教会の子供達に、じじがおやつを渡す。
大きな袋入りのお買い得チョコ。
「皆で仲良く公平に分けて食べなさい」と言うと、
子供達は皆で人数を数えて分配し、余ったチョコは
その場に居合わせた大人にも分けてくれると言って走り寄って来る。
小さい子供達であるが、小さければ小さいなりに、
チョコを貰えていない人がいないかどうか気にして大人達を見回している。
一つのものを、皆で
誰一人当たらない者の無いように公平に分かち合う事を
子供達は出来るようになった。
最近、自分達だけでなく他の大人達にも分ける事を自発的にするようになった。
ささやかな、微笑ましい分かち合いの光景。
この“分かち合い”はこれから生きて行く上で重要だと感じる。
“分かち合い”を日常で実践出来るかどうかで、
大災害のような限界状況に追い詰められても
皆で知恵と力を持ち寄ってある物を分かち合いお互いを思いやりながら
確実に生き延びていけるかどうか左右されるに違いない。
昨日読んだ、
被災地で医療支援に従事した看護師の方のブログの中の一文が気になった。
『…炊き出しの時間も現地の人優先だったので
見てるとお腹がすきそうだから救急車の中にいると
いつもお裾分けに来てくれた自分の母親くらいの年齢の方がいた。
「○○チャンに倒れられたらそれこそ大変だから」
と私の名前を覚えてくれていつも届けてくれた。
自分の明日の食事も見通しがつなかい状況なのに
申し訳ないのと感謝の気持ちでいっぱいで
いつも母のことを思い出していた。
そんなときラジオから
都内で物資を取り合いしているニュースが流れていて
震災の被災地が東京だったら絶対復興はしないだろうなと
ぼんやり考えていた…』
(ブログ『JKTS』2011-3-23 16:48:23 11.スマイルより)
読んでなるほどと思った。
大地震と大津波の後、
被災地では電気も水も燃料も無い避難所で身を寄せ合い、
人数分に足りないおにぎりの一個を数人で分け合って救援を待っていた。
その同じ時、被災しなかった地域のスーパーマーケットでは
米、飲料水、トイレットペーパー、
乾電池などの買い占め買い溜めに走る人々が殺到し、
商品棚から商品が消え、商品の補充が間に合わず、
一つの商品を二人の主婦が争って掴み合いする光景が繰り広げられ
日常的な目撃情報として話題になった。
(実際、私の住む田舎でも大型店の食品売り場から一時的に米が消えた。)
こんな奪い合いの状況にもし災害が襲って来たら
生存競争が起こって生き残る人は無く、復興も望めない。
米や水なんか奪い合ってどうする。
地震や津波の時に持って逃げるのか?
重いんだよ米も水も。
賞味期限とか品質保持期限というものだってあるし。
分かち合いが出来るかどうかに、私達人間の存亡がかかっていると思う。
何だか、『聖☆おにいさん』という
マンガの一コマに出ていた極楽と地獄の対比みたいである。
仏教の詳しい話は皆目分からないが、
次のような話のような話を聞いた事がある。
あの世ではスプーンの柄が物凄く長いので食べ難い。
極楽では柄の長いスプーンを使ってまず他の人に食べさせてやる。
すると他の人々も同じように自分よりも先に誰かの口に食べ物を入れ、
互いに食べさせ合うので、誰もが常に満腹している。
地獄では誰もが我先にと他者を押し退けてスプーンで食べ物をすくうが
柄が長過ぎて自分の口に入れる事は出来ず、誰もが常に空腹である。
私達の主イエスも、
持っている者は持っていない者に分け与えよと言われた。
救援の行き届かない被災地で一個のおにぎりを数人で分け合う人々と
被災もしていない地域の店で一個の商品を数人で奪い合う人々。
図式的に当てはまり過ぎではないか。
何と分かり易い極楽と地獄の対比。
大きな袋入りのお買い得チョコ。
「皆で仲良く公平に分けて食べなさい」と言うと、
子供達は皆で人数を数えて分配し、余ったチョコは
その場に居合わせた大人にも分けてくれると言って走り寄って来る。
小さい子供達であるが、小さければ小さいなりに、
チョコを貰えていない人がいないかどうか気にして大人達を見回している。
一つのものを、皆で
誰一人当たらない者の無いように公平に分かち合う事を
子供達は出来るようになった。
最近、自分達だけでなく他の大人達にも分ける事を自発的にするようになった。
ささやかな、微笑ましい分かち合いの光景。
この“分かち合い”はこれから生きて行く上で重要だと感じる。
“分かち合い”を日常で実践出来るかどうかで、
大災害のような限界状況に追い詰められても
皆で知恵と力を持ち寄ってある物を分かち合いお互いを思いやりながら
確実に生き延びていけるかどうか左右されるに違いない。
昨日読んだ、
被災地で医療支援に従事した看護師の方のブログの中の一文が気になった。
『…炊き出しの時間も現地の人優先だったので
見てるとお腹がすきそうだから救急車の中にいると
いつもお裾分けに来てくれた自分の母親くらいの年齢の方がいた。
「○○チャンに倒れられたらそれこそ大変だから」
と私の名前を覚えてくれていつも届けてくれた。
自分の明日の食事も見通しがつなかい状況なのに
申し訳ないのと感謝の気持ちでいっぱいで
いつも母のことを思い出していた。
そんなときラジオから
都内で物資を取り合いしているニュースが流れていて
震災の被災地が東京だったら絶対復興はしないだろうなと
ぼんやり考えていた…』
(ブログ『JKTS』2011-3-23 16:48:23 11.スマイルより)
読んでなるほどと思った。
大地震と大津波の後、
被災地では電気も水も燃料も無い避難所で身を寄せ合い、
人数分に足りないおにぎりの一個を数人で分け合って救援を待っていた。
その同じ時、被災しなかった地域のスーパーマーケットでは
米、飲料水、トイレットペーパー、
乾電池などの買い占め買い溜めに走る人々が殺到し、
商品棚から商品が消え、商品の補充が間に合わず、
一つの商品を二人の主婦が争って掴み合いする光景が繰り広げられ
日常的な目撃情報として話題になった。
(実際、私の住む田舎でも大型店の食品売り場から一時的に米が消えた。)
こんな奪い合いの状況にもし災害が襲って来たら
生存競争が起こって生き残る人は無く、復興も望めない。
米や水なんか奪い合ってどうする。
地震や津波の時に持って逃げるのか?
重いんだよ米も水も。
賞味期限とか品質保持期限というものだってあるし。
分かち合いが出来るかどうかに、私達人間の存亡がかかっていると思う。
何だか、『聖☆おにいさん』という
マンガの一コマに出ていた極楽と地獄の対比みたいである。
仏教の詳しい話は皆目分からないが、
次のような話のような話を聞いた事がある。
あの世ではスプーンの柄が物凄く長いので食べ難い。
極楽では柄の長いスプーンを使ってまず他の人に食べさせてやる。
すると他の人々も同じように自分よりも先に誰かの口に食べ物を入れ、
互いに食べさせ合うので、誰もが常に満腹している。
地獄では誰もが我先にと他者を押し退けてスプーンで食べ物をすくうが
柄が長過ぎて自分の口に入れる事は出来ず、誰もが常に空腹である。
私達の主イエスも、
持っている者は持っていない者に分け与えよと言われた。
救援の行き届かない被災地で一個のおにぎりを数人で分け合う人々と
被災もしていない地域の店で一個の商品を数人で奪い合う人々。
図式的に当てはまり過ぎではないか。
何と分かり易い極楽と地獄の対比。