7:00。
寝坊した、と言っても
またドラマの続き見て明け方に寝たのだった。
今日は一日休み。
明日からの昼食のおにぎり用小分け飯の冷凍が底をついた。
また炊き込み飯にする。
朝の出勤前の弁当の用意は炊き込み飯だと簡単で早い。
チンして熱々にしたのをほぐしておにぎりにして
海苔で包むだけ。
梅干しやおかかなど具を入れて
握って塩かけて海苔で巻くよりも手間がかからなくて楽だ。
今回はひじき飯にする。
いい味に出来た。
前回の吹き寄せ飯とは違って、
ひじきが入るので少し甘みのある味付けにした。
具はひじきと茸を炊き込んでいるが、
今回は椎茸も細かく刻んだ。
枝豆がまだあったので上に散らした。
明日の昼休みが楽しみだ。
また多めに炊いたので母に差し入れしてから出かける。
午後から教会で聖書研究会。
聖書はエフェソ1;15~23。
1;18の"望み"という言葉にまたも私は引っかかった。
どれほど意味を説明されても
決して自分のものにならない言葉、「望み」と「喜び」のうちの
望み。
望みって何だ。
牧師先生は
「どう見てもわかっていると思うけどね」
と笑い、教会員の一人は
「疲れているのよきっと」
別の教会員は
「そういう時のために芸術を神様が下さったと思うの」
と、断捨離の時に差し上げたCD『メサイア』に感動し
慰められたと言い出した。
そういう事ではなくてさ。
気分が塞ぐ。
毎年待降節、降誕節が近づくとひどい抑鬱状態になる。
一昨年までは教会の人々は
じじの介護で私が疲れていると解釈していた。
去年はじじの死の後だから沈んでいると解釈していた。
今は、仕事で疲れているのだと解釈している。
しかし実際は、じじも仕事も全く関係ない。
私の内側の問題である。
あの予定調和的な、必要以上に美化された「聖家族」が
昔から嫌いだ。
如何にも慎ましそうな敬虔そうな幸福そうな、
偶像化された理想的な父と母と赤ん坊の図式が白々しい。
小学生の頃までは
クリスマスはむしろ待ち遠しいものだった筈。
雪が降る事を期待して英語教室のあった教会の礼拝堂の
大きなクリスマスツリーの電飾を眺めた。
電飾の点滅する部屋の色の変化がよかったのか、
雰囲気がよかったのか、何がよかったのか。
受洗後、福音書を深く読むようになって見方が変わった。
着の身着のままでエジプトに逃亡した極貧の政治難民の一家と
ごてごて飾り立てられた馬小屋聖の家族の姿とが乖離していて、
何とも空々しく嘘臭くあまりにも作り物臭過ぎて辟易する。
大勢の人が集まって歌ったり飲み食いする事を考えるだけで
まだ何もしていないのにどっとくたびれる。
楽しそうに幸せそうに、笑わなければならないからだ。
教会以外の場所でも、買い物をするだけでも
あの嫌なクリスマスソングが延々耳に入って来る。
クリスマスケーキに鶏の足にシャンパンにプレゼント、
そんなにものを貰いたいのかクリスマスだからって。
かつて同じ職場で働いていた同僚達が
子供の「サンタさんからのプレゼント」をどうするかを
昼休みに話していた時、中の一人がぽつりと言った。
「この茶番はいつまで続くんですかね?」
名言だと思う。
楽しそうに幸せそうに笑う事に疲れている。
物事を考えすぎないようにしなければ。
・・・・・
帰宅して、大河ドラマの続きを見る。
あともう少し。
・・・・・
1981年の大河ドラマ『おんな太閤記』、全編見終えた。
夏目雅子は美しかったがこのドラマは歴史ものではなく
平凡なホームドラマだった。
亭主の出世に内助の功を発揮し留守宅を守り子育てに明け暮れる
良妻賢母たる主婦を常に他の登場人物達が褒めて褒めて褒め殺す。
おかげで亭主は国の頂点に立つ権力者となって一族郎党は繁栄したが
当の主人公良妻賢母は最終的に
「一体私は何のために頑張ってきたんだろう?」とぼやいて終わる。
大昔の『細腕繁盛記』と違って最後はぺしゃんこ。(笑