東海道53次15回目-1
場 所:東京都・神奈川県川崎市・横浜市・
歩行月日:2012/03/19
歩行データ: コースタイム
東京駅-0:05-日本橋-1:50-品川宿-2:30-川崎宿-2:20-神奈川宿-1:10-保土ヶ谷宿-2:10-戸塚宿-1:50-藤沢駅
歩行時間:11時間55分 休憩時間:0時間35分 延時間:12時間30分
出発時間:5時30分 到着時間:18時00分
歩数:70,900歩 歩幅推測:0,77m 距離推測:54.6km (GPS距離:52.6km)
東京駅~品川宿
東京駅-0:10-日本橋-0:50-芝増上寺前-0:15-西郷・勝会見の碑-0:50-品川本陣跡
遂に東海道53次の最後の歩きとなるのだが、何とも不自然な終わり方になってしまった。最後の歩きが東海道の出発地なんて、こんな出鱈目な歩き方をするのは私ぐらいな者だろう。もう何回も言い訳をしたので今日は止めよう。
青春18切符の1枚の切符の有効期間は、検印を受けた日の24時まで有効で、24時を過ぎると2枚目になってしまう。今回利用するムーンライト長良は静岡駅を1時55分発だが、その電車に間にあわせるためには藤枝を前日の最終で出発しなければならない。そこで藤枝・静岡間は普通乗車券を購入して、翌日のムーライト長良から青春18切符を使うようにした。
こんな当たり前のことを書くには理由がある。実はムーライト長良の終着駅東京の改札で、この18切符のルールを知らないのか忘れたのか、駅員に指摘され追加の押印をされている人が何人かいたからだ。私の場合は静岡駅で今日の日付で押印されているのでセーフでした。
田舎者には大きな駅はどうも苦手だ。目的地に行きたくても出口が何カ所もあり、どの出口に出ればよいのか分かりにくい。今回は事前に進行方向北側の日本橋口に下りて、国道1号線を右折し最初の交差点が呉服橋で、その次の交差点が日本橋だと調べておいた。まだ6時まで駅の構内が閑散としていた所為もありスムーズに目的の日本橋に着く事が出来た。
初めて目にした日本橋に感激はしたものの、先ず感じたのはおおぼったい思いだった。如何にも風格がありそうな獅子の像の欄干だが、その上には高速道路の床版が覆い被さっていて清々した眺めではない。以前高速道路を地下化する話も出ていたがどうなっているのかな。
青銅で出来た獅子が手を乗せているのは、毬ではなく東京都の紋章なのだろう。
麒麟像はというと、アレー麒麟に翼が付いている、麒麟って翼があったケ~?
江戸時代の日本橋は浮世絵には太鼓橋で描かれているが、現代の橋は下部がアーチの形をしているのでアーチ橋か?
日本橋獅子の像 日本橋麒麟の像 日本橋側面
さて次に見たいのは道路元標だが何処にあるのだろう? オット交番の前にお巡りさんいる聞いてみよう。すると
「三越の前にレプリカがあるけど、本物は橋の中央で危険なので見る事が出来ない」との事だった。だが三越って何処にあるのだ?
「アー三越は、橋を渡って左の角の建物です」田舎者は時間が掛かる。
日本橋を渡って行くと確かに橋の中央に何か黒いものが見える。あれが道路原票の本物なのか。左右を見ても車は走っていない。お巡りさんはここからは見えない。ヨシ写真を写してこよう。と車道の中に入って行く私でした。
でも時間は朝の6時前で、都会の朝は動き出しは遅いのか車は余り走っていませんでした。
ついでに道路元標のレプリカも見てきました。本物の方が車のタイヤで擦られているのか光って見えますね。
日本道路元標(本物) 日本道路元標(模造)
道路元標レプリカの隣の照明塔に「東京市道路元標」と彫られている。日本に対して東京市、何だろう?
道路元標は以前浜松宿で見たとき調べたが、旧道路法で各市町村に一個ずつ道路元標を設置することを義務付けられていて、その大元がこの日本道路元標なのだろう。そして東京の道路元標が東京市道路元標になるのだと思うのだが何故東京市なのだ。
それは「東京市は昭和18年7月1日東京都制施行により市制廃止、消滅」だそうで、東京市はその当時の名残だった。
ところで国道を歩いていると道路標識に「横浜 ○○km」等と表示されているが、あの距離は横浜の何処を指しているのだろうと疑問に感じません? この道路元標があれば、それを基準にできたが現在は殆ど消滅してしまっている。
以前は市役所とか駅までとか思っていたけど、街道歩きをしていると気になって仕方なかった。そこで調べてみたら「市町村によりけりで、その市町村を代表する場所まで」だそうです。、だから市役所になるときもあるし、駅になる事もある。マー目安にする程度ですね。
里程標 東京市道路元標 浜松中之宿の道路原票
「お江戸日本橋七つ立ち♪」と私も七つ立ちをすべく夜行列車に乗ってきたのだが、七つとは今の午前4時頃になるというので所詮は無理。でも変だなー、江戸の町木戸や宿場の木戸が開くのは六つ刻(6時頃)だったはずなのに「七つ立ち」とは。
調べてみると色々な説があってどの説が正しいのか分からなかったが、私の好きな説を紹介すると
「日本橋の七つ立ちは、大名行列の出発時刻で庶民は六つ立ちだった。大名の早立ちは参勤交代に掛かる日数削減を目的とするが、道中で遅い行列が前にいると追抜くことができなかったため」とあった。となると私の日本橋出発5時45分はズバリ庶民タイムだ。
日本橋朝の景
日本橋を出るまで随分時間が掛かってしまったが、これもお上りさんの事と許してもらって「お江戸日本橋六つ立ち」とあいなりました。
物珍しげに彼方此方を眺めながら歩いていく姿は、完全にお上りさん状態だったが、心の中は生意気にも「日本のメイン通りにしては高い建物が少ない感じだ」などと思っていた。
オッ!あれは何だ? 日本橋では翼のある麒麟だったが、ここでは普通のキリンが立っている。店の宣伝だろうが、何の店かは分からなかった。今度は交番だが変わった屋根をしている。これで屋根の上に三角旗を立てればおとぎの国の城になりそうだ。
先ほどからカラスの鳴き声が気になっていたが、露地の景色を見て驚いた。カラスが数匹ゴミ袋を突っついて辺り一面のゴミだらけになっている。これが花の銀座の風景か!少々ショックだった。
内容は忘れたが、10何年か前に「銀座のカラス」という新聞小説を呼んだ覚えがあるが、それから10年以上経つのに相変わらず銀座にカラスは生息していた。
私の住んでいる所でも一時カラスが増えて困った時期があった。だがごみ収集のボックスやネットを利用することにより、カラスに食料を与えなくなってからみるみるカラスの数は減って、今ではゴミ収集日でもカラスは見かけなくなった。
それが天下の東京銀座でこの有様とは情けない。これで何がオリンピックだ。何が復興だと腹が立ってきた。
こんな風景を外国の人が見れば、日本中の町がカラスに荒らされていると思われてしまう。オリンピックの誘致運動をする金があるなら、まずカラス撲滅をしてからにしろと言いたい。
更に驚いたのはゴミ収集車の後ろで、ごみ袋からペットボトルを抜き出している収集する人の姿だ。東京ではペットボトルの分別はしないのか、それとも利用者の公共心が低いのか、いずれにしても情けない光景だった。
キリンの像 銀座の交番
新橋駅付近でやっと私のイメージする東京らしいビル街が出てきた。「DENTSU」と見えるので「電通」の建物なのだろう。
「浜離宮」の看板もあるが今日はパス。何しろ今日は日本橋から藤沢までの50k越えのハードスケジュールで、しかも夜行列車で殆ど寝ていない。途中で挫折して当然で、完歩は難しい状態だ。そのため街道を離れての見物は当然行くことは出来ない。
今度は右側に芝増上寺の山門が見えてきた。そしてチラリと東京タワーが。ウーン寺はともかく東京タワーは見てみたい。仕方ない少し寄り道をして東京タワーが見える所まで行って見よう。
新橋駅付近のビル 芝増上寺大門と東京タワー
「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 會見之地」の石碑が建っている。ここは江戸時代に薩摩邸があった所で、二人は江戸無血開城をここで決定をしたと説明が書いてあった。そして碑の最後に「西郷吉之助書」と署名してある。待てよ!雅号なら署名に使うもので、本文に雅号、署名に本名ってありなのか?チョット変じゃないのか。と思ったが勝海舟の海舟も雅号なのだから、雅号に雅号でいいのかな。分からない。でも本人が書いたのだからヨシとしよう。
右手に赤穂浪士の泉岳寺があるようだ。京の山科で大石内蔵助が郭通いをしたことを書いたが、ここ泉岳寺はそんな所は比較にならないほど見てみたい場所だ。だが我慢するしかない。
こんな街道歩きでは意味が無いと分かっているのだが、ともかく藤沢まで歩かなければ。
やっと東海道最初の品川宿に入った。店が左右につながる商店街で何処でも見かける風景だ。道が太くないのが昔の街道の面影なのだろう。
品川の本陣跡の碑が聖蹟公園と名付けられた公園の中にあった。聖蹟公園と呼ばれるのは明治天皇行幸時に行在所となった場所だったためだろうが、聖蹟公園は間口は狭く奥に長いが、これが本陣全体なら余り大きくない本陣だ。もっとも京に向かう大名行列が出発したばかりで、ここ品川に泊まるわけもないし、江戸へ行くとしても、あと少しで江戸屋敷に着くなら無駄金を使って泊まったりはしなかったろう。なら、本陣の規模は小さくて当たり前か。
公園のベンチ腰を下ろし一休み。時間は7時40分で2時間以上歩いている。距離も8kmは歩いているのだが一里塚の痕跡は見当たらなかった。今日も一里塚を探すのに苦労をしそうだ。
西郷・勝 会見の碑 品川宿本陣跡(聖蹟公園)
場 所:東京都・神奈川県川崎市・横浜市・
歩行月日:2012/03/19
歩行データ: コースタイム
東京駅-0:05-日本橋-1:50-品川宿-2:30-川崎宿-2:20-神奈川宿-1:10-保土ヶ谷宿-2:10-戸塚宿-1:50-藤沢駅
歩行時間:11時間55分 休憩時間:0時間35分 延時間:12時間30分
出発時間:5時30分 到着時間:18時00分
歩数:70,900歩 歩幅推測:0,77m 距離推測:54.6km (GPS距離:52.6km)
東京駅~品川宿
東京駅-0:10-日本橋-0:50-芝増上寺前-0:15-西郷・勝会見の碑-0:50-品川本陣跡
遂に東海道53次の最後の歩きとなるのだが、何とも不自然な終わり方になってしまった。最後の歩きが東海道の出発地なんて、こんな出鱈目な歩き方をするのは私ぐらいな者だろう。もう何回も言い訳をしたので今日は止めよう。
青春18切符の1枚の切符の有効期間は、検印を受けた日の24時まで有効で、24時を過ぎると2枚目になってしまう。今回利用するムーンライト長良は静岡駅を1時55分発だが、その電車に間にあわせるためには藤枝を前日の最終で出発しなければならない。そこで藤枝・静岡間は普通乗車券を購入して、翌日のムーライト長良から青春18切符を使うようにした。
こんな当たり前のことを書くには理由がある。実はムーライト長良の終着駅東京の改札で、この18切符のルールを知らないのか忘れたのか、駅員に指摘され追加の押印をされている人が何人かいたからだ。私の場合は静岡駅で今日の日付で押印されているのでセーフでした。
田舎者には大きな駅はどうも苦手だ。目的地に行きたくても出口が何カ所もあり、どの出口に出ればよいのか分かりにくい。今回は事前に進行方向北側の日本橋口に下りて、国道1号線を右折し最初の交差点が呉服橋で、その次の交差点が日本橋だと調べておいた。まだ6時まで駅の構内が閑散としていた所為もありスムーズに目的の日本橋に着く事が出来た。
初めて目にした日本橋に感激はしたものの、先ず感じたのはおおぼったい思いだった。如何にも風格がありそうな獅子の像の欄干だが、その上には高速道路の床版が覆い被さっていて清々した眺めではない。以前高速道路を地下化する話も出ていたがどうなっているのかな。
青銅で出来た獅子が手を乗せているのは、毬ではなく東京都の紋章なのだろう。
麒麟像はというと、アレー麒麟に翼が付いている、麒麟って翼があったケ~?
江戸時代の日本橋は浮世絵には太鼓橋で描かれているが、現代の橋は下部がアーチの形をしているのでアーチ橋か?
日本橋獅子の像 日本橋麒麟の像 日本橋側面
さて次に見たいのは道路元標だが何処にあるのだろう? オット交番の前にお巡りさんいる聞いてみよう。すると
「三越の前にレプリカがあるけど、本物は橋の中央で危険なので見る事が出来ない」との事だった。だが三越って何処にあるのだ?
「アー三越は、橋を渡って左の角の建物です」田舎者は時間が掛かる。
日本橋を渡って行くと確かに橋の中央に何か黒いものが見える。あれが道路原票の本物なのか。左右を見ても車は走っていない。お巡りさんはここからは見えない。ヨシ写真を写してこよう。と車道の中に入って行く私でした。
でも時間は朝の6時前で、都会の朝は動き出しは遅いのか車は余り走っていませんでした。
ついでに道路元標のレプリカも見てきました。本物の方が車のタイヤで擦られているのか光って見えますね。
日本道路元標(本物) 日本道路元標(模造)
道路元標レプリカの隣の照明塔に「東京市道路元標」と彫られている。日本に対して東京市、何だろう?
道路元標は以前浜松宿で見たとき調べたが、旧道路法で各市町村に一個ずつ道路元標を設置することを義務付けられていて、その大元がこの日本道路元標なのだろう。そして東京の道路元標が東京市道路元標になるのだと思うのだが何故東京市なのだ。
それは「東京市は昭和18年7月1日東京都制施行により市制廃止、消滅」だそうで、東京市はその当時の名残だった。
ところで国道を歩いていると道路標識に「横浜 ○○km」等と表示されているが、あの距離は横浜の何処を指しているのだろうと疑問に感じません? この道路元標があれば、それを基準にできたが現在は殆ど消滅してしまっている。
以前は市役所とか駅までとか思っていたけど、街道歩きをしていると気になって仕方なかった。そこで調べてみたら「市町村によりけりで、その市町村を代表する場所まで」だそうです。、だから市役所になるときもあるし、駅になる事もある。マー目安にする程度ですね。
里程標 東京市道路元標 浜松中之宿の道路原票
「お江戸日本橋七つ立ち♪」と私も七つ立ちをすべく夜行列車に乗ってきたのだが、七つとは今の午前4時頃になるというので所詮は無理。でも変だなー、江戸の町木戸や宿場の木戸が開くのは六つ刻(6時頃)だったはずなのに「七つ立ち」とは。
調べてみると色々な説があってどの説が正しいのか分からなかったが、私の好きな説を紹介すると
「日本橋の七つ立ちは、大名行列の出発時刻で庶民は六つ立ちだった。大名の早立ちは参勤交代に掛かる日数削減を目的とするが、道中で遅い行列が前にいると追抜くことができなかったため」とあった。となると私の日本橋出発5時45分はズバリ庶民タイムだ。
日本橋朝の景
日本橋を出るまで随分時間が掛かってしまったが、これもお上りさんの事と許してもらって「お江戸日本橋六つ立ち」とあいなりました。
物珍しげに彼方此方を眺めながら歩いていく姿は、完全にお上りさん状態だったが、心の中は生意気にも「日本のメイン通りにしては高い建物が少ない感じだ」などと思っていた。
オッ!あれは何だ? 日本橋では翼のある麒麟だったが、ここでは普通のキリンが立っている。店の宣伝だろうが、何の店かは分からなかった。今度は交番だが変わった屋根をしている。これで屋根の上に三角旗を立てればおとぎの国の城になりそうだ。
先ほどからカラスの鳴き声が気になっていたが、露地の景色を見て驚いた。カラスが数匹ゴミ袋を突っついて辺り一面のゴミだらけになっている。これが花の銀座の風景か!少々ショックだった。
内容は忘れたが、10何年か前に「銀座のカラス」という新聞小説を呼んだ覚えがあるが、それから10年以上経つのに相変わらず銀座にカラスは生息していた。
私の住んでいる所でも一時カラスが増えて困った時期があった。だがごみ収集のボックスやネットを利用することにより、カラスに食料を与えなくなってからみるみるカラスの数は減って、今ではゴミ収集日でもカラスは見かけなくなった。
それが天下の東京銀座でこの有様とは情けない。これで何がオリンピックだ。何が復興だと腹が立ってきた。
こんな風景を外国の人が見れば、日本中の町がカラスに荒らされていると思われてしまう。オリンピックの誘致運動をする金があるなら、まずカラス撲滅をしてからにしろと言いたい。
更に驚いたのはゴミ収集車の後ろで、ごみ袋からペットボトルを抜き出している収集する人の姿だ。東京ではペットボトルの分別はしないのか、それとも利用者の公共心が低いのか、いずれにしても情けない光景だった。
キリンの像 銀座の交番
新橋駅付近でやっと私のイメージする東京らしいビル街が出てきた。「DENTSU」と見えるので「電通」の建物なのだろう。
「浜離宮」の看板もあるが今日はパス。何しろ今日は日本橋から藤沢までの50k越えのハードスケジュールで、しかも夜行列車で殆ど寝ていない。途中で挫折して当然で、完歩は難しい状態だ。そのため街道を離れての見物は当然行くことは出来ない。
今度は右側に芝増上寺の山門が見えてきた。そしてチラリと東京タワーが。ウーン寺はともかく東京タワーは見てみたい。仕方ない少し寄り道をして東京タワーが見える所まで行って見よう。
新橋駅付近のビル 芝増上寺大門と東京タワー
「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 會見之地」の石碑が建っている。ここは江戸時代に薩摩邸があった所で、二人は江戸無血開城をここで決定をしたと説明が書いてあった。そして碑の最後に「西郷吉之助書」と署名してある。待てよ!雅号なら署名に使うもので、本文に雅号、署名に本名ってありなのか?チョット変じゃないのか。と思ったが勝海舟の海舟も雅号なのだから、雅号に雅号でいいのかな。分からない。でも本人が書いたのだからヨシとしよう。
右手に赤穂浪士の泉岳寺があるようだ。京の山科で大石内蔵助が郭通いをしたことを書いたが、ここ泉岳寺はそんな所は比較にならないほど見てみたい場所だ。だが我慢するしかない。
こんな街道歩きでは意味が無いと分かっているのだが、ともかく藤沢まで歩かなければ。
やっと東海道最初の品川宿に入った。店が左右につながる商店街で何処でも見かける風景だ。道が太くないのが昔の街道の面影なのだろう。
品川の本陣跡の碑が聖蹟公園と名付けられた公園の中にあった。聖蹟公園と呼ばれるのは明治天皇行幸時に行在所となった場所だったためだろうが、聖蹟公園は間口は狭く奥に長いが、これが本陣全体なら余り大きくない本陣だ。もっとも京に向かう大名行列が出発したばかりで、ここ品川に泊まるわけもないし、江戸へ行くとしても、あと少しで江戸屋敷に着くなら無駄金を使って泊まったりはしなかったろう。なら、本陣の規模は小さくて当たり前か。
公園のベンチ腰を下ろし一休み。時間は7時40分で2時間以上歩いている。距離も8kmは歩いているのだが一里塚の痕跡は見当たらなかった。今日も一里塚を探すのに苦労をしそうだ。
西郷・勝 会見の碑 品川宿本陣跡(聖蹟公園)