ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

みしみし♪

2014-03-11 23:13:32 | 音楽
システムの復元をしてやっと立ち直ったVAIOで昨夜の昆布漁をオンデマンドで聴く。
散々リクエストしたクープランは今回もスルー、
しかし昨日の昼休みにダメもとでリクエストしたみしみしがかかっていた。
みしみしの正式な曲名も斎藤さんが教えてくれたのでようつべでも探してみる。
プニャーニの様式による前奏曲とアレグロ。
どんな曲かと言うと、こんな曲。

Kreisler, Fritz Prelude and allegro "In the style of Pugnani" for violin and piano



いや~ええ曲やー。


クラシック音楽には疎いので、クライスラーという作曲者の詐称エピソードは全く知らなかった。
曲名にくっついている「プニャーニの様式による」とか「クープランの様式による」というのは
クライスラーが往年の大作曲家達の未発表曲を「図書館で発見し編曲した」と言って発表したのが、
ある評論家に「曲は素晴らしいが演奏がくだらない」と酷評され、
頭に来て自分が書いた作品だったと告白して騒ぎになったのだそうな。w
そういう曲が20曲以上もあるらしい。
興味深い。


しかしあれかな、「誰が作った音楽か」がそんなに重要だろうか。
私はいいんだけどな、この曲の作者がプニャーニさんでもクライスラーさんでも。
この曲を聴いている私にとっては全然重要ではない。
そもそも私が普段から好んで聴いている古楽はどれもこれも作者不詳だし。
自分が聴く音楽にまで「***作曲」とか、ブランドみたいなものにこだわってもなぁ。
それこそくだらんと思うよ。


色の根源である「光」同様に、音楽も「音」である限りは
被造物に過ぎない人間である誰かの所有物にも、まして創作物などにはなり得ないと個人的に思う。
創作する人は光や音を識別して作品として表現し、それに共感し慈しむ人が多ければ
作者の名前も存在も忘れ去られた後の時代まで作品が残されるのだと思う。
「音」が元々誰のものでもないからこそ共感したり共有したりできるのではないかと。


バッハとかベートーベンとかモーツァルトとかシューベルトとかショパンとか、
有名な音楽家の書いた曲だからという理由ではわざわざ音楽を聴こうとは思わないし、
聴き惚れたりもしない。
いいじゃん。
みしみしがプニャーニさんの曲でもクライスラーさんの曲でも。
いやその前にこの曲がみしみしと呼ばれてわざわざCD取り寄せる人もいるんだから、
クライスラーさんもびっくりであるよ。


クライスラーには「テンポ・ディ・メヌエット」という曲もあって
随分前に買って今なお大事に聴いているCDの一曲目に収録されている。
ようつべにあった。
この曲。

Fritz Kreisler Tempo di Minuetto.wmv


私はこの曲が凄く好きであるが、これも「プニャーニの様式」が曲名についている。
いい曲だ好きな曲だと思って愛聴しながらも、言われなければそんな事には気づかない。
楽曲の誕生にどの作曲家が関わりどんな行きさつがあろうと「音」はそれらに左右される事無く
響く音は後々まで響き、響かない音は忘れられて来たのかも知れない。

Ola Gjeilo-The Groundから連想する

2013-11-17 09:31:36 | 音楽
11月は死者の月。
朝晩厳しく冷え込んで空気が清浄になり、日の出と日の入りの空が色鮮やかになる。


フェリーニの映画『そして船は行く』では盲目の皇女が
「音には色がある」と言うシーンがある。
随分昔から私も同じ事を思っていた。
観想録のブログの何処かに書いた記憶があるが、音には色があると思う。
というよりも、色は見るための音であり、音は聴くための色だと思っている。
色の分類で色相が12色ある事と、鍵盤楽器の音階が白鍵と黒鍵合わせて12音ある事とは
無関係ではない気がする。
(こういう事を考えるのは私だけか?)


普段私が中世ポリフォニーの類ばかり聴くのは、
音の持つ「色」の組み合わせや変化が面白くて退屈しないからである。
しかしラジオのクラシック音楽番組なんかでもあまり取り上げられないし、
リクエストする人もそんなにいないので結局自分で検索してCDを買って聴いている。


古い音楽にこだわっている訳ではなく、色の変化を連想させる音楽を好んで聴いている。
今はノルウェーの作曲家オラ・イェイロが好みだ。
3、4年前にYoutubeでオラ・イェイロのコラール「プレリュード」を聴いて惚れ込んだ。
CDが出たのでナクソスで検索して買ったよ。
私はこの人の音楽が大好きだ。


CD「NorthernLight」の一曲目「The Ground」を聴くと、
今の時期から冬の間ずっと毎朝出勤前に見える日の出の空の色の変化が目に浮かぶ。


Ola Gjeilo - The ground - Phoenix Chorale



「The Ground」から連想する光景。


「Pleni sunt caeli et terra gloria tua. (主の栄光は天地に満つ…)」

濃い青紫色の空に東の地平線から赤い光が漏れて橙色の光を伸ばし始める。


「Benedictus qui venit in nomine Domini
            (誉むべきかな、主の御名によりて来たる者…)」

地平線からほんの少し覗いた太陽が東の空一面をぱぁっと黄金色に照らす。


「Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, (世の罪を取り除く神の子羊…) 」

完全に姿を現した太陽が燦然と輝いて地上を照らし、青紫だった空を瑠璃色に変える。


放射冷却の朝は一層鮮やかに、空一面に巨大なプリズムを見るようで
見飽きる事が決して無い。
照らされたこの地上で私達は日々生活に追われ、喜怒哀楽を味わい生老病死を体験し、
あくせく動き回っている時も、絶望し呆然と何も出来ないでいる時も、
太陽は毎日昇って沈んで、春夏秋冬によって光の角度を変え空の色を変える。

せつない音楽

2013-11-13 05:45:53 | 音楽
今日は仕事が休みなのに朝の5:30から起きている。
あの寝起き悪い夜行性の自分は何処に行ったのだろう。
元々朝型体質であるが、どうも今の介護施設で働くようになってからは
朝型体質に極端な拍車がかかったらしい。


勤務があろうと無かろうと、朝は5:00に目が醒め、午前中に腹が減り、
日の入りの時刻と共に猛烈に眠くなる。
夕方道を歩いていると横断歩道を渡っている最中にも睡魔が襲ってきて危険だ。
夜は7:00過ぎると既に深夜まで夜更かししているような錯覚が起こって
眠くて起きていられない。
何とか入院中のじじの様子を見て帰宅し、20:00頃帰宅してPCの電源を入れると
脳みその方が先に電源落ちして結局ネットは何も見られず何も聴けない。
以前の生活から2時間くらい早くずれたらしい。


先日プーランクの15の即興曲、第15番 ハ短調「エディット・ピアフ讃」を
OTTAVAの昆布漁でたまたま聴いたら、情緒を刺激されて検索し、
結局CD取り寄せて買っちゃった。


何だかせつないメロディだなぁ。


私は普段から中世ポリフォニーとか一番新しくても
せいぜいパレストリーナの時代くらいまでのコラールばかり聴いており、
いわゆるバロックとか近代現代の「クラシック音楽」は食わず嫌いの苦手で聴かない。
しかしたまたまネットラジオで聴き流していたプーランクのこの曲は
普段忘れている過去の出来事のせつない感情や場面をたくさん思い起こさせられる。
感情的高揚の誘発剤みたいな曲だ。


Francis Poulenc - Improvisation 15 "Hommage �・ �・dith Piaf"



この曲を聴いて記憶に甦った幾つかの場面は、
いずれも自分が脳外科で介護職から臨床一年目の看護師に転じた頃に遭遇した人々の、
辛い日常の場面であった。


この曲を聴くと、どうして彼らは甦って来るのだろう。


風邪から髄膜炎を起こして搬送されて来た若い奥さんは、来た時まだ会話出来た。
夕食の用意をして冷蔵庫に入れてあるから食べてと夫に伝えて、とか
おかずの作り置きをしてあるとかそんな事を話した2時間後には植物状態になった。
ご主人が毎日面会に来て、意識の戻る見込みなく人工呼吸器をつけて寝ている奥さんの
耳にイヤホンの片耳をつけて、ご主人がもう片方のイヤホンをご自分の耳につけて、
元気だった時に二人で聴いた音楽を、片耳ずつ聴いているのを私は見ていた。
奥さんもご主人もまだ二十代の、新婚4ヶ月の若いご夫婦だった。


同じように人工呼吸器を着けた植物状態の17歳の女の子もいて、
彼氏が毎日会いに来て無言で手を握り、頭を撫で、生理的にただ流れてくる涙を
拭いてやっているのを私は見ていた。


悪性脳腫瘍で余命僅かな19歳の娘さんの前では決して涙を見せまいと頑張って
残された日々を毎日面会に来ていたお母さんの後ろ姿を私は見ていた。


先の見えない長い長い入院生活から家族に忘れられて誰も面会に来なくなった人が
頭から被った毛布を退けて、こちらに笑いかけてきた両目に涙が溜まっていた。
自分は家族から忘れられた存在であるとその人の目が語るのを私は見ていた。
病状が悪化して聴覚を失い視覚も失う頃に子供達がカーネーションを持って来た。
気管切開した人の傍に植物を持ち込む事は出来ないので看護師達が数人がかりで
窓ガラス越しに母の日のカーネーションを見せようとした。
聴覚と、声と、視覚をも失いつつあった人の最後の母の日だった。


他にもあの人も、この人も、おそらくはとうにこの世にいないであろう人々の、
もう20年以上も昔に遭遇しこの目で見た切ない日常の光景を、普段思い出す事もないのに、
この曲を聴いた途端彼らの姿が鮮明に甦ってきてやたら感情的になる。


凍結した感情が融かされて水が溢れ流れ出てくるような、切ない曲。


皆、時間と戦っていた。
臨床一年目の私は知識も経験も、まともに使える武器を何一つ持っていなかった。
ただ時間に追われ、緊張し、白衣を着た案山子のように立ち竦んで見ている以外に
彼らのために自分が出来た事は何一つ無かった。
しかし彼らは戦っていた。
残り少ない余命時間の中に、最大限詰め込んであげようとしていた。
この世の残り時間の中に、あらゆる幸福を、一緒に聴いた歌を、残り少ない時間の中に
どれだけ詰め込んでやれるか、の戦いだった。


その事をこの曲で不意に思い出して、泣きそうになった。
20年も経った今頃になって。

プーランク「エディット・ピアフ讃」

2013-11-03 06:00:49 | 音楽
仕事休みでも朝6:00前に目が醒める。


最近仕事から帰るとすぐ寝てしまって聴けないOTTAVA con brio、
オンデマンドで一週間分聴いている。
食わず嫌いで聴かなかった近代クラシックでOTTAVAを通じ気に入った曲が幾つかあるが、
名前を知ってても聴かなかったプーランクの15の即興曲、
第15番 ハ短調「エディット・ピアフ讃」をようつべでもみつけた。

Francis Poulenc - Improvisation 15 "Hommage �・ �・dith Piaf"



ええ曲やー♪
昨夜からずっと聴いてる。

OTTAVA聴いてる

2013-10-07 22:55:43 | 音楽
OTTAVAインターネットラジオのクラシック専門チャンネルであるよ。
リスナーが聴きたい曲をリクエストできる。
どうせ見ないからと思ってテレビ買ってない代わりにインターネットラヂヲを
聴きっぱなしで流している。

http://www.ottava.jp/


クラシックは正直あまりよく知らない。
好きで聴いてはいるしCDも持ってはいるがあの曲いいなと思っても曲名がややこしい。
ベートーベンのへの6とか、バッハの123番何とかちょうちょうとか。
それと、私はオペラの独唱が苦手だ。
特にアリアで甲高い声を張り上げる女の声が大の苦手でほぼアレルギーである、
それが始まると一時的に消音にして、しばらく待ってから再び聴く。


この放送を聴いて知った事も幾つかある。


大昔タモリ倶楽部の空耳アワーに投稿された名作空耳「あのイボ痔」が、
フィリッパ・ジョルダーノの持ち歌ではなくオペラ「ノルマ」のアリアの一曲である事を
私はOTTAVA con brioで初めて知った。


「麺の達人」というインスタント麺のCMの歌がクラシックを好む人々の間では有名な
トランペット何とかかんとかという曲だという事もOTTAVA con brioで初めて知った。


時間帯によってOTTAVAは週日に昼間のanimatoを聴いたり
夜のcon brio(昆布漁と呼ばれている。)を聴いたり、日曜日のamorosoを聴いている。
リスナーから寄せられるメールがかなり面白いので楽しみである。


個人的にはクラシックよりももっと前の時代の、
中世ポリフォニーやルネサンス期の合唱曲が好みであるが、
自分の好きなものばかり聴いていても煮詰まるので
耳に馴染まない近代の音楽を聴いて「おっ♪」と聴き入ったりする。


そんな中で、これまで聴かなかったピアソラのリベルタンゴを連日聴いている。
はなぢの出るような名曲だ。



リベラタンゴという曲そのものは、大昔高校生の時に輸入版LP買って聴いていた
グレース・ジョーンズの「NIGHTCLUBBING」というアルバムに収録されている。
  ↓
http://www.billboard-japan.com/goods/detail/215721

それでこの曲は高校以来今までずっとグレース・ジョーンズの歌だと勝手に思っていたのが
そうではなくアストル・ピアソラの名曲だという事もOTTAVA con brioで初めて知った。


ラジオは脳にいいと板倉徹さんの本に書いてあったので単純に実行しているが
それだけでなくテレビの音声と画像があると物凄くイラつくのに、
ラジオをかけ流しても苛立つ事は無いからというのもある。
テレビはどうせつまらんしくだらんし安くもない家電を買い込んで
金と電気の無駄をした挙句あまりのつまらなさにイラつくのは割に合わないからな。


ラジオはいいよ。
目が疲れないから。

♪チャララララララー・・・

2013-10-03 21:09:09 | 音楽
帰宅してインターネットラジオOTTAVA con brio 聴き始めた。
クラシック音楽のリクエスト番組であるよ。


先週、ラヂオ名モウモウ子さんというお方が曲名のわからない曲を


「チャララララララーチャララララララーラーラ、チャララララララー…」(←だったっけ?)


というオノマトペでリクエストされていた。
クラシック音楽に精通した聴者の皆様が「これか?」「この曲か?」「この曲では?」と
続々メールが寄せられているらしい。
(私はその候補4曲の中の1曲が気に入って連続再生している。)
で、週が明けて一週間経った今も、オノマトペのモウモウ子さんからはまだ
「この曲です」という正解のメールが来ていないらしい。
今もって「チャララララララー」の正体は不明。


もの凄く気になる。
「チャララララララー・・・」は一体どんな楽曲であろうか?
おかげさまで、私の脳内でピアソラのリベルタンゴが延々回り続けている。

探し物その1.音楽

2011-11-25 20:55:01 | 音楽
1980年か1981年のクリスマス頃にNHKのFMで放送された、
テレマンの宗教曲を探している。
当時カセットテープに放送を録音したものを今も大事に持っており、
時々引っ張り出して伸びてしまったカセットテープの音をしみじみ聴いている。


長調か短調かで言えば短調。


楽曲の編成は、

  合唱(四声)
  独唱(ソプラノ)
  レシタティフ(テノール)
  独唱(バス或いはバリトン)
  合唱(四声)

となっていて、
全体で15分程度の短いものである。



歌詞はドイツ語。
私はドイツ語が出来ないので歌詞の内容はわからない。
放送されたのはクリスマス前、待降節の頃だったと記憶する。


曲の最後にアナウンサーが曲名を「テレマンの・・」と言ったところで
録音がぶちっと途切れており、
作曲者がテレマンである事はわかっても題名がわからず検索も仕様がない。
宗教曲のCDを片っ端から買い集めて聴いてみたが、未だ見つからない。


その曲が物凄く好きで、テープが磨り減ってもまだなお聴いている。
そろそろカセットテープに寿命が来たみたいで、
いよいよ別れの時期が近づきつつあり、探している。

2011-11-12 17:21:56 | 音楽
ジャズ喫茶に来た。
その店で扱っている映画のチケットを買いに。
昔からある店だが、
私は今まで一度も来た事なかった。
知人が何度かライブをした店だ。
ライブの時は多忙で行かず、
知人が世を去った後も
この店に来た事は無かった。


煙草のヤニが染み付いて黄ばんだ
無数のLPレコードとピアノと
いい音のスピーカーと
カウンターに常連客が
狭い店の中にゆったりと沈殿している。


常連らしき客は
年配の方は何かノートを読みながら
若い方は店主と何か話しながら
音に耳を傾けている。


店主と亡き知人の想い出を少し、話した。
温かい珈琲の薫りを嗅いで
知人がまだこの世にいた時とでは
随分変わって寂れてしまった街の
年月の早さを考える。


その時も今も、音の響きは同じ。

懐かしの名曲

2011-10-14 23:32:27 | 音楽
あああ足が痛い。
おとなしくようつべ動画見ている。
ていうか聴いている。


「ブンガダハリヤ」はいい曲だ。
昔、スネークマンショーに収録されていた。
何処の国の何語の歌かわからない。

何て歌っているんだろう。
誰か歌詞を日本語に訳してくれないかな。

『レクイエム』(モーツァルト)

2011-09-24 04:14:42 | 音楽
夕方転寝して、
休日をいい事に夜更かししている。


ネビル・マリナー指揮の
『レクイエム』(モーツァルト/抜粋)を聴いている。懐)
このCDは昔、
映画『アマデウス』のサントラ盤として出回っていたものだ。
何となく引っ張り出して聴いている。


初めて聴いた時と全然違うもののような気がする。
知らない間に、
とても冷静に聴いていられるものではなくなっている。


Dies Iraeは
CDを買って聴いた当初にはルネサンスの地獄絵や最後の審判を漠然と連想した。
今聴くと、あの3/11の津波に呑まれた街の濁流と
押し流される人々と家屋や車、水面に広がる火炎、
渦を巻く濁色の水に砕け散った生命と生活の総て。


Rex Tremende Majestatisは
着の身着のまま身を寄せ合う人々の血を吐く祈りと
当て所無く家族を探し回る人々の悲痛な叫喚そのまま。
そして帰宅難民となって黙々と歩く無数の人の群れ。


 御稜威の大王、我が救い主、
 御恵み以て我を救い給え。
 慈しみの泉、我を救い給え。
 我を救い給え。


Confutatisは
混乱し先の見えない被災者の苦悩
原発事故に騒ぎ立てる報道、風評被害、迷走する為政者、
食料品売り場での商品の奪い合い、買占めに走る人々の
理性を失った浅ましい姿。


Lacrymosaは
一面の瓦礫の中に無数の赤い旗のはためく光景、
そして福島の、絶命した無数の家畜達、
飼い主を失って餓死したあらゆる小動物達、荒れ果てた田畑、
生活も生きる望みも、何もかもを奪われた人々の慟哭、
追い詰められ、疲れ果て、自ら命を絶つ人々の絶望。


 彼の日こそ涙の日・・・
 憐れみ深き主イエス、彼らに安息を与え給え


視覚的にどうしても生々しく思い浮かぶ。
あの震災は音楽を聴いて連想する光景までも
根こそぎ塗り替えてしまった。

わーい♪

2011-07-02 02:55:49 | 音楽
発見!


告井延隆のアコギ一本によるビートルズ、
CD第二弾出てた♪♪♪
http://t.co/0wtf0U2


二年前に人伝に知ってCD第一弾聴いてみたらば、はまった。
 


ここの地元でもライブあるよ。
いいなぁ。
行きたいけど無理だなぁ。 

二声と四声

2010-03-22 23:11:00 | 音楽
ずっと聴いてなかった古いCDを
埃払いをしながら何枚か取り出して聴いている。


同じ曲の演奏家違いを何枚も集めていたり
やたらと場所を占領するCDであるが手放せない。


今、聴いているのは
ノートルダム楽派(1160頃~1250頃)の
「地上のすべての国々は」。
レオナン(レオニヌス)の二声バージョンと
ペロタン(ペロティヌス)の四声バージョン。
ロンドン古楽コンサートの歌唱で。


この曲の四声バージョンの
ヒリヤード・アンサンブルのは
普段からよく聴いていて、
購入してから20年も経とうとしており
ぼろぼろだ。


聴いてると
肉体を置き去りにしたまま
ちり紙か何かみたいに天空に吹き上げられるような
心持ちになる。


石造りの建物の中で
僧達が歌いながら練り歩く光景が思い浮かぶ。
僧達は
お互いの声が石の壁に当たって響き
響きながら幾重にも重なる残響を
楽しんでいたかも知れない。