ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

爽やかな納豆スパゲッティ

2015-08-05 20:45:02 | 日常
起きた。
7:30。
朝からあちこちで草刈りのモーターの音がする。
ヒヨが縄張りへの侵入者を警戒し
負けじと声を張り上げるものだからけたたましいのなんの。
予想最高気温28℃と暑くなりそうだが雲一つなく快晴、
からりと爽快で、屋内にいるとむしろひんやりしている。
夏らしい夏の朝。


昼食は夏の定番パスタ、納豆スパゲッティ。



むははははは納豆スパゲッティウマーーーーーい!

調理手順は下記の通り。
 納豆1~2パック、お好みで。
 まず納豆を箸でよく掻き混ぜて糸を出す。
 水道水を少しずつ足しながら掻き混ぜ続ける。
 納豆の粒が泳ぐようになったらざるに移し、
 流水で粘りを全部流して落とす。
 ざるでよく水気を切り、器に移す。
 めんつゆに浸し、(豆全体が浸かる程度)ラップをかけて
 冷蔵庫で待機させる。
 大根おろしをたっぷり磨り下し、ボウルに入れて
 ラップをかけて冷蔵庫で待機。
 青紫蘇を刻み、小皿に盛ってラップかけて冷蔵庫で待機。
 パスタを茹でる。
 (湯が沸騰したら塩大匙一杯程度入れて沸点を下げ、パスタ投入。)
 芯が硬いうちに フライパンにオリブ油を敷いて鷹の爪を熱し、
 芯のしっかりした状態でパスタを炒め、
 茹で汁を少量ずつ加えながら炒め、乳化させる。
 ※にんにくはこのメニューでは使わない。
 歯応えのある硬さのうちに皿に盛る。
 冷蔵庫で待機していた大根おろしをパスタの上からかける。
 更にその上にめんつゆに浸した納豆をめんつゆごとかける。
 最後に刻んだ青紫蘇を上に乗せて、出来上がり。

 納豆の粘りをこよなく愛する方々には邪道かも知れないが、
 粘りを落とさずに作ってみたら、しつこくて胃もたれしたので
 夏のメニューとしては納豆の粘りは落とし、
 納豆は風味だけを大根おろし、青紫蘇と共に頂く方が爽快。
 それで19歳以来このようなレシピになった。


・・・・・


午前中まではカッと照り付けて爽やかな風が吹いていたのが
正午過ぎると曇って蒸してきた。
気温が上がると海水温との温度差で霧が発生するのだ。
湿度はウナギ上り。


所用のためちと外出。
真夏の蒸し暑さと思っていたが、空には秋の雲。

















巨大魚の銀の鱗のような、巨大な白い鳥の翼のような。
段々日が短くなってきている。
着実に、冬に向かっている。

病んでいるのは誰か

2015-08-05 04:00:56 | 日常
8/1に見た映画DVD『カッコーの巣の上で』は
以前見たのはいつだったか、もう何十年も昔だった。
しかも原作はもっとずっと古くて1962年。


最初に見た時、確か私は会社員だったので、
この映画を見た当時は管理される生活に反逆する主人公と
その周囲の精神疾患患者達の目線で、彼らに感情移入し
怒りを持ってこの映画を最後まで見た憶えがある。

ここに登場する精神病棟の患者達は
人間にあって当然の行動の自由、思考の自由を剥奪され、
生活動作の全ては細部まで悉く規則によって統制され管理され、
つまり彼らの尊厳は完全に黙殺されている。
主人公と患者達との目線でこの映画を見ていると
この病棟の管理体制の頂点に君臨する看護師長や看護師達に対し
本物の医療現場を見た事も無かった私は怒りと嫌悪感が湧いた。
「これがあなたのためですよ」と冷笑を浮かべながら
患者の訴えを虱潰しに却下して行く看護師長や
動揺する患者を嘲笑い腕力で捻じ伏せる看護師達に対して
何とも胸糞悪い気分になった。
また、何かものを言うにも管理者である看護師長の顔色を窺い
ただ無言で俯き同調する精神疾患患者達の姿が
映画の中の病人ではなく、私が育って来た学校、職場そのものに見えた。
大学時代にアメリカ人の講師が講義の中で侮蔑的に言った言葉を
私はよく憶えている。

「日本の学生はろくに自分の意見も言わず下を向いてばかり、
 まるで餌をつつく鶏みたいだ。」

「質問はありませんか?
 ない?ふんっワンダフル!」

当時の学生達は下を向いてノートに書き取りする事に終始して
自分の意見を求められると誰かの言った意見に取り敢えず同調し、
右へ倣えのドミノ状態になるので議論が起こらず
目指した講義にならないのでアメリカ人講師達は苛立っていた。
同じ光景を、
私はこのアメリカ映画に登場する精神病院の中に見たのだった。
「管理者」の独善と「管理される者」の盲従の図式。
管理される者は自分自身の意見を求められる事を回避しようとする。
自分の考えを述べた結果跳ね返って来るリスクを何よりも恐れる。
周囲よりも目立って潰されたくないのだ。
この映画のどの場面よりも、グループセラピーのシーンが
当時の私には一番嫌悪感が強く後々まで記憶に残っていた。


それから何十年も経って、自分が看護職に就いて
医療従事者としてこの映画を見る事になるとは当時予想していなかった。
だから初めて見た時に考えた事と、今この映画を見て思う事とは違う。


先日久しぶりにこの映画を見ると、
1960年代初めも2015年の今も、
管理する者と管理される者との図式は大差ないと思う。
映画の舞台は精神科病棟であるが、
何科の病棟であろうと介護現場であろうと同じ。
管理はどうしても必要である。
病気や老化のため心身に機能障害が起こって自己管理不能だから
管理を必要とし、入院患者や施設入居者として
安全に管理される立場に置かれるのだ。

しかし私はこの映画に登場する看護師長や看護師達の
患者達に対する共感性の無さに注目する。
彼らは患者達を自分と同じ人間とは見ていない。
看護者が管理する事にのみ明け暮れて自己正当化に走るならば
それは看護者の人間性の敗北であり、
看護が「管理」と化した時点で仕事は惨敗であり無駄。
たとえどんなに真面目に勤勉に一生懸命働いたとしても、それは
昔私を諌めてくれた老修道女の言う「死んだもの」だ。

「あなたが悪かった失敗したと思えるのは、
 まだ生きている証拠です。
 忙しさに埋もれて、
 そんな事ぐらいどうでもいいと思うようになったら、
 もうそれは死んだものです。
 あなたは生きた看護をして下さい。」

老修道女の言う「死んだもの」を具現化すると
この映画に登場する看護者達になる。

映画の視点は主人公と患者側から病棟を見ている。
その視点には隠されて見えて来ない実情がある事を
私はこの映画から推測する事が出来る。
看護者を「管理するだけで精一杯」な状況に追い込むものは必ずあり
管理される人々を抑え付けながら、看護者の人間性を内側から滅ぼす。
どんな分野でもどんな職種でも常に見えない「追い込むもの」と
戦わねばならない、カメラから見えない現実がある。

看護師長役の女優の演技は、看護職をよく観察したものだと思う。
この映画で冷然と患者を見下す看護師長は
患者を見る時には常に左右の口角が微かに上がっている。
口元を見ると一見微笑みを浮かべているように見えるが、
これは微笑みどころか武装である。
不穏で手の焼ける相手と対峙する時に一定の距離を保つ戦闘態勢である。
眼は見開いたまま相手を凝視、決して眼だけは笑わない。
心理的に余裕のない時、この武装した顔のままで黙々と
決められた業務をこなしている事に
私自身トイレの鏡で自分の顔を見て気付いた事が何度もある。
また周りの同業者がそんな顔をしているのを見て
ああしんどいんだなと思った事も数えきれないほどある。
眼までも笑うようになったら武装はより重装備、いや重症。
あの老修道女の言った「生きた」仕事をしているなら
本来そんな武装は必要ないのに、日常に負けそうになると出て来る。
私もあんな顔をしていたかも知れない。
気をつけないと。


昔、夜学を出て臨床で働き始めた時に
研修で講師をした精神科医が一枚の紙に書いて私達に配った。

「大切なのは
 固定観念にとらわれず
 惰性でマニュアルをなぞるような心の使い方は避け
 新鮮な興味と積極的な関心を持ち
 対象のひとつひとつに新しい構えで関わり
 心の燃えを感ずるような
 そんな心のありよう。」(Dr.M)

「生きた」働きをするための
心のあり方とは、そのような事かも知れない。

この映画見て思う事は、
病んでいるのは患者だけではないという事。


4:00か。
ヒヨがやかましい。
ひんやり寒くなって来たと思ったらもう日の出の時刻。
寝るか。
夜更しして映画を見るつもりだったが、
先日見た映画の感想を書いていたら朝が来てしまった。
所用があるので今から8時まで寝る。