の姿を見たのはそれが最後だった。
次に出勤してくると
病室の名札は別の人に張り替えられていた。


言いそびれたままだ。
「ありがとう。」を。
私達親子の今の幸福は
あの人の痛みの上に成り立っていた。
あの人の痛みに支えられてきた。


ありがとう。
あなたのおかげです。

父の日曜日

2006-11-06 00:35:01 | 信仰
昨日の日曜日は父にとって幸せな一日だったらしい。
昨日私は勤務で礼拝に出られなかった。
私の勤務に左右される事なく
父が個人として教会につながる事が出来るように
日曜日のヘルパーには
教会への同行を業務として依頼した。
父はヘルパーと共に
車椅子で毎週教会に行くようになった。


父が教会に行き始めてから既に1ヶ月が経つ。
父がどこまで礼拝の説教を聞いて理解しているか
キリストに思いを向けているのかどうか
現時点ではまだわからない。
しかし
「今日はやめておく」とか
「今日は行きたくない」とか
父はまだ一度も言わない。


生まれ育った時から
親に恵まれず
家族とか家庭というものを知らずに育った父が
教会の皆から歓迎され
温かい言葉をかけられ
教会の家族の中に迎え入れられている。
子供達から
「ばいば~い、またねー」と手を振って見送られ、
また来週も来る事を期待される。
それらのひとつひとつが
今の父の生活を豊かなものにしているのがわかる。


土曜日の夜になると
父はそわそわし始める。


 「明日、教会へはどのヘルパーさんが連れて行ってくれるのだ?」


 「教会に行くためのタクシーは頼んであるのか?」


 「ヘルパーさんは教会への道順を知っているだろうか?」


 「明日教会に子供達は何人来るだろう?」


 「明日、子供達に甘酒をやろう。」


 「お父さん、
  今時の子供は缶入りの甘酒なんて喜ばないよ。」


 「そんな事はない。
  弁当屋の子供は甘酒を好きだと言っていた。」


甘酒を好きなのは父本人である。
弁当屋の子供とは
宅配の夕食の配達員が
たまたま夏休みの子供を連れて配達に来た。
その時の配達員の子供である。
何もあげる物がないので
父は自分用のおやつの缶入り甘酒をその子供にやった。
子供が貰ってくれたのが
父にとってよほど嬉しかったらしい。
だからと言って
教会に来ている子供達が
父の期待通りの反応をしてくれるとは限らない。
「なにこれ。こんなのいらない。」と言われて
がっかりしなければいいが。


今夜仕事の後父宅に寄った。
ヘルパーのノートを読むと、
子供達が父の差し出した缶入り甘酒を貰ってくれた事と、
一番小さい子が来ていなかった事とが書かれていた。
父本人にとって
幸せな一日だったらしい。
喜んで帰宅した後、
父は三浦綾子著『細川ガラシャ夫人』を読了し、
泣いていたという。
次は『千利休とその妻たち』だ。
それも読み終わったら
『塩狩峠』を。


日曜日。
幸福な笑いと幸福な涙の日。

母校の歴史『便所打ち壊し事件』

2006-11-03 04:45:05 | 日常
mixiで
私が卒業した高校のコミュを見つけた。


ふふふ
若い卒業生諸君は
私達の母校が昔、
旧制の高等女学校だったのを知ってるかな?
第二次大戦後の教育制度改革で
共学になったんだよ。


つまり
母校の校舎は
今の鉄筋建て建築になる前の
私の在学時代に
木造モルタル二階建て
赤屋根に黄色壁に青窓枠にルンペンストーブの
基地外高校と呼ばれた時代があった。
さらにその前には
旧制女学校時代のぼろぼろの
100%木造校舎時代があったのさ。


そしてその時期には
母校の歴史に残る


『便所打ち壊し事件』


という珍事が実際にあったという。


だって
まだ戦争が終わって間もなくの
皆が貧しい時代だったし
共学になったからと言って
学校の校舎なんか
そんなに簡単に改築できなかった。
ただ
女学校だった校舎に
無理矢理男女の生徒を一箇所に集めて
収容し始めただけだったんじゃないかな。


問題はトイレ。
元々
女学校だったので
生徒用トイレは
「女子便所」というためツボしかなかった。
男子トイレはまだ作ってなくて
共学の実施に造設が間に合わなかったんだって。
でも
男子生徒だって
オシッコは屋外で密かに立ちションしたにしても
ウンチはそうも行かないでしょ。
トイレに行きたくなるよね。
冬場は屋外なんて特に切実。
マイナス20℃に凍りつくんだもの。
でも旧制女学校時代を引き摺っていた女子生徒達は
いぢわるして
男子生徒達にトイレを使わせなかったの。
男子がオシッコやウンチを我慢して
トイレに近づくと、
女子生徒達が


「きゃー!ここは女子便所よ!」


っていちいち迫害したんだって。
それで
気の毒な男子生徒達は
このあまりにも理不尽で
不平等な境遇からのストレスで不登校・・・
・・・になったりはしなかった。


男子生徒達は一致団結して
角材やでかい漬物石やいろんな物を持ち寄って
女子便所を破壊したんだって。


昔の高校生は
今の時代の高校生よりも
社会性があったのかも知れないね。
一致団結して戦う事を知ってて
実行したってところがね。


当時女子便所を破壊した男子学生のうちの一人が
化学の教師になって
私達の授業やってました。
「ほのほ」という
意味不明のニックネームでよばれてたな。


学校側も
別に停学とか退学とか
生徒を処分したという事も聞いてない。
男子生徒達の
切実な言い分を聞いて
間もなく
男女別のトイレが設置されたんだって。
ていうか
唯一あった女子便所も壊されて
使えなくなっちゃったしね。
新品設置するより他に
道はなかったよねきっと。


当時の教育制度改革の男女共学実施で、
旧制男子校の校舎に
女子生徒が通うようになっても
別に
トイレ占領とか破壊とかのトラブルは
起こらなかったみたいなんだけどね。
やだね。
いぢわるは。