雨降りである。
あと4、5日で夏至が来るというのに朝の気温が5℃って体感的には冬なんだよ。
霜注意報出ている。
生命の危機を感ずるほどに寒い。
今日は教会に行くつもりで休みを取っていたが休む事にした。
朝食にわかめを混ぜた米飯120gとシャウエッセン3本とピーマン2個を焼いて食べたら吐き気がしてダメだ。
今日礼拝後に決まる来月の行事日程は今夜誰かに聞こう。
ちょっと油断して何か食うと胃がスト決行しやがる。
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食後胃がむかむかしたのでじっと寝ていたが消化管蠕動が鈍って返ってよろしくない。
自室内を清掃しベランダのガラスを磨いて洗濯もしたら夕方になって冷や汗が出て来た。
低血糖と思われたのでアイス食べて解決した。
アイスでは胃痛も吐き気も起こらない。
MOWのチョコ味にバンホーテンココアの粉とダークラム酒をぶっかけた。
ウマい。
チョコ味のアイスは純ココアの苦みとダークラムの香りで全く別物の美味になる。
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先日Twitterのお仲間のブログ記事から鬱と自殺の話が出て読んだ人と話した事を今日になって反芻している。
「案外穏やかな雪景色の中で、人は自殺を考えるものだよね」
そういうものなのかな。
冬の北海道に心中や自殺のためにわざわざやって来る本州の人々がよくいるのはそういう事だろうか。
穏やかな雪景色の中で眠るように安らかな死を想像するのかな。
確かに雪景色の中に埋もれて眠ったらそれまでであるが。
自分の場合、自殺企図があった時でも雪と自殺とは自分の中では結びつかず、
雪に埋もれて眠るように死にたいとは考えなかった。
それは雪が否応無しに生活を左右するものであるからで、
死のうとしなくても雪に殺されそうになる事は年に一度はあるせいかも知れない。
普段の通勤路を雪で横殴りされ鼻と口を雪に叩かれて呼吸出来ず前に進めないほどの吹雪の翌朝は、
大抵穏やかに白く一面輝いており、見た目綺麗であるが色々なものが埋まっていたりする。
不覚にもホワイトアウトで迷走し人知れず行き倒れたまま雪に埋もれた人が
雪解けの時に誰も予想し得ない場所で発見される事故は常に自分の身にも起こり得る危険の一つである。
雪と風で鼻と口を塞がれ雪に殺されるのは誰だって嫌な筈だ。
陶酔の延長に死を願って自殺するなら真冬の雪景色は一見穏やかで美しいかも知れないが
実際はそんな綺麗なものではない。
雪解けの時に発見されるので正視出来ない程の無残な姿で発見されると聞いた。
雪に埋もれ絶命してから春まで数か月もの間、凍結と融解を繰り返し、雪解けの水分に長い間浸される。
想像上のイメージと現実とはかけ離れているものだ。
自殺を夢想する事は出来ても現実の死は、特に自死はドラマや昭和の少女マンガのようには美しくない。
Twitterのお仲間の方が教えてくれた
「願はくは花のもとにて春死なむ その如月の望月の頃」は、
私個人的には、この人は眠いだけなのではないかと思う。
むしろ「死が美しいなんてだれが言った」という本の題名が思い浮かぶ。
昭和の大昔、目にした本で、今検索してみたらあった。
『死が美しいなんてだれが言った[思索する女子学生の遺書]』(広津里香著 カッパプックス 1977年)
本の出た時よりも10年ほど前にこの著者は夭折している。
1960年代は小説や少女マンガの中で自死が美化された時代だったと記憶する。
例えば雪の朝主人公の少女は手首を切る、白い雪に深紅の血液が滴る…みたいな光景が物悲しく
うっとりと描かれていたのがパターン化していた。
そうそう、川や湖への身投げも、コマの端に花が書き込まれて美しく描かれていたっけ。
自死が美しいのは1960年代の少女マンガの中の世界だけの事である。
実際、市内の川に飛び込んだ人があり、記憶に残る。
いつかの正月明けに、本州の何処かから遥々北海道のこの街に心中しにやって来た男女が
よく私の散歩する岸壁で川に飛び込み、夜釣りの人に通報されて女性は救助された。
しかし男性は助けを求めておーいおーいと叫びながら河口に流され数日後海で発見された。
正月明けの厳寒期の水温はほぼ氷温とほぼ同じかせいぜい1℃程度ぬるいくらいである。
水に落ちて衣服に川の水が浸透した時、全身を無数の針で刺され続けるような痛みを味わった事であろう。
まして川の水はドブと同じであるから水に入った瞬間その汚さ生臭さに後悔した事であろう。
正月早々ダイバー達が気温-15~-18℃の厳寒期の川に潜り捜索して気の毒と思った。
川などに飛び込まずそのまんま岸壁で二人で眠ったら二人とも確実に凍死したと思われるが、
彼らが選んだ川の水は気温よりもずっと温かかった。
凍死ではなく汚い川から海に流されての溺死、しかも片方だけが亡くなって残された人も悲劇だった。
自死は全然美しくない。
先日もうちの近所で橋から飛び降りた人が川に流されて亡くなったが、河口に向かって流されながら
「たすけて」と叫んでいたのを釣り人が目撃したと地元新聞の記事に載っていた。
自ら川に飛び込んで死のうとしたのに「たすけて」と叫ぶ、この矛盾した「たすけて」は
心底死にたかったというよりも、苦しい何かから逃れ本当は生きたかった事を言い表している気がする。
結局、「たすけて」と叫んだ人は流れの速い川によって海に流され、翌々日になってから
私のよく散歩する浜の付近で発見されたと聞いた。
この地域の川に飛び込むと急な流れで河口から海に流され、潮の流れで市の反対側の崖や浜の辺りでにち上げられる。
自死は美しくもなくうっとりと眠るような安楽なものでもない。
自殺したとしてもその人が本当に、確実に死ねたかどうかは誰にもわからない。
例えば10階から飛び降りて頭が地面に叩き付けられスイカ割り状態で死んだとして、
肉体が木っ端微塵になっても本当に死ねたかどうかは生きている我々にはわからない。
1980年代の昔、自分が入院していた病院の最上階から患者が飛び降り自殺した。
退院後、路面の血の滲みを見た時にその人がいる、と感じた。
最上階から飛び降りた人の意識が、地面に叩き付けられ頭が砕けた瞬間のまま、
その場で身動き出来ずうずくまっている気がしてならなかった。
地面に叩き付けられた体が粉々に壊れて消滅したのに、意識だけが地面に激突した瞬間のまま留まっている。
肉体が滅ぶと共に意識も完全に死んで消滅したかどうかは当人以外誰も知らない。
死が意識も完全に消える確実なものであると証明する事は誰にも出来ない。
しかし窓から地面に、橋から川に、飛び込むほど追い詰められた心の苦しみから
死んで確実に逃れる事が出来れば良いが、出来ないのであれば自死は取り返しのつかない大失敗である。
自分はキリスト教徒であり教義で自殺は禁止されているが、それでも抑鬱状態に陥ると自殺企図が起こった。
実行しなかったのは宗教的な教義の縛りよりも、飛び降りた人が地面に叩き付けられた痕跡を見た時に受けた、
“この人本当に死ねたのか?体が無くなっても絶命の瞬間のまま意識だけ居残っているのでは?”
と感じた印象の方が自死衝動の抑止になっているのは間違いない。
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二連休初日、吐き気と掃除と冷や汗と自殺の話で一日を費やした。