はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

城ロマン:東遠の3城址巡り(横地城址へ)

2017-10-09 16:28:57 | ウォーキング
歩行記録                                                           H29-10-5(木)
歩行時間:7時間40分   休憩時間:1時間00分   延時間:8時間40分
出発時刻:7時10分     到着時刻:15時50分
歩  数: 39、463歩(推定距離28.01km)    GPS距離27.3km
行程表
 菊川駅 1:05> 横地城趾入口 1:00> 横地城趾出口 <山中彷徨>0:55><山中彷徨> 横地城趾出口 1:05>
 牧之原台地上県道合流 1:00> 勝間田城趾入口 0:20> 勝間田城趾出口 0:55> 空港入口東交差点 0:35>
 諏訪原城趾入口 0:25> 横諏訪原城趾出口 0:20> 金谷駅

                           遠江3城址(横地・勝間田・諏訪原)概略図

 
 菊川駅から横地城二の丸(横地神社)までのYahoo!の地図
 横地城址出口から勝間田城址入口までのYahoo!の地図
 勝間田城址出口から諏訪原城址入口までのYahoo!の地図

  東遠州の横地城と勝間田城を昨年の2月に歩いたが、その時は諏訪原城には行かず南にある一等三角点の高根山を目指した。
歩き終わってから考えると折角城址巡りをするなら諏訪原城址を入れて 「城ロマン 東遠3城址巡り」 なんて銘打ってウォーキングの
募集をすれば、参加者が増えるのではないか、なんてどうでもよい事に思いつき検証のために歩いてきました。
予測では朝7時頃菊川駅を出ればゴールの金谷駅には3時ごろ到着。歩行距離は大よそ25km程度としましたが果たしてどうでしょう。

 
              お茶の菊川のマンホール                         お馴染みのマンホール

  菊川駅をほぼ予定通り7時に出発しました。ここから横地城にかけては過去何度も歩いているので適当に南に向かって歩きます。
菊川のMHの蓋なら菊川出身の漫画家、小山ゆうが描いた 「ちゃこちゃん」 を思い浮かべますが、今日最初に見たのはお茶の葉と
花を描いた物でした。勿論ちゃこちゃんもすぐ顔を出して来ました。

 
              横地城址案内板                              横地城址入口の案内板

  小笠高校の入口に 「横地城跡」 の案内板があるが城跡のあるのはまだ大分先。最初に来た時はこの辺りから城が始まっていた
のかと思ったが、実際には草に隠れた部分に 「あと2.5km」 とか書いてあった。
建てた時は草が生えていなかったので下の表示も見えただろうが、こうなるとチョットいただけない。下の看板をもう少し上に移動
すればいいのにと自分は何もしないのに文句だけは一人前以上に言う困った年寄りです。

  最初の看板から約15分ほどで城址入口に着く。ここで県道と別れ左の道に入れば横地城址の入口です。
入口の横にある製茶工場がふくよかな香りを醸し出している。以前はこの香りは春にしか嗅ぐ事ができなかったが、最近はこうして
秋にも嗅ぐ事ができるようになった。と云っても主に西部地方が主で、中部の小さな製茶工場ではまだ嗅いだ事がありません。
これは最近 “秋番茶” とかいって秋にも茶葉を収穫して製茶をするところが出てきています。

 
                 横地一族の墓                              斯波家の屋敷跡

  入口の坂を登り始めるとすぐあるのは横地一族の墓。ここには小振りな宝篋印塔や五輪塔、無縫塔が並べられている。
この仏塔が建てられたのは多分横地城が落城してからだと思えるが、城跡にこれだけの仏塔があるのを見た事はない。
今日これから行く勝間城も諏訪原城にも仏塔は無い。と云う事はここの城主だった横地一族は住民に慕われていたのでしょうか。
そうそう案内板の宝篋印塔に “ほうきゅういんとう” とルビを振ってくれてあるが、正しくは “ほうきょういんとう” です。

  斯波義廉(しばよしかど)と云えば当時の遠江の守護で、遠江の地を巡って駿河の今川と争いを繰り返していたライバルです。
その館が横地城にあるという事は当然横地氏は斯波氏側だったのでしょう。しかし遠江を統治する守護代が領内の片隅、しかも敵に
近い城に館を設けるでしょうか。
私の妄想的歴史観は、これは斯波義廉の館ではなく、斯波氏が横地氏を監視する目付が住んでいた館ではなかったかと思います。

       
                           横地城鳥瞰図(ネットから拝借しました)

  横地城は東西に細長い城で、起伏のある自然の地形を生かした山城です。
本丸は東にある東丸で、中央のあたかも本丸のように見えるのは二の丸だす。こうして見ると中々難攻不落のように見えますが
今川軍のたった500の兵に7日間の防衛戦も末、落城してしまったのですから分かりません。
別に奇襲を受けたわけではなく、ここが攻撃される前には8km程東にある同じ一族が守る勝間田城が攻撃されたのです。
当然横地城では今川の攻撃を予測して戦闘準備を整えていたことででしょうし、城内の防御設備の補修は勿論、屈強な兵を配置
したり、また横地一族はこの地で400年も続いている名家ですので、当然近在から駆け付けた郷士も沢山いたでしょう。
なのにたった500の兵の攻撃に敗れてしまったのだから信じられません。

 攻撃口は東西の入口と中央の二の丸下の千畳敷がありますが、東西の入口には一騎駆が備えられ、細い道を一騎づつ攻撃
して来れば、高台から狙い撃ちする事ができます。二の丸、中の丸、本丸はそれぞれ隣接した高台になっているので、二の丸が
攻撃されれば中の丸から弓矢での攻撃が可能です。かと言って他の場所からは地形が厳しく多数の兵の移動には難しく、途中で
見つかれば全滅の可能性があります。
しかもこの地は400年も続いた横地の領土なのだから城外にも味方がいたでしょう。ならそれらと呼応して夜間今川軍を挟み撃ちに
することもできたと思う。
こうして私が妄想を膨らましても横地城が負ける要素が見つからないのは、私には軍師の能力が無いという事でしょう。

  アッ! 誰かさんは横地城の敗因を横地兵の戦う意識が低かったか、領民は横地氏に反感を持っていたと思ったでしょう。
しかしそんなこともないようです。先ず意欲の低い城兵なら、負け戦となれば “逃げるが勝ち” とばかりに逃亡してしまうでしょう。
ところが横地城の近くに “身討原” とか “千人塚” があり、そこは城から逃げてきた城兵が最早これまでと全員自決して果てた地で
今では身討原(みうちばら)と呼ぶそうです。近くにはその亡骸を葬った千人塚があるそうです。
更に横地氏に勝利した今川義忠は駿府に帰途の途中、横地城から4kmほど南にある塩の道の塩買坂で横地の残党などに討たれて
います。こうしてみれば横地の兵の戦闘意識が低かったとはとても思えません。
なら今川軍の軍勢が500は間違いで実際はもっと多かったのでしょうか。でも多ければ塩買坂では討たれなかったかもしれない。と
堂々巡りに陥ってしまいました。

  ただ情けないのは斯波一族で、せかっく味方が壊滅しながらも敵将今川義忠の首を取ったのだから、何故ここで素早い反撃に
出なかったという事。そうすれば今川家は滅亡し、日本の歴史は大きく変わっていたでしょう。

  そうそう今川義忠とは義元の祖父で、大河ドラマ直虎に出ている浅丘ルリ子が演じる慶寿尼の舅になります。

 
                 二の丸の斜面                             二の丸(横地神社)

  正面入口側4段の土塁と堀が施されいるが、その他の部分は忍んで登る事は可能でも、集団で攻撃しながら登る事は出来そうも
ない傾斜になっています。

 
                    休憩所                                     中の丸

  ここは 「御前崎遠州灘県立自然公園」 だそうです。へェーそんな名前があったのかって感じです。
それならここは国史跡名勝天然記念物なのだから その名前の 「菊川城館遺跡群 横地氏城館跡」  も案内してくれれば良いのに。

  中の丸の上は雑草が生茂っていました。なんか長い物を踏みそうでびくびくしながら歩きました。
 
 
                本丸登り口                                    本 丸

  二の丸と違って本丸の登り口は狭い急な道になっていて、上もそれにふさわしく狭く広場があるだけだった。どうやらこの本丸は
いざと云うときに逃げ込んだり攻撃するための砦のような役目をして、軍議などを行う館は下にある空地にあったのだろう。

 
                本丸から北の眺め                             本丸から南の眺め

 所詮は海抜100m程しかないので眺めも知れています。本来なら粟ヶ岳の “茶” の字が見えるのですが今日は見えていません。
一方南側の左下に見える農道の先は、これから向かう道でしょうか。

 
                 吾亦紅                                    ホトトギス

 本丸から東は余り人が踏み込まないようで雑草が生茂っています。でもこれでも道は簡易舗装がされていて以前は軽トラが走って
いたようです。

 
              東の一騎駆                                    農道合流

  陽が射す場所は草が茫々ですが、日陰の所はこんな感じです。この一騎駆けで撃たれた侍はいたのでしょうか。
農道と合流です。ここから先は次の勝間田城入口までは舗装路が続く筈です。