ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

もっとちゃんと聞けばよかった

2015-08-30 22:58:29 | 日常
起きた。
水に挿したツユクサがこれから咲こうとしていたので観察。










昨日の怒りを引き摺るなと言われてもまだ残っているのか
寄せられたコメントに返信したら余計に腹が立って来たのでもうやめた。
年と共に頭に血ぃ昇り易くなったのは間違いないが、
ここの地元に住んでいれば昨日みたいなのは日常茶飯事、
怒りを引き摺っていたら身が持ちたない。
しかも以前目撃した時の記事を探そうとしたがそれも挫折したし。
この私の日記ブログ、
書いた本人にも記事を探せないほどカオスである。


日曜日だし、とりあえず教会にいく。
ちと頭冷やさないと。


8月が終わる。



空にはすじ雲。


8月の第5日曜日。
牧師先生は地方に要請されて礼拝奉仕のため留守。



主日礼拝

黙祷
招詞 詩編96;1~4
讃美歌(21) 43-3 560
聖句暗唱 コロサイ3;15
詩編交読 詩編128:1~6
祈り
讃美歌(21) 192
聖書朗読 申命記6;4~9 Ⅱテモテ3;16~17
説教
讃美歌(21) 409
献金
祈り
頌栄 28
黙祷


教会仲間が礼拝メッセージの奉仕をした。
聖書を糧として、自分が日々養われている事を思い、
小さい孫達に福音を伝えるという自分の使命を語る。

私も来月の準備をしないと。

今日は生後3ヶ月の赤ん坊と友人を連れて
地方から久しぶりに来た人もいた。

本州に転出した人から生のイチジクが送られてきて
皆で食べた。


いい天気だ。
バスを途中下車して普段行かない店で
中古DVDを漁ったがこれといって何も無かった。


帰り道、歩く。
風が暖かい。




橋の上に来た。






からオオセグロカモメの集団が
水面を行き来していたと思ったら
突然一斉に飛び立ち、一回りして結局同じ場所に降りた。
大騒ぎだ。




路肩に、朝顔が他の植物に紛れて絡み付いている。




のんびり歩いている間に結構汗が出た。
日差しは強烈。




自由時間もあと残り今日と明日しかない。
とにかく写真整理を完了してPCをすっきり軽くさせたい。


・・・・・


さっきスーパーの惣菜コーナーで
アジフライとカツどっちにするか迷ったが
今夜はおろしカツ丼に決定。
魚焼きグリルで油を落としてカリカリにして、
大根おろしと青紫蘇と牡蠣醤油をかける。



実は牡蠣醤油の残りを使い切りたかった。


・・・・・


作業の合間にTwitterを見ると、
お江戸では大規模な安保法制反対デモで人々が国会議事堂の周囲に
大勢集まっている。
若い人達だけのデモではないが、
ネットでは彼らの主張を幼稚と嗤う書き込みもよく目にした。
デモに集まる若い人達に政治思想を要求して未熟を嘲笑う人々が
実に子供のいる親だったりすると、考え込んでしまう。
嘲笑っているのはSEALDsの親の世代である。
「考えが甘い」「現実わかってない」「世間知らず」と
嘲笑う人々にとってデモに集まっているのは自分の子供の世代である。
私はそこが理解できない。
若者の未熟を嘲笑う人々が今デモに集まる若者と同じ年齢だった時に、
当時の世の中がどうだったか、
自分達がどんな若者で何していたかを考えたら嗤えない筈だ。
私もその昔若者だったが、
当時はバブルの全盛期で世の中が何もかも浮かれていた時代だった。
高校生や大学生がブラック企業に劣悪な労働環境とべらぼうな低賃金で
長時間拘束されてバイトのために単位を落とす時代が後に来るなど
誰も考えもしない時代が過去にあったのだ。
私もそうだったがバイトは学費や生活費のためというよりは、
欲しい物を買い友達とウマいものを飲み食いする小遣い稼ぎだった。
少なくともブラック企業に対し高校生が組合を結成してまでも
自分の生活と学業を守らなければならないような時代ではなかった。
「平和ボケ」という言葉は1980年前後の当時の
安穏とした若者だった私達に向けられた蔑称だったと記憶している。
その昔平和ボケと呼ばれた若者だった世代が
今の暗澹たる現実と向き合う若者を嗤えるものか。
恥ずかしくて嗤えない、私は。

安保関連法案に反対し抗議するのは
自分や我が子が戦地に行かされ無駄死にさせられると思う人々であり
推進するのは自分は戦地に行かないが卓上でゲームに勝ちたい人々だ。
卓上の駒を動かす勝ち負けとしか戦争を見ていない為政者達は
決して戦地の泥水を飲まないし、飲むつもりもないだろう。
地面の草木や生きたムカデも食べないし死体に涌いた蛆も食べない。
南の島から辛うじて生還した人からその体験を直接聞いた事があり、
随分前にこのブログに書いた事があった。
今思うと貴重な戦争体験を聞かされたと思う。
その人は食べたと言っていた。
生きたムカデも、死体に涌いた蛆も。
「ムカデは噛むでしょう?」と尋ねたらその人は淡々と私に答えた。

「相手も噛むかも知れないけどさ、
 こっちも腹へってるから噛まれる前に食ったよ。
 美味いも不味いも無いけど、まあ、マシな方だったんじゃないかな。
 一番美味しくなかったのは、蛆だね。
 死体に湧いてる蛆。」

おいしくなかったって。
あの時「僕が書いたんだ、読んでよ」って渡された本は、
忙しくてそのまんまにして結局読まなかった。
医師の誰かが医局に持って行って読んだのか、
本人が回収して退院したのだったか知らないが、
読めばよかったと思う。

戦争をやり始めて勝ち負けしか頭にない者は、
自分が戦地でムカデや死体に涌いた蛆までも食べなければならない立場に
立たされる事はないと思ってるのだと思う。
私はたまたま出会いがあって親よりも少し上の世代の人から
第二次大戦中の体験談を聞かされたが、
その後に起こったあらゆる戦争でも同様の地獄はあったであろう。

原爆にしても同様だ。
投下の直後、知らずに長崎に入った人からも
たまたま出会って体験を聞かされた事があった。
それで、この日記ブログの毎年8月9日には焼けた線路の事を考えさせられる。
爆弾を落とす命令を下した者も直接自らの手で爆弾を投下した者も
ゲームの勝ち負けにしか興味がなかった。
それは今もの為政者も同じ。

…とTwitterで仲間相手に呟いて話していたらTLが忙しくなった。
戦地で飢餓に陥り上官が部下を殺したとか草木やムカデや蛆を食べたとか、
原爆投下直後に線路の上で親が子供残して行き倒れて死んだとか、
戦時下の極貧の人々は軍の払下げの残飯を貰うために街頭に並んだとか、
そういう生々しい実体験を聞いて書いた記事に今頃驚くのか。
そんな事があったとはみたいに、まるで皆今初めて知ったみたいではないか。
当時の私もそうだったが、年寄りを疎んじてちゃんと話を聞きもしなかった。
もう一度詳しく聞きたいと思ってもご本人は既にこの世にいない。
ムカデを食べた人は私の亡父が子供だった時に
南方の前線にいた大正生まれの人であり、
母親の骸を後にして焼けた線路を辿って歩いた人も既に帰天した。
軍の残飯で生き延びた体験を書き残した牧師はとうに世を去った。
話を聞けるうちに聞かないとチャンスは永久に失われてしまう。
時間は取り返しが利かない。

この日記ブログで
戦争体験を聞くか読むかして書いた記事は多分3つだけだったと思う。

2006-07-08 『11日目をめざして歩む者』http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/66529cabfa89781771006f6315c757a4

2006-09-09 『南の島』http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/24af0a84b04985e525251f004b130f4e

2015-08-09 『8月9日、焼けた線路の事を考える』http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/4afe497643ada4a5fe141beea864f9a8

たった3つか。
たくさん記事が溜まってカオス状態なブログの割には
たった3つしか書いていなかった。
今更遅いが、もっとちゃんと聞いておけばよかったと思う。