出勤する。
今日も一人で日勤。
勤労感謝の日なんだと。
文句言っちゃならんのだよ働けるだけ有り難いと思わないと。
雲が重たい。
雪が降るんだろうか。
・・・・・
昼休み。
今朝の雲は何処かに行ってしまったらしい。
ガラス越しの低い太陽。
日が短くなった。
・・・・・
仕事終わった。
バス停に来たけど、バス待ちは寒い。
明日休みだけど予報は雪。
待降節に入ってもまだ何もしていない。
帰ったら部屋掃除して待降節の物品を出そう。
寒いからって、バスを降りて自宅に直行せずスーパーに寄り、
味付けタコを買った。
切って食べる。
・・・・・
めでたし、味付けおくとぱす。
今、頭を齧っているんだよ。
明日仕事休みだというのに雪が降るというのか。
何処にも行けないな。
ここの地元はお江戸と同じくらいに雪が少ない。
だから雪がたった5cm積もっても交通は大渋滞で麻痺するし
誰もあんまり雪を掻かない。
昔と違って水っぽくてずしりと重たい雪ばかり降るようになって
とても人の手とスコップで掻けないのである。
中途半端に凍結と融解とを繰り返す路面のきんかんなまなまは命取りだ。
今朝起きて床上で読んだ『毎日の黙想』の今日の頁は
ルカ21;1~4、やもめの献金の箇所だった。
この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。
あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、
この人は、乏しい中から持っている生活費を
全部入れたからである。
(ルカ21;3~4 新共同訳)
所持金が100円しか無い寡婦の身になって考えると、
励ましを受けた気がする。
やもめのレプトン銅貨2枚を自分の能力に置き換えて考えると、
ここでイエスが言われた言葉は
アントニー・デ・メロ師が述べた通りである。
神は、
実り豊かな人生を愛されるように、
何の実も
結ばなかった人生をも
お愛しになる。
(アントニー・デ・メロ著
古橋昌尚・川村信三訳
『心の歌』1988年女子パウロ会より)
成果、実績でしか評価されない日常にいると心に沁みる言葉だ。
今日の『毎日の黙想』の頁には大事な事が書かれている。
この貧しいやもめの心の在り方について。
献金者達の多くが
「自分の持っているものから出す」
という思いを以て献金する事をイエスは知っておられた。
この貧しいやもめは自分の持ち物は全て神のものであると知っている。
自分の時間も物品も能力も生命も全て。
何かを行ったり用いたり捧げたりする時、
このやもめが自分の預かった神のものをどのように使うかを
常に神と相談していたという事。
だからなけなしの生活費の小銭だから惜しむという発想自体、
「自分のものは全て神様のもの」という思いの中からは生まれない。
イエスがこのやもめを慈み、彼女の心の在り方を祝福して
「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた」
と言われた。
その慈しみが伝わってくる箇所だ。
私自身は、いつも惜しむ。
惜しんで嫌々何でも捧げる事が多い。
特に時間と手間暇、能力。
但し、ここの箇所でイエスが笑っていたか怒っていたかといえば
物凄く怒ってこのやもめの献金について言及している事が読み取れるので
極貧の人、くたびれ果てた人が生活破綻してでも自分の持ち物を
生活費も時間も何もかもを捧げ尽す事を奨励しているのかと言えば
それは違うと思う。
このやもめの献金を褒めた時のイエスの激怒が伝わってくるからだ。
英隆一郎神父様がかつてFEBCの放送で述べていた通りである。
この箇所の「神殿」を現代の我々の「教会」に当て嵌めてみればわかる。
100円か200円しか所持金のない寡婦にまで献金させる教会の姿を
思い浮かべてみる。
レプトン銅貨を金銭だけでなく我々の捧げる時間、能力に
当て嵌めると理解出来る。
旧約からずっと読んでくると、
信仰者は生活の成り立たない貧しい者を助けなければならないという
一貫した神の教えが読み取れる。
しかし貧者を生活自体成り立たないほど追い詰めて
金銭を巻き上げ搾り取る権力者として当時の宗教的指導者達が変質し
成り果ててしまっていた事にイエスは激怒し、
この後の章で神殿の崩壊を予告している。
2000年後の今に生きる私達はイエスの予告した神殿の崩壊が
その通り史実となった事を知っている。
恐ろしい事だ。
私はこのやもめの献金の箇所を読むと背筋が寒くなる。
たくさん捧げたから偉い偉いいい子いい子という短絡的な話ではない。
・・・・・
ねむいなぁ。
明日休みだから夜更かししようと思ったんだけど。
眠いのは、これから雪が降るのだな。