ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

墓参り

2015-08-09 23:38:46 | 日常
昨夜、ヒッチコックを2本も見た後、
3:30頃までパゾリーニの『奇跡の丘』を見てから就寝した。
目覚ましセットして7:00に起きた。

今日は長崎の原爆記念日。
この日記ブログに「焼けた線路」の記事を更新し直した。
「焼けた線路」は毎年8/9に再更新、再々更新している。
原爆投下直後の焼け曲がった線路を辿り長崎市内に向かって
一人歩いていた子供だった人から聞いた体験談を思い起こす。
その人が帰天して10年が過ぎた。
言葉は不思議だ。
語った人は世を去って10年の歳月が過ぎても、
語られた言葉は鮮明に残っている。


朝っぱらから記事更新なんかしていたら
時間ぎりぎりになってしまった。
急ぎ出かける。
今日は8月の第2日曜日、召天者記念礼拝。
原爆の日と重なるのは珍しい。
遺族なので喪服を着用して教会に行く。



生憎の曇りで空は重たい。


普段教会に来られない遺族や
遠方からはるばるこの日のために集まる遺族と
普段から来ている教会員達とで礼拝堂がぎっしりだった。

事前に案内を送って出欠を確認していたので
聖書と讃美歌、席や食事の過不足なくスムーズに進行、
牧師夫妻と教会員達のマネジメント力を実感した。


召天者記念礼拝

黙祷
招詞 詩編66;1~4
讃美歌(21) 208 560
聖句暗唱 コロサイ3;15
子供のための紙芝居
主の祈り
祈り
讃美歌(21) 385
聖書朗読 ヨハネ12;20~26
説教
讃美歌(21) 481
献金
祈り
頌栄 28
祝祷

毎年集まる遺族も高齢になって足腰が辛そうだったりするが
これから出産を控えている人がいて、赤ん坊がいて、
ちびっ子達がいつもより大勢いて年齢層の幅が大きい。
普段見かけない子がいて興奮し大騒ぎする子供達がいて
ぎゃん泣きする赤子がいてハラハラする親達がいて。
さながらお盆に爺ちゃん婆ちゃんの家に集まってきた
兄弟姉妹、いとこ達親族一同の里帰りのような賑わい。
去年集まった遺族と今年もまた会えた。

礼拝の後、皆で仕出しの弁当を食べて会食、
それから教会の墓地に向かう。
市の郊外、車で10分ほどの場所。
じじが生前タンチョウの写真を撮りに行き来した道の途中にある。


墓地の清掃の時よりもずっと涼しい。
夏椿はもう終わっていた。




生花を飾ると
親指くらいのでかい虻や蜂や、
その他色々な虫がぶんぶん寄って来る。



子供達が叩き落とそうとするのを遺族の若い親達の誰かが諌める。
「やめなさい!お墓で殺生したらダメだよ!」
そうか。
墓の周りの虫や植物は故人の化身だという考え方があるのだった。
キリスト教の価値観ではないが、私も
死とか命に思いを馳せるために来た場所でそういう事をしたくない。


墓前礼拝

讃美歌(21) 111
聖書朗読 ヨハネ11;17~27
説教
祈り

しばし墓の前で皆で歓談。
納骨堂の中で私がじじの遺骨を見ていると
牧師先生が入って来た。
納骨堂内部のに掲げた聖句を彫った大理石の板は、
牧師夫妻が若い頃に東南アジアでボランティア活動をした時に
買って来たものだそうだ。



墓所を移転する前の、古い昔の教会墓地を建てる時に納骨堂入口に
「神は愛なり」の聖句を掲げる事になってこの石板に聖句を彫った。
題字は教会創立以来の大先輩に毛筆で書いて貰ったもので、
古い墓所を移転する時に剥がし、新しく今の納骨堂を建てる時に
納骨堂の壁の天井近くの高い所に貼った。
「神は愛なり」の文字の下に、
教会の歴代の召天者達の名前がずらりと並んでいる。
一番末尾にじじの名前もある。
召天者達の遺骨はこの聖句と向き合いで安置されている。
じじの納骨をしてからちょうどまる1年になるのか。
墓所なのに陰気でも陰鬱でもなく、悲壮感もなく
妙にあっけらかんと明るいこの場所で
皆で冗談を言ったり近況報告したりし合って
「私達、みんな順番にここに並ぶのよね」などと
去年と同じ事を言って笑っている。


教会から霊園への行き帰りは、宣教師と共に
牧師夫妻の車に乗せて頂いた。
教会に戻る道の途中、湿原の見える場所で一瞬車を止めて貰った。





じじがここから撮った写真が遺品の中にあって
去年の今頃私は部屋いっぱいのじじの写真作品を
整理していたのだった。
去年もここから湿原を見た。
同じような曇り空で遠くの湿原の眺めも同じ。

市内に入る道の途中、畑にタンチョウを2羽目撃した。
こんな人里にいるのは珍しい。


教会に戻って、皆で後片付けをして解散。
この後宣教師による聖書の勉強会がある。


庭の植えてもいないのに何故か咲いてる花は
ますます秋の様相深まっている。

 



帰宅して、寒くもなく暑くもなく涼しいので
寛いでいる間に眠くなってきた。
昼寝する。


・・・・・


爆睡していた。
19:30。
夕食食べないと。
納豆蕎麦と思ったが、気が変わって納豆ご飯。
白菜煮込み、焼きピーマン、鯖塩焼き。
よく寝ただけでなく食生活も充実した一日だった。


・・・・・


さっき昼寝から起きたばかりなのにもう眠い。
こんなに眠くて大丈夫か自分。
昨夜のヒッチコック×2+パゾリーニ×1=3本の映画疲れ。(笑

8月9日、焼けた線路の事を考える

2015-08-09 09:13:06 | 日常
今日は8月9日。
焼けた線路の事を考える。
毎年この日記ブログの8月9日の記事を読み返す。
去年の8月9日は土曜日で仕事が休みだった。
父の遺品整理をしながらこの日記を読み返していた。
今も過去の8月9日のブログ記事をまた読み返している。

70年前の8月9日の今頃、
汽車に乗って長崎に向かっていた母親と女の子がいた。
その女の子は10歳足らずだった。

10歳足らずの女の子だった人と私は
今から15年前に、たまたま近所の教会で出会い、
知り合いになって立ち話をした。
その人は腹の手術後の私の病室に見舞いに来てくれた。
そして1945年8月9日に長崎に向かっていた母親と
小さな女の子だった自分がどうなったかを
私に話して聞かせてくれた。

何年も経って、
この話を初めてこのブログに書いたのは
確か2006年と思い込んでいたがちゃんと読み返すと2007年だった。


焼けた線路 (ぱんくず日記 2007-07-18 00:35:54)

  ちょっと前に某防衛大臣が長崎の原爆を「仕方がない」と表現して
  バッシングを浴びて辞職したりしたので
  返って文字に書くのを躊躇っていた。
  長崎の原爆について。

  数年前、長崎出身の人から身の上話を聞いた事がある。
  考え事をするためによくお邪魔する近所のカトリックの聖堂で、
  その人は親しげに声をかけてきた。
  話好きな人だな、と思った。

  私の所属する教派にはないロザリオの祈りの話になって、
  その人は自分が浦上の出身であると言った。

  「浦上では何もわからない小さい子供の頃から
   理屈も何も無しでロザリオは生活の一部だったわ。」

  とその人は私に語った。

  ここ北海道とは遠く離れた、
  永井隆の本でしか知らない浦上の信徒の生活の話を聞けるのが
  私には興味深く嬉しかった。
  永井隆の著作もほぼ全部買い集めて読んでいた。
  子供を残して死んでいかなければならない父親の心情に
  胸をえぐられる事もあるけど、
  それ以上にもっと日常的な、
  生活の土台にキリストへの信仰が根付いた浦上の信徒達の
  素朴な信仰生活が永井隆の文章から見えて来るようで
  私はその素朴さが大好きだ。
  その人にそんな事を話した記憶がある。

  それから間もなく私は腹に腫瘍が発見されて手術した。
  入院先までその人は訪ねて来てくれた。
  お互いに教会や信仰の話になってどこからそんな話になったのか、
  その人は自分の生い立ちを語り始めた。
  というよりは私が突っ込んで聞いたのだ。
  カトリック信者であるその人が
  幼児洗礼だったのか成人洗礼だったのか、
  成人洗礼だったならどんな切っ掛けで信仰に導かれたのか。

  亡くなった母親によるとその人は幼児洗礼だったらしい。
  どんないきさつかはその人自身にもわからないが
  母親はカトリックの信徒だと自分の娘に言っていたという。

  「生まれた時、
   私は長崎の教会で洗礼を受けたって
   母が言ってたの。
   でも親族の手前、
   キリスト教徒である事は言わずに隠していたの。」

  どんな家庭の事情で母一人娘一人になったのかは
  その人自身もわからないという。
  当時あまりに年齢が幼な過ぎた。
  母親は結核でずっと療養所で暮らしていたため
  その人は親類縁者や里親の間を行ったり来たりして育った。

  ある時、母親は療養所を出て娘を連れて長崎に行こうとした。
  その人はまだ10歳になっていなかった。

  「今思うとね、
   母は死期を悟って
   私の行く先を教会に頼もうとしたのかも知れないわ。」

  汽車の長旅で
  母親がどんどん衰弱していくのが子供の目にもわかった。
  ところがあと少しで長崎に着くと思っていたら
  汽車が動かなくなってしまった。
  どうして汽車が動かないのか何時再び動き出すのか
  目途が全く立たないので
  母親はその人を連れて線路伝いに歩き始めた。
  長崎を目指して。
  道の途中、母親は何度か喀血した。

  「母はしっかりした気丈な人だったわ。」

  力尽きて線路脇に倒れ込みながら、
  母親はその人に言った。

  「お母さんはもうすぐ死ぬわ。
   死んだら顔を手拭いで巻いて結びなさい。
   お母さんは結核だから
   死んだらこの口から悪い菌がどんどん出て来る。
   だから必ずそうして口を塞ぐのよ。
   お母さんはもう一緒に行けないから
   あなたは一人で長崎に行きなさい。
   長崎に行ったら教会を訪ねるのよ。
   いい?
   必ず教会を訪ねなさい。
   お母さんがここで死んでいる事と
   あなたが生まれた時に洗礼を受けた事を
   そこで言いなさい。
   必ず。」

  娘の目の前で母親はやがて息をしなくなり、
  動かなくなった。
  その人は言われた通りに荷物の中から手拭いを取り出し、
  母親の顔に巻き付けて後ろでしっかり結んだ。

  「お母さんは死んでしまったし、
   私にはもう行く所がない、
   ああ、
   これから私はどうしよう、って思ったわ。」

  その人はしばらく母親の遺体の傍でぼーっとしていたが
  言われた通り一人で歩き出すより他になかった。
  一人で荷物を担いで歩き始めた。
  母親に言われた通り、長崎へ。
  長崎の教会目指して。
  教会に行けば助けて貰える。
  教会に辿り着けば生き延びる道が与えられる。
  母親の言い残した言葉を反芻しながら
  その人は焼けた線路伝いに歩いた。
  長崎目指して。

  しかしその時既に長崎は原爆を投下され
  一面瓦礫と死体の山になっていた。

  焼け野原を途方に暮れて彷徨って保護された時、
  その人は母親に言われた通り「教会へ」と言ったが
  教会も瓦礫と化していた。
  その人の受洗を証明する台帳も何もかも焼けて
  紛失してしまっていた。
  誰かが人づてに教会の関係者を探してくれたのだろうか。
  その人は司祭に引き合わせて貰えた。

  司祭はその人に改めて洗礼を授けた。
  その人の幼児洗礼を証言する人も無く
  証明する記録も焼失してしまっており、
  しかもまだ10歳に満たない子供の話だからである。

  「神父様は、
   あなたのお母さんの話は本当だと思うけど、
   もし万一と言う事があっては困るからと言って
   私にその場で洗礼を授けてその時に洗礼名も下さったわ。」

  その人がそれからどのような人生を生きて
  どうしてこの北海道に移り住んだのか、
  もっと話を聞く筈だった。
  しかしその機会がないままに私は退院し、
  仕事に復帰してお互いに会う事もなくなっていた。

  私が病棟から手術場に配置換えになって生活が変わり、
  その人とは近所で行き合う事も無くなっていた。
  何年か経ったある日、
  私は深夜に緊急手術の呼び出しを受けて
  スタッフルームで患者さんを待機しながら
  誰かの置き忘れた新聞を開いた。
  お悔やみ欄の片隅にその人の名前が載っていた。

  病気だった事すら知らなかった。
  しかし今思うとあの話が事実なら間違いなく被曝している。
  それに時々他の信徒の方々との会話で「被爆者の会のね…」と
  話していたのを私は横で聞き流していた。
  最後まで話を聞けなかった。
  あの聖堂を訪ねたら何時でも会える、
  何時でも話を聞けると思い込んでいた。

  長崎の地名を聞くと、
  焼けた線路伝いに歩く母親と子供の姿が目に浮かぶ。
  母親の亡骸を後にしてたった一人で歩き続け目指したその街は
  原爆を投下されて焼け野原と瓦礫の山になっていた。
  それを目にした子供の絶望を思う。
  しかしたとえ原爆が投下されても
  キリストは子供の手を引き導いて助けて下さった。
  ただ、もし原爆が投下されなかったら
  長崎行きの汽車は止まらず
  母親と女の子は途中で焼けた線路伝いに長い道程を歩く事もなく
  母親が行き倒れて焼けた線路の上に絶命する事もなく
  子供は絶望を味わいながら焼け野原を一人彷徨う事も
  なかった筈だ。

  出合った時、その人は私に言っていた。

  「毎朝、お祈りをするのよ。
   今日一日、
   私に出会わせて下さる人、
   擦れ違う人、
   全員が天国に迎えられますように。」



お見舞いに来てくれた時、
よくお喋りして元気そうにしていたので気付かなかった。
元気そうにしてはいたが、
実は被爆の後遺症で人知れず苦しんでいたのかも知れない。

その人が帰天して10年も経ち、
あの東日本大震災が起こり、福島の原発から放射能が漏れた。
原爆投下直後の長崎を線路伝いに、
教会を探して彷徨い歩いた小さな女の子だったその人が
今のこの時代を見たら何を考え、何を言うだろう。

今の時代に生きている私達も焼けた線路の上にいる。
進む先は線路が焼け融けて折れ曲がり進む事が出来ない。
地面は放射能で変質している。
私達はこれから何処に行けばいいだろう。