はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵3回目-11

2013-11-02 10:41:52 | 寺社遍路
  21番目 ~ 40番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:10時間25分 休憩時間:2時間10分 延時間:12時間35分
出発時間:6時00分   到着時間:18時35分
歩  数:  58、500歩   GPS距離:43.4km
行程表
 安倍川駅 0:08> 21番 0:27> 22番 1:42> 23番 0:46> 24番 0:05> 25番 0:05> 26番 
 0:03> 27番 0:21> 28番 0:13> 29番 0:16> 30番 0:08> 31番 0:25> 32番 0:12> 33番
 1:50> 34番 1:20> 35番 1:24> 36番 0:06> 37番 0:04> 38番 0:03> 39番 0:17> 40番
 0:30> 安倍川駅

              36番目(51番) 臨済寺(地名)
 円光院からは賎機山の東の山裾を通る麻機街道で南に向かうと、臨済寺、富春院、松源院、安西寺と続き、
山裾から少し離れた場所に国分寺と旧御器屋町地蔵堂がある。
このうち山裾のにある4寺は道順にあるので、何としても今日中に回りたいと思っている。今日回らないと次回も
同じ道を歩かなければならなくなる。

 麻機街道を歩いていると「麻機」と付いた小学校、郵便局、幼稚園などが目に付いたが、麻機の地名は地図上
には載っていない。代わりに北、南、東と一文字の地名が散らばっていた。
古い私の知識では、麻機沼のあるこの辺りの地名は、麻機と思っていたが、どうやらそうではなかったようで、
ウィキペディアによれば「明治22年に南村、浅畑新田、北村、東村等が合併して麻機村が発足」とある処を見ると
当時は麻機沼を中心に東、南、北の集落があったようだ。
それが昭和9年に麻機村が静岡市に編入されたとき東南北の地区名はどうなったのか、そこが分からなかった。
地名は名付けた当初は自分たちを中心にして、東、南、北でも良かったろうが、地域が広がると何処に対しての東
なのか北なのか分からなくなる。この地区も主たる地名の麻機を頭に付けて、麻機東、麻機北、麻機南にすれば
一目瞭然で分かりやすいと思うのだが。

 今日歩いてきた中に、安西の地蔵堂があった。これに対し、これから向かう所には安東という地名もある。
この場合の「安」とは安倍川の事だと誰でも気づくと思うが、地図で見ると安西も安東も安倍川の西を流れている。
では「安」は何を指しているのか。
右側の古い時代の安倍川の見取り図を見てください。かって安倍川は今の静岡の街中を流れていて、安西は
安倍川の西にあったのは間違いないようです。矢張り「安」は安倍川指していたようです。

 
                    現在の安倍川の流れ                昔の安倍川の流れ

 麻機の地名ではもう一つ興味を引くものがある。アッそうだ!その前に麻機の読みは「アサバタ」と読みます。
静岡市の人なら大概の人は読めるでしょうが、初めて見る人は戸惑うかもしれませんので紹介しておきます。
この麻機以外にも静岡には「賎機(しずはた)」という地名もありましたが、今は山の名前や学校、郵便局に名前を
残すだけのようです。今日はその賎機山の裾を東西に歩いて来ました。
さらに「服織(はとり)」という地名もありましたが、これも学校や郵便局に名前が付いているだけです。

 この麻機・賎機・服織の地名を並べると何か気づきませんか? 
そう麻や機、服、織など繊維に関係ある言葉ばかりです。実は静岡の北部のこの辺りには、渡来人の一団が住み
賎機山を中心に麻、木綿、絹の栽培や機織をしていたそうです。
その証拠というか、服織には「建穂(たきょう)神社」という、かっては「馬鳴(まなり)大明神」と称した神社があります。
この馬鳴明神の馬鳴とは、養蚕を営んでいた人たちが祀った「馬鳴菩薩」と同義語らしいのです。
馬鳴菩薩は右手に桑の枝、 左手に蚕の繭玉(絹糸)を持って白馬に跨っていたらしいですが、そのお札をネットで
見付けたのでコピーしておきます。

      
       馬鳴菩薩(コピー)                            牧ヶ谷古墳

 さらにこの服織を流れている藁科川の対岸には牧ヶ谷古墳群がある。その古墳は養蚕や機織などの技術を持った
渡来人の秦一族の物ではないかとの説もあります。
くどいついでにもう一つ。静岡の名前は明治以前は府中とか駿府と呼んでいました。それが明治維新に改名する際
賤機山から「賤ヶ丘」が候補に挙がったが「賤」「いやしい」に通じる事から「静岡」になったそうです。
こうなると気になるのが何故「賎」なのかと言うことで、これは麻機では麻の織物、服織では絹の織物、そして賎機は
いやしい人の着る織物、すなわち木綿の織物を織っていたとされています。

 色々受け売りを書いてきたが、地名は安易に捨てるべきではないと思う。麻機、賎機、服織は最早地名には無く
学校や郵便局等にその名を残すだけになってしまった。いつのその名が無くなってもおかしくない状態だ。
「はとり」は確かに今もその地区は「はとり」だ。だが字は「服織」から「羽鳥」と変わってしまい、文字からは過去を
想像することは出来なくなってしまった。
難しい漢字だから平がなに、難読だから安易な読める字に変更することが本当に思いやりなのだろうか。

   
          秋葉山常夜灯                          ブーゲンビリア

 円光院から臨済寺に1は時間25分も掛かってしまい、時間も5時半近くなってしまった。辺りは薄暗く臨済寺の
山門も閉まっていて中に入ることは出来ない。
仕方がない山門の写真を写して次に行こうと思ったとき、郵便配達の人が通用門らしき入口から中に入って行った。
その門は開いたままの状態だったので私もついつい中に入る。
写真を2枚写した処でお坊さんに出会ってしまった。軽く会釈をすると相手も会釈して通り過ぎた。
アー良かった。いい歳をして馬鹿な事をやり過ぎだ。反省しながら臨済寺を後にした。
臨済寺については気になっていた事があるが、それは次回臨済寺の境内に入った時の話としよう。

 
               臨済寺山門                               臨済寺本堂
      臨済寺の地図

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