志太の微笑仏を訪ねて3(常楽寺・)
勢岩寺を出て高草山の石脇登山口にある公衆便所所に出る。そこから少しやきつべの道を
登った所に常楽寺への参道があった。
参道と農道を兼ねた道に入るとすぐ道はに分岐していて、一方は山に向かって直登する道
だったので、多分これが参道だろうと見当を付けて登って行く。
急坂で細い参道は軽トラの4輪駆動でなければ登れないような道だったが、ピンポン!
予想通り赤い涎掛けを掛けた六地蔵が鎮座していた。
そしてその横の石段の上には、寺とは思えない様な建物だったが、間違いなく常楽寺だった。
常楽寺 常楽寺の鰐口
ところで鰐口って寺にも神社にもあるが何故だろう?気になって調べてみるとWikipediaに
「鰐口(わにぐち)とは仏堂の正面軒先に吊下げられた仏具の一種で、神社の社殿で
使われることもある」となっている。では何故鰐口と呼ぶのか?
「鰐口を下から見ると、その割れ目が鰐の口のようだから」と書いたものがあった。
なるほどね! 言われてみればそんな気がしないでもない。
でも神社では鰐口でなくて鈴を下げた物が多いが、この鈴は何て呼んでいるのだろう?
案内板 案内板拡大
常楽寺には薬師如来の木喰仏があるらしい。だが参道の入り口にあった案内板は、
文字の色が退色していて読むことが出来なかった。
それではとまた焼津歴史資料館のHPを見たがアレー常楽寺の事は掲載されていない。
今日出かける前に調べた志太地域のローカル情報サイトには歴史資料館になっていたのに----
更にネットで検索すると「静岡観光おでかけガイド」に
「平成3年(1991年)6月20日の不審火による火事で常楽寺が全焼し、木喰仏も焼失しています」
とあった。これで納得。そんな訳で常楽寺の微笑仏の詳細は不明です。
古墳の表示 色づき始めたミカン
寺の墓地があったので名字の確認に近づいて行くと、墓の下に白い杭の案内標識が目に付いた。
何だろうと近づいて見ると「筧沢(ひよさわ)古墳群筧沢支群」とある。
高草山周辺には古墳が多いと聞いていたが、こんな所にもあったのだ。それにしても眺めの良い場所だ。
ここより少し上にある「笛吹段古墳」も眺めが良い場が、古代人も墓地の選定に眺めの良さも
加えていたのだろうか。 古墳の付近にあるミカン畑のミカンが色づき始めていた。
古墳から焼津の市街を
どうですか、こんな具合に焼津の街を眺める事が出来るのです。(だいぶピンボケすが)
そうそう墓石の名字は一つの名字だけで、それも海には関係していませんでした。
古墳下に見える農道に下りて左側に焼津の街を見ながら歩いて行く。
農道が終わり車道に出たが、なるべく交通量の多い県道には出ないよう山手の道を選んで歩いていく。
以前この道は駿河一国の遍路で歩いたが、確か「旧地名 東海道」の標識があったはずだ。
旧東海道は先程の常楽寺参道入口の、やきつべの道から公衆トイレに下り、方向を北に変えて
ここへ続いていたのか。
そしてここでまた方向を西に変えて小川(焼津)宿に向かっている。随分無駄な歩きをしているが
地名から考えれば旧東海道はこのルートに違いない。
案内地図拡大 高草山関方登山口
東海道の標識を確認して更に北に向かうと、道は県道に出てしまった。
県道は歩きたくないが山がすぐ近くまで迫っているので、県道を歩かないわけにはいかない。
右側に大きな看板が立っている。眺めて見ると、ここは高草山の登り口で、登山道沿いには、
鰐口のような形の「六鈴鏡(市文化財)」のイラストが描いてある。
少し興味を覚え遠回りになるが行ってみる事にした。
六鈴鏡(案内板拡大) 六鈴鏡出土古墳
銅鏡といえば馬鹿の一つ覚えのように「三角縁神獣鏡」しかしらないが、六鈴鏡なる物が
あったのだ。焼津市教育委員の案内板を見ると
「日本古代においては鏡は姿見としてではなく、呪術的な道具として考えれている。
鈴についても呪具祭器として使用されている。こうした祭儀用の鏡と鈴を一緒にしたのが
鈴鏡で日本特有の鏡である」
鈴というからには、あの丸い部分が鈴になっていて音を発するのだろうが大したものだ。
丸い空洞を造るのも大変そうだが、その中に小石を入れてあるのだから尚更技術を要しただろう。
なのにこの六鈴鏡も市指定の文化財にすぎない。
日本製で、あちこちから出土しているためなのか? 美術的に拙い技巧なのか?
六鈴鏡を出土した古墳は、神社の後ろの北向きの余り眺めが良いとは言えない場所にある。
さっきは古代人も眺めの良い場所が好きだと言ったが、どうやら古代人も百人百様のようだ。
ところでこの六鈴鏡が出た古墳は「猪之谷(いいのや)神社」の境内にあるのだが、
字こそ違え遠州の引佐の井伊谷(いいのや)と音が同じだ。
若しかしてこの神社は井伊谷と関係があるのではないかと突飛な思いに取り付かれ調べ出てみると、
面白い事が分かった。
今朝渡った瀬戸川の入江橋の上流に若宮八幡宮がある。そこに彦根藩第二代藩主の井伊直孝
(なおたか)の産湯の井戸が残っているとあった。
猪之谷神社がいつ出来たかは分からないので判断できないが、面白い偶然だ。
いぼ地蔵 萩の花
猪之谷神社の横にあった「いぼ地蔵 長福寺」の看板に惹かれて神社の隣の長福寺に寄ってみた。
山門の手前にいぼ地蔵の説明があった。それによると
「この地蔵は元は裏山にあったが、田中城の殿様がこの辺りを通りかかると、急に馬が棹立ちになり
殿様が落馬することが度々ありました。易者に伺った処、お地蔵さんを読経が聞こえる所に安置する
よう告げられ現在の地に祀られました。お地蔵さんのお顔に疣の治った跡があると言われ、台座周りの
丸石で疣を撫でると疣が治ると、参詣人がありました」
小石で疣をこすると疣がとれる? まてよ疣と小石と聞いてある事を思い出した。
それはやきつべの道を登り詰めた日本坂峠に、日本武尊が隠れたといわれている古墳に
「穴地蔵」と呼ばれるいぼ地蔵が祀られている。
その穴地蔵には穴の開いた小石を紐で吊るしたものが奉納されているが
あの穴の開いた小石で疣を取ったのではないか。穴の中に疣を入れてむしりとる!
何か痛そうだが、ここの平らな石で擦るより効果は抜群だろう。
今まで穴の開いた石の意味が分からなかったが、きっと疣取用だったに違いない。
またまた妄想が始まってしまいました。
長福寺を出てしばらく行くと再度県道に合流。そしてほどなく焼津市と藤枝市の市境に出た。
勢岩寺を出て高草山の石脇登山口にある公衆便所所に出る。そこから少しやきつべの道を
登った所に常楽寺への参道があった。
参道と農道を兼ねた道に入るとすぐ道はに分岐していて、一方は山に向かって直登する道
だったので、多分これが参道だろうと見当を付けて登って行く。
急坂で細い参道は軽トラの4輪駆動でなければ登れないような道だったが、ピンポン!
予想通り赤い涎掛けを掛けた六地蔵が鎮座していた。
そしてその横の石段の上には、寺とは思えない様な建物だったが、間違いなく常楽寺だった。
常楽寺 常楽寺の鰐口
ところで鰐口って寺にも神社にもあるが何故だろう?気になって調べてみるとWikipediaに
「鰐口(わにぐち)とは仏堂の正面軒先に吊下げられた仏具の一種で、神社の社殿で
使われることもある」となっている。では何故鰐口と呼ぶのか?
「鰐口を下から見ると、その割れ目が鰐の口のようだから」と書いたものがあった。
なるほどね! 言われてみればそんな気がしないでもない。
でも神社では鰐口でなくて鈴を下げた物が多いが、この鈴は何て呼んでいるのだろう?
案内板 案内板拡大
常楽寺には薬師如来の木喰仏があるらしい。だが参道の入り口にあった案内板は、
文字の色が退色していて読むことが出来なかった。
それではとまた焼津歴史資料館のHPを見たがアレー常楽寺の事は掲載されていない。
今日出かける前に調べた志太地域のローカル情報サイトには歴史資料館になっていたのに----
更にネットで検索すると「静岡観光おでかけガイド」に
「平成3年(1991年)6月20日の不審火による火事で常楽寺が全焼し、木喰仏も焼失しています」
とあった。これで納得。そんな訳で常楽寺の微笑仏の詳細は不明です。
古墳の表示 色づき始めたミカン
寺の墓地があったので名字の確認に近づいて行くと、墓の下に白い杭の案内標識が目に付いた。
何だろうと近づいて見ると「筧沢(ひよさわ)古墳群筧沢支群」とある。
高草山周辺には古墳が多いと聞いていたが、こんな所にもあったのだ。それにしても眺めの良い場所だ。
ここより少し上にある「笛吹段古墳」も眺めが良い場が、古代人も墓地の選定に眺めの良さも
加えていたのだろうか。 古墳の付近にあるミカン畑のミカンが色づき始めていた。
古墳から焼津の市街を
どうですか、こんな具合に焼津の街を眺める事が出来るのです。(だいぶピンボケすが)
そうそう墓石の名字は一つの名字だけで、それも海には関係していませんでした。
古墳下に見える農道に下りて左側に焼津の街を見ながら歩いて行く。
農道が終わり車道に出たが、なるべく交通量の多い県道には出ないよう山手の道を選んで歩いていく。
以前この道は駿河一国の遍路で歩いたが、確か「旧地名 東海道」の標識があったはずだ。
旧東海道は先程の常楽寺参道入口の、やきつべの道から公衆トイレに下り、方向を北に変えて
ここへ続いていたのか。
そしてここでまた方向を西に変えて小川(焼津)宿に向かっている。随分無駄な歩きをしているが
地名から考えれば旧東海道はこのルートに違いない。
案内地図拡大 高草山関方登山口
東海道の標識を確認して更に北に向かうと、道は県道に出てしまった。
県道は歩きたくないが山がすぐ近くまで迫っているので、県道を歩かないわけにはいかない。
右側に大きな看板が立っている。眺めて見ると、ここは高草山の登り口で、登山道沿いには、
鰐口のような形の「六鈴鏡(市文化財)」のイラストが描いてある。
少し興味を覚え遠回りになるが行ってみる事にした。
六鈴鏡(案内板拡大) 六鈴鏡出土古墳
銅鏡といえば馬鹿の一つ覚えのように「三角縁神獣鏡」しかしらないが、六鈴鏡なる物が
あったのだ。焼津市教育委員の案内板を見ると
「日本古代においては鏡は姿見としてではなく、呪術的な道具として考えれている。
鈴についても呪具祭器として使用されている。こうした祭儀用の鏡と鈴を一緒にしたのが
鈴鏡で日本特有の鏡である」
鈴というからには、あの丸い部分が鈴になっていて音を発するのだろうが大したものだ。
丸い空洞を造るのも大変そうだが、その中に小石を入れてあるのだから尚更技術を要しただろう。
なのにこの六鈴鏡も市指定の文化財にすぎない。
日本製で、あちこちから出土しているためなのか? 美術的に拙い技巧なのか?
六鈴鏡を出土した古墳は、神社の後ろの北向きの余り眺めが良いとは言えない場所にある。
さっきは古代人も眺めの良い場所が好きだと言ったが、どうやら古代人も百人百様のようだ。
ところでこの六鈴鏡が出た古墳は「猪之谷(いいのや)神社」の境内にあるのだが、
字こそ違え遠州の引佐の井伊谷(いいのや)と音が同じだ。
若しかしてこの神社は井伊谷と関係があるのではないかと突飛な思いに取り付かれ調べ出てみると、
面白い事が分かった。
今朝渡った瀬戸川の入江橋の上流に若宮八幡宮がある。そこに彦根藩第二代藩主の井伊直孝
(なおたか)の産湯の井戸が残っているとあった。
猪之谷神社がいつ出来たかは分からないので判断できないが、面白い偶然だ。
いぼ地蔵 萩の花
猪之谷神社の横にあった「いぼ地蔵 長福寺」の看板に惹かれて神社の隣の長福寺に寄ってみた。
山門の手前にいぼ地蔵の説明があった。それによると
「この地蔵は元は裏山にあったが、田中城の殿様がこの辺りを通りかかると、急に馬が棹立ちになり
殿様が落馬することが度々ありました。易者に伺った処、お地蔵さんを読経が聞こえる所に安置する
よう告げられ現在の地に祀られました。お地蔵さんのお顔に疣の治った跡があると言われ、台座周りの
丸石で疣を撫でると疣が治ると、参詣人がありました」
小石で疣をこすると疣がとれる? まてよ疣と小石と聞いてある事を思い出した。
それはやきつべの道を登り詰めた日本坂峠に、日本武尊が隠れたといわれている古墳に
「穴地蔵」と呼ばれるいぼ地蔵が祀られている。
その穴地蔵には穴の開いた小石を紐で吊るしたものが奉納されているが
あの穴の開いた小石で疣を取ったのではないか。穴の中に疣を入れてむしりとる!
何か痛そうだが、ここの平らな石で擦るより効果は抜群だろう。
今まで穴の開いた石の意味が分からなかったが、きっと疣取用だったに違いない。
またまた妄想が始まってしまいました。
長福寺を出てしばらく行くと再度県道に合流。そしてほどなく焼津市と藤枝市の市境に出た。