はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

東海道53次 品川宿

2012-04-12 15:55:56 | ウォーキング
東海道53次15回目-1

場   所:東京都・神奈川県川崎市・横浜市・
歩行月日:2012/03/19
歩行データ: コースタイム
 東京駅-0:05-日本橋-1:50-品川宿-2:30-川崎宿-2:20-神奈川宿-1:10-保土ヶ谷宿-2:10-戸塚宿-1:50-藤沢駅

 歩行時間:11時間55分 休憩時間:0時間35分 延時間:12時間30分
 出発時間:5時30分  到着時間:18時00分
 歩数:70,900歩 歩幅推測:0,77m 距離推測:54.6km (GPS距離:52.6km)

東京駅~品川宿
東京駅-0:10-日本橋-0:50-芝増上寺前-0:15-西郷・勝会見の碑-0:50-品川本陣跡


 遂に東海道53次の最後の歩きとなるのだが、何とも不自然な終わり方になってしまった。最後の歩きが東海道の出発地なんて、こんな出鱈目な歩き方をするのは私ぐらいな者だろう。もう何回も言い訳をしたので今日は止めよう。

 青春18切符の1枚の切符の有効期間は、検印を受けた日の24時まで有効で、24時を過ぎると2枚目になってしまう。今回利用するムーンライト長良は静岡駅を1時55分発だが、その電車に間にあわせるためには藤枝を前日の最終で出発しなければならない。そこで藤枝・静岡間は普通乗車券を購入して、翌日のムーライト長良から青春18切符を使うようにした。
こんな当たり前のことを書くには理由がある。実はムーライト長良の終着駅東京の改札で、この18切符のルールを知らないのか忘れたのか、駅員に指摘され追加の押印をされている人が何人かいたからだ。私の場合は静岡駅で今日の日付で押印されているのでセーフでした。

 田舎者には大きな駅はどうも苦手だ。目的地に行きたくても出口が何カ所もあり、どの出口に出ればよいのか分かりにくい。今回は事前に進行方向北側の日本橋口に下りて、国道1号線を右折し最初の交差点が呉服橋で、その次の交差点が日本橋だと調べておいた。まだ6時まで駅の構内が閑散としていた所為もありスムーズに目的の日本橋に着く事が出来た。

 初めて目にした日本橋に感激はしたものの、先ず感じたのはおおぼったい思いだった。如何にも風格がありそうな獅子の像の欄干だが、その上には高速道路の床版が覆い被さっていて清々した眺めではない。以前高速道路を地下化する話も出ていたがどうなっているのかな。
青銅で出来た獅子が手を乗せているのは、毬ではなく東京都の紋章なのだろう。
麒麟像はというと、アレー麒麟に翼が付いている、麒麟って翼があったケ~?
江戸時代の日本橋は浮世絵には太鼓橋で描かれているが、現代の橋は下部がアーチの形をしているのでアーチ橋か?

   
  日本橋獅子の像                   日本橋麒麟の像           日本橋側面

 さて次に見たいのは道路元標だが何処にあるのだろう? オット交番の前にお巡りさんいる聞いてみよう。すると
「三越の前にレプリカがあるけど、本物は橋の中央で危険なので見る事が出来ない」との事だった。だが三越って何処にあるのだ?
「アー三越は、橋を渡って左の角の建物です」田舎者は時間が掛かる。

 日本橋を渡って行くと確かに橋の中央に何か黒いものが見える。あれが道路原票の本物なのか。左右を見ても車は走っていない。お巡りさんはここからは見えない。ヨシ写真を写してこよう。と車道の中に入って行く私でした。
でも時間は朝の6時前で、都会の朝は動き出しは遅いのか車は余り走っていませんでした。
ついでに道路元標のレプリカも見てきました。本物の方が車のタイヤで擦られているのか光って見えますね。
 
     
  日本道路元標(本物)                      日本道路元標(模造)

 道路元標レプリカの隣の照明塔に「東京市道路元標」と彫られている。日本に対して東京市、何だろう? 
道路元標は以前浜松宿で見たとき調べたが、旧道路法で各市町村に一個ずつ道路元標を設置することを義務付けられていて、その大元がこの日本道路元標なのだろう。そして東京の道路元標が東京市道路元標になるのだと思うのだが何故東京市なのだ。
それは「東京市は昭和18年7月1日東京都制施行により市制廃止、消滅」だそうで、東京市はその当時の名残だった。

 ところで国道を歩いていると道路標識に「横浜 ○○km」等と表示されているが、あの距離は横浜の何処を指しているのだろうと疑問に感じません? この道路元標があれば、それを基準にできたが現在は殆ど消滅してしまっている。
以前は市役所とか駅までとか思っていたけど、街道歩きをしていると気になって仕方なかった。そこで調べてみたら「市町村によりけりで、その市町村を代表する場所まで」だそうです。、だから市役所になるときもあるし、駅になる事もある。マー目安にする程度ですね。    

   
  里程標            東京市道路元標               浜松中之宿の道路原票

 「お江戸日本橋七つ立ち♪」と私も七つ立ちをすべく夜行列車に乗ってきたのだが、七つとは今の午前4時頃になるというので所詮は無理。でも変だなー、江戸の町木戸や宿場の木戸が開くのは六つ刻(6時頃)だったはずなのに「七つ立ち」とは。
調べてみると色々な説があってどの説が正しいのか分からなかったが、私の好きな説を紹介すると
「日本橋の七つ立ちは、大名行列の出発時刻で庶民は六つ立ちだった。大名の早立ちは参勤交代に掛かる日数削減を目的とするが、道中で遅い行列が前にいると追抜くことができなかったため」とあった。となると私の日本橋出発5時45分はズバリ庶民タイムだ。

    
     日本橋朝の景

 日本橋を出るまで随分時間が掛かってしまったが、これもお上りさんの事と許してもらって「お江戸日本橋六つ立ち」とあいなりました。
物珍しげに彼方此方を眺めながら歩いていく姿は、完全にお上りさん状態だったが、心の中は生意気にも「日本のメイン通りにしては高い建物が少ない感じだ」などと思っていた。
オッ!あれは何だ? 日本橋では翼のある麒麟だったが、ここでは普通のキリンが立っている。店の宣伝だろうが、何の店かは分からなかった。今度は交番だが変わった屋根をしている。これで屋根の上に三角旗を立てればおとぎの国の城になりそうだ。

 先ほどからカラスの鳴き声が気になっていたが、露地の景色を見て驚いた。カラスが数匹ゴミ袋を突っついて辺り一面のゴミだらけになっている。これが花の銀座の風景か!少々ショックだった。
内容は忘れたが、10何年か前に「銀座のカラス」という新聞小説を呼んだ覚えがあるが、それから10年以上経つのに相変わらず銀座にカラスは生息していた。
私の住んでいる所でも一時カラスが増えて困った時期があった。だがごみ収集のボックスやネットを利用することにより、カラスに食料を与えなくなってからみるみるカラスの数は減って、今ではゴミ収集日でもカラスは見かけなくなった。
それが天下の東京銀座でこの有様とは情けない。これで何がオリンピックだ。何が復興だと腹が立ってきた。
こんな風景を外国の人が見れば、日本中の町がカラスに荒らされていると思われてしまう。オリンピックの誘致運動をする金があるなら、まずカラス撲滅をしてからにしろと言いたい。
更に驚いたのはゴミ収集車の後ろで、ごみ袋からペットボトルを抜き出している収集する人の姿だ。東京ではペットボトルの分別はしないのか、それとも利用者の公共心が低いのか、いずれにしても情けない光景だった。

        
   キリンの像                       銀座の交番

 新橋駅付近でやっと私のイメージする東京らしいビル街が出てきた。「DENTSU」と見えるので「電通」の建物なのだろう。
「浜離宮」の看板もあるが今日はパス。何しろ今日は日本橋から藤沢までの50k越えのハードスケジュールで、しかも夜行列車で殆ど寝ていない。途中で挫折して当然で、完歩は難しい状態だ。そのため街道を離れての見物は当然行くことは出来ない。

 今度は右側に芝増上寺の山門が見えてきた。そしてチラリと東京タワーが。ウーン寺はともかく東京タワーは見てみたい。仕方ない少し寄り道をして東京タワーが見える所まで行って見よう。
 
      
  新橋駅付近のビル                           芝増上寺大門と東京タワー

 「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 會見之地」の石碑が建っている。ここは江戸時代に薩摩邸があった所で、二人は江戸無血開城をここで決定をしたと説明が書いてあった。そして碑の最後に「西郷吉之助書」と署名してある。待てよ!雅号なら署名に使うもので、本文に雅号、署名に本名ってありなのか?チョット変じゃないのか。と思ったが勝海舟の海舟も雅号なのだから、雅号に雅号でいいのかな。分からない。でも本人が書いたのだからヨシとしよう。

 右手に赤穂浪士の泉岳寺があるようだ。京の山科で大石内蔵助が郭通いをしたことを書いたが、ここ泉岳寺はそんな所は比較にならないほど見てみたい場所だ。だが我慢するしかない。
こんな街道歩きでは意味が無いと分かっているのだが、ともかく藤沢まで歩かなければ。

 やっと東海道最初の品川宿に入った。店が左右につながる商店街で何処でも見かける風景だ。道が太くないのが昔の街道の面影なのだろう。
品川の本陣跡の碑が聖蹟公園と名付けられた公園の中にあった。聖蹟公園と呼ばれるのは明治天皇行幸時に行在所となった場所だったためだろうが、聖蹟公園は間口は狭く奥に長いが、これが本陣全体なら余り大きくない本陣だ。もっとも京に向かう大名行列が出発したばかりで、ここ品川に泊まるわけもないし、江戸へ行くとしても、あと少しで江戸屋敷に着くなら無駄金を使って泊まったりはしなかったろう。なら、本陣の規模は小さくて当たり前か。

公園のベンチ腰を下ろし一休み。時間は7時40分で2時間以上歩いている。距離も8kmは歩いているのだが一里塚の痕跡は見当たらなかった。今日も一里塚を探すのに苦労をしそうだ。

    
  西郷・勝 会見の碑                        品川宿本陣跡(聖蹟公園)

東海道53次 大磯宿

2012-04-10 19:41:53 | ウォーキング
東海道53次13回目-3

平塚宿本陣~国府本郷一里塚
平塚本陣-0:25-化粧坂一里塚-0:15-大磯宿本陣-1:00-国府本郷一里塚


 大磯町に入ると川の向こうに、お椀を伏せたよう山が見えてきて、その山が川面に映っている。そして橋の袂には「平成の一里塚」の案内板と小公園があった。そこの案内板には
「広重の絵にも描かれた、高麗(こま)山をバックにした東海道と花水川。この地に「平成の一里塚」を休憩所として整備しました」と。
な~んだ!本物の一里塚ではないのだ。でも案内板に書いてある浮世絵は東海道53次の平塚宿の浮世絵だ。そうか浮世絵の絵は、この高麗山を描いたものなのか、納得。
でも待てよ! 高麗山は大磯町で平塚ではない。なのに平塚宿?? いやいや山なのだから平塚宿からも見るし、平塚側のが山の格好も良かったのだろう。それに浮世絵には川でなく田圃が書いてあるのだから、やはり平塚宿でもよいのだ。

 それにしてもあの高麗山や、花水川は由緒ありそうな名前だ。何か意味があるのだろうかと調べてみた。
案の定この辺りは朝鮮半島の高句麗からの移住者が定住した場所で、山上には高麗寺を建立して、山の名前も高麗寺山だった。現在は山の名前は高麗山になっているとあった。
だがまた不自然な物を見つけた。道路案内に「高来神社」と表示してある。高麗神社ではなく高来神社。
これは明治の廃仏毀釈で高麗寺は廃寺となり、残った高麗神社は名前を高来(たかく)神社と改名して残る事が出来たとある。

 一方花水川も面白い説があった。
・鎌倉時代以前は「波奈美頭可波」と表示し、「美頭」は太古の人の髪型「ミズラ」のように川が曲がりくねっていた。
・鎌倉時代、桜の名所であった高麗山に源頼朝が花見に来たが、前夜の春の嵐で散っていた。で花を見ずに帰ったから「花みず川」になった。

更に花水川の調べていて面白い説を見つけた。
「神奈川の語源は、大磯に上陸した高句麗からの移住者は、大磯の傍を流れる金目川沿いに住んだ。 金目川とは「韓メ川」のことで、朝鮮人の住む集落を流れる川という意味である。その「韓メ川」が「韓川」になり「神奈川」になった」
この金目川は花水川の事で、今でも地図で花水川を遡って行くと金目川になった。もうきりがないから止めよう。

  
  高麗(こま)山                            広重の平塚宿

 「化粧(けわい)井戸」の案内板の奥に井戸枠が見えている。案内板には
「大磯の代表的な女性「虎御前」もこの近くに住み、朝な夕なこの井戸水を汲んで化粧をした」とある。
虎御前? 知っている人は知っているだろうが、木曽義仲の愛妾「巴御前」や義経の「静御前」ほど有名ではない。
虎御前とは日本三大仇討に一つ、曽我兄弟の仇討の兄の十郎の愛妾だった女性で、十郎の死後、箱根神社で出家し長野善光寺の行ったとされる。

 化粧井戸からすぐの所に日本橋から16里目の「化粧坂の一里塚」があった。
化粧坂の名前の通り緩い上り坂の両側には昔の名残だろうか緑の並木が続いていた。途中に「釜口古墳」入口の案内があったが今日はパスしよう。

  
  化粧井戸                             化粧坂の一里塚

 東海道線のガードを潜ると大磯宿の江戸見付跡がある。その見附跡から10分も歩かないうちに本陣跡に到着。大磯には本陣が2軒あり、そのどちらの本陣跡には石杭の標識が建っていた。

 平塚本陣を出てから、まだ40分も経っていないのに次の大磯の本陣跡に着いてしまった。調べてみると東海道の宿場間の中で3番目に短い距離だった。1番短かったのは三河の御油宿と赤坂宿の1.7kmで、宿場の間に松並木があるだけで次の赤坂宿に着いてしまった記憶がある。
こんなに短いのは、何かわけがあるだろうが分からなかった。大磯宿は他に興味を惹かれる物も無いので、写真だけ写してそのまま通過。

 街道の左側には「鴫立庵(しぎたつあん)」の案内が建っている。これは日本三大俳諧道場の一つとされる庵で、そこには湘南発祥の地の石碑もあるという。以前から湘南の湘とは何処を指すのか疑問に感じていたので興味があったのだが、事前に調べてみると湘南とは中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側の呼名で、大磯がその湘南に似ているところから呼ばれるようになったという事が分かった。これにはガッカリした。「湘○」という地名は無かったのだ。これで鴫立庵に行く気は無くなってしまった。

  
  大磯宿本陣跡                          本陣の説明板

  藤沢からここまで何カ所かの松並木があったが、今まで見てきた街道の松より太くて高い気がする。特にこれから始まる「大磯の松並木」は立派で、国道1号線の下り線と分離帯を挟んで松並木が続いている。
説明板にはこの辺りの道を「関東ふれあいの道」と紹介してあった。

  
  大磯の松並木                           松並木の案内と道案内

 右手に閉鎖されている洋風な建物が見えてきた。入り口には「伊藤公滄浪閣之舊蹟」の石碑があった。伊藤公とは昔の千円札の図柄のひげの人物で、明治の元勲、初代総理大臣の伊藤博文のことだ。また滄浪閣とは伊藤博文の別邸の名前だった。
伊藤公の死後、滄浪閣は大磯プリンスホテルの別館となるが現在は休業中のようだ。

 大磯って何が有名だろう? 考えてすぐ頭に浮かんだのは吉田茂元首相の別荘と、その別荘に続くワンマン道路があるという事だった。どうも言う事が古いな~。これでは最近の若い人には通じないだろう。
「吉田茂とは昭和21年から29年まで5次の内閣の首相を務め、総理在職通算日数 2,616日の記録を持っている。別名ワンマン宰相とも言われ葉巻を手にした、如何にも頑固爺といった感じの写真が有名。
また、大磯に邸宅を構えていた当時の首相吉田茂が東京に向かう際に、国道1号の渋滞に業を煮やし、建設を指示したという逸話がある「ワンマン道路」もある」

そういえば先ほどから道路標識に「吉田邸」の案内が出てきた。しかし立ち寄る気は無い。

  
  伊藤公滄浪閣之舊蹟の碑                       滄浪閣

 砲弾で橋の標識を囲んだような珍しい橋が見える。不動川に架かる本郷橋で神奈川橋100選にもなっているようだ。だが何故砲弾なのかは分からなかった。

 江戸から17里目の「国府本郷の一里塚」に到着。16里目の化粧坂の一里塚からGPSで4.9kmの距離だった。歩数は6000歩で距離に換算すると約4.2kmだから、ほぼ合っているといって良いだろう。エー待てよ、案内板には「実際の一里塚は、ここより江戸側200mの所にありました」とある。ならどんぴしゃりだ。
因みに歩行時間は1時間20分。こちらも街道歩きとしては妥当だろう。 

  
  不動川の本郷橋                           国府本郷の一里塚跡

浜石縦走に行ってきました

2012-04-09 10:41:19 | 低山歩き
 昨日(8日)
興津駅-サッタ峠-浜石岳-大丸山-大久保山-大平山-野田山-御殿山-新蒲原駅
を縦走してきました。
このコースは過去2回倒木のため、途中で中止をしていたので、昨日は満を持しての挑戦です。
浜石山頂の桜と富士山眺望。そして麓の御殿山の期待を込めて出発をしたのですが--------

  
  浜石山頂                              御殿山桜祭り

 浜石山頂から富士山は見えず、桜はまだ蕾の状態で一輪も咲いていませんでした。
この分で満開は10日後くらいか?

御殿山は桜祭りが開催されていて、花見客で賑わっていたが桜の方は
御殿山の桜って、この程度だったの?”といった感想です。

 おまけは御殿山の狼煙台へ行く途中にあった「観音穴」

      
        観音穴

 このような洞窟が4個ありました。
今年になって見た岡部入野古墳の横穴式石室や、袋井の菅ヶ谷横穴群と似ていましたが、案内板には「地元常楽寺の奥の院と考えられています」となっていました。

 ソー倒木の状態ですが、サッタ峠上の山道入口の標識には、相変わらず「倒木300本 立入禁止」の貼紙はありました。
けど実態は、倒木整理後に通れたのか、登山道には4本の倒木がありましたが、歩くには左程支障はありませんでした。


 また、5日の木曜日は残っていた青春18切符を使って鎌倉に行ってきました。
マー人の多い事、多い事。 有名寺院の周辺は、サッサと歩ける状態ではありませんでした。
次回鎌倉を歩くときは、もっと寒くて人の少ない時期を狙おうと思っています。

  
  鶴岡八幡宮                              鎌倉の大仏


東海道53次 平塚宿

2012-04-07 16:10:22 | ウォーキング
東海道53次13回目-2

辻堂一里塚~平塚宿本陣
辻堂一里塚-0:50-茅ヶ崎一里塚-0:30-橋脚跡-0:20-相模川-0:10-馬入一里塚-0:30-平塚本陣


 茅ヶ崎に入り最初に気が付いたのはマンホールの蓋の模様だった。これまでも行政地域が変わるたびに蓋の写真を撮ってきたのだが、これが結構楽しめる。先ほどまで歩いていた藤沢市は藤の花をデザインしたガラだったが、茅ヶ崎市は海岸の景色だった。和船が浮かび、その先に烏帽子のような形の島が見えカモメが飛んでいる。しかも時折色の付いた蓋もあり興味をそそられる。
茅ヶ崎の観光名所と考えたが何も思い浮かばず、茅ヶ崎は鎌倉・江の島に続いている湘南地方のイメージしかない。湘南で島と言えば江の島だが、蓋の図柄は島と言うより岩礁だろう。
家で地図で確認すると、ありました、ありました。茅ヶ崎沖合にその名も「烏帽子岩」が。ついでに茅ヶ崎の地名を確認すると「茅はカヤとも読み、カヤの生えているミサキ」から来ているようでした。

  
  藤沢市のマンホールの蓋                 茅ヶ崎市のマンホ-ルの蓋

 日本橋から14里目の「茅ヶ崎の一里塚」は茅ヶ崎駅前交差点の角あった。交通量の多いメイン通路の角にあったが、ここの一里塚は少々削られているが、現存する一里塚で、大きな碑も建っていた。その説明の中に「この一里塚は、かっては道の西側にありました」とあるが、西側の意味が理解できなかった。街道は東西にはしり、その両側にある一里塚なら南か北になるはずなのにと、方位磁石で確認したが分からなかった。もし一里塚が西側なら街道は、ここで大きく南にカーブして茅ヶ崎駅の方向に向かっていたことになるのだが、本当だろうか?

 橋を渡った所に石碑があり「南湖 左富士之碑」となっている。左富士なら吉原宿の左富士が有名だが、ここも同じように富士山が左側に見えるという事なのか? 案内板を読むと「安藤広重が描いた浮世絵に「南湖松原の左富士」があった」とある。きっと広重も茅ヶ崎では、他には描く風景も無く、仕方なく左富士を題材にしたのではないのだろうか。
へそ曲りの私は、左富士より南湖の方に興味を惹かれたのだが、地図で調べても湖は無かった。南湖とは何だろう。

  
  茅ヶ崎の一里塚                              南湖左富士の碑

 フー街中を歩いてきたので小便をする場所がなく我慢するのが少々大変になってきた。山道や田舎道なら木陰に入れば、どこでも済ますことができるが街中ではそうはいかない。公園の公衆便所があれば助かるのだが。
シメシメ橋の袂に公園がある。しかし何だろうプールの中から丸太がニョキニョキ突き出している。何かの芸術作品か? 
イエイエ違いました。これは鎌倉時代の馬入川の橋げただそうです。何枚もある説明板から抜粋すると
「関東大震災(大正12年)の液状化現象によって、水田から出現した鎌倉時代の橋脚跡。出現から80年経過した橋脚の一部に痛みが観察された事から、実物を正確に再現したレプリカを作成して位置、角度、長さ等を実物と同様に設置しました。実物はそのレプリカの真下に保護ピットに入れ保存しました」とある。
凄いものですね、江戸時代より遥か前の鎌倉時代に、こんな太い橋げたの橋を造ったなんて、しかも鎌倉幕府のお膝元の鎌倉の入口に架橋するなんて、徳川幕府では考えられない事です。で調べてみたら案の定、徳川幕府は馬入川には橋を架けず渡船による往来が行われていました。
こうしてみると徳川の深慮遠謀の策は延命につながり、鎌倉幕府の「いざ鎌倉」の緊急果敢政策は短命に終わった。事になりませんかね。さらに説明板には面白い事が書いてあった。
「鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」には、頼朝がこの橋の渡り初めをしたこと、帰途落馬し、その後まもなくして亡くなったことなどが記録されています」とあった。川の名前の馬入(ばにゅう)もこの故事に因んで付けられたもので、古くは「鮎川」と呼んでいたようだ。

 話は変わって便所ですが、興味深い公園は良かったのだが公衆便所は無かった。もう我慢できず電柱の陰で立小便をする非常識な人間になってしまいました。でも公園に人影はなく、電柱の陰に入れば人目には付きにくいとこでしたと弁解します。

 身を軽くし公園を出て川を渡るのだが、随分小さい川だ。しかも川の名前も小出川となっている。あの太い橋脚があった川とはとても思えない。何故なんだろう。川が狭くなったのか????
古代橋脚のある公園から20分も歩くと今度は大きな川に出た。川の名前は相模川、橋の名前は馬入橋だった。
馬入川に馬入橋、そして相模川の関係がゴチャゴチャして少し混乱してしまった。整理すると馬入川とは旧相模川のことで、その流れは今の流れより1.5kmほど東の、小出川(古代橋桁)付近を流れていたようだ。その後流れが変わり今の相模川の場所になり、橋の名前はそのまま馬入橋としている。
では江戸時代の川は何処を流れていたか? ウーンそれは今の流れと同じと思うが、正確な事は分からない。

  
   馬入川の古代橋脚                           相模川下流

 相模川を渡り平塚市に入ると、すぐに日本橋から15里目の「馬入の一里塚」があった。ここの一里塚も案内板もありすぐ見つける事が出来た。
 更に1号線を西に進んでいくと平塚駅があり、賑やかな通りが続く。こうなれば平塚宿も近いだろう。
 
  
  馬入の一里塚                             平塚駅

 平塚で知っている事は七夕祭くらいだが、その七夕祭をデザインしたマンホールの蓋が何種類もあった。今はどの町でも町おこしに力を入れているが、その初代のような平塚の七夕の収支は、どうなっているのだろうか、少し聞いてみたい気もする。

  
  七夕のマンホール
 
 平塚駅入口を過ぎたあたりに復元された見附の石垣がある。見附とは江戸時代宿場の入口に設けた見張り所といわれているが、どこの見附を見てもたいしたものは無い。低く短い石垣が置かれている程度で、設置当初は防御の役に立ったのかもしれないが、途中からは見張り人の立っている場所程度の役目しか果たさなかたったのではないか。
ここの見附跡には詳しい説明があって初めて知ったこともある。それは「宿と宿の間の距離は、この見附を基準にした」事で、私は今まで本陣と本陣間を測っていたが、それは間違いだったのだ。しかし見附から測るとなると、その見附の位置を表示している宿場は少ないので困った事になってしまいそうだ。
 遠州に見付宿があったが、そこのミツケは「富士山を見付けたから来ているので、見附でなく見付と書くいう説もある。だが広重の浮世絵では見附宿となっている。どっちが正しいやら-----

 平塚宿本陣跡に12時55分に到着。道路側には「平塚宿本陣旧跡」の杭が、銀行の前には本陣の謂れを書いた石碑が建っていた。

  
  平塚宿江戸見附跡                             平塚宿本陣跡

東海道53次 藤沢宿

2012-04-06 11:58:22 | ウォーキング
東海道53次13回目-1

場   所:神奈川県藤沢市・辻堂市・茅ヶ崎市・平塚市.大磯町.二宮町・小田原市
歩行月日:2012/03/19
歩行データ: コースタイム
 藤沢駅-0:15-藤沢宿-3:00-平塚宿-0:40-大磯宿-3:30-小田原宿-0:20-小田原駅駅

 歩行時間:7時間45分 休憩時間:1時間45分 延時間:9時間30分
 出発時間:8時40分  到着時間:18時10分
 歩数:52,440歩 歩幅推測:0,77m 距離推測:40.0km (GPS距離 43.4km)

藤沢駅~辻堂一里塚
藤沢駅-0:10-遊行寺-0:05-藤沢本陣-0:10-義経首塚-0:45-辻堂一里塚


 電車の時刻を調べるのにいつもはヤフーの路線を使っていたが、次回の東京に行くとき利用する臨時列車ムーライト長良をヤフーで調べてみた。しかし色々条件を変えてもヒットせず、JRのHPの時刻表でやったら一発で出てきた。不安になって今回の藤沢までの時刻を調べ直してみると、やはりヤフーより1本早い電車がヒットした。
一つのソフトに拘らず複数で確認する必要がつくづく分かった。次回からは2ヶ所で確認をしよう。

そしてヤフーより1本早い電車に乗り藤沢駅に8時30分に到着。
今日の行程には随分迷った。何せ残されているのは日本橋から小田原までで、宿場間距離で81.4ある。一見40kmを2回歩けば良さそうに見るが、出発時間のの遅い街道歩きの40km以上となると中々きつくなる。名所も見物せずひたすら歩くだけなら良いが、それでは街道歩きの意味が無い。では3回にすると今度は歩く距離が物足りなくなる。
悩んだ結果今回は藤沢・小田原間の32.3km、最終回は日本橋・藤沢間の49.1kmにした。

 藤沢駅から最初に目指したのは日本橋から12里目にある遊行寺坂の一里塚だった。今回少しでも余計に見ておけば次回が楽になると、遊行寺の前にある坂を上りだしたが止めた。この坂を上って行っても一里塚の標識がある保証はない。今までも地図上には掲載されている一里塚を何回も見つけれない事があった。今回若し見つからなかったら、それこそ無駄足になってしまう。結局坂の入口にある「遊行寺」に入ることにした。

  
  遊行寺山門                          遊行寺本堂

 遊行寺の正式名称は「藤沢山無量光院清浄光寺」という時宗の総本山だった。時宗と言えば確か鎌倉時代に栄えた踊念仏の一派だったはずだ。そう開祖は一遍上人で踊りながら念仏を唱え、お札を配ったといわれている。確か教科書で習ったような気がするが?
それとも江戸時代伊勢神宮のお蔭参りの「ええじゃないか」と踊り狂った話と混同しているのかな。

 遊行寺の境内は中々見るものが多く「敵御方(てきみかた)供養塔」「小栗判官の墓」等があった。敵御方供養塔とは、室町時代の足利鎌倉公方と上杉関東管領の戦の戦死者を敵味方の別なく供養した塚が国の名勝に指定されている。石碑を見てもどうと言う物でもない。こんな石碑が国の指定史跡になるのは、日本人に博愛精神が薄く、そのような行動をとった例が少なかったからなのだろうか。

 小栗判官の墓は遊行寺の中の長生院にあるらしいのだが、長生院はあったが墓は見つけられなかった。代わりに愛人の照子姫の墓を見つけたからマー良しとしよう。次回の日本橋から歩いたときに時間があったら探してみよう。
小栗判官とは
「常陸の小栗城主であった小栗判官は、小栗城が落城し相模へと逃げて来た際に土地の豪族の家に泊まった。その家の娘と良い仲になったため、娘の親が激怒して小栗を半死半生にして上野原に打ち捨てた。そこに通りかかった遊行寺の僧が、寺に連れ帰り看病したが小栗はらい病になってしまった。この病気は熊野詣をして湯の峰温泉のつぼ湯で湯垢離をすれば完治すると聞いた判官は、いざり車で遍路を重ねる。
一方照子姫は小栗の後を追って家を出たが小栗と出会えなかった。
湯の峰に着いた小栗は、つぼ湯で湯治をした結果病は完治し、新たに常陸の領地を与えられ、判官の地位を授けられる。常陸に戻った小栗は相模の豪族を討ち、美濃で下女として働いていた照手姫を見つけ出す。こうして2人はようやく夫婦になることができた」
そうです。

  
  敵御方供養塔                            照子姫の墓

 十何年か前に湯の峰温泉でつぼ湯に入ってきた。名前の通りの壺のように丸い小さな岩風呂だったことを思い出す。この温泉に入ると小栗判官のように美男子になるかと、せっせと顔を洗ったが何故か私には効き目が無かった。元が悪ければ綺麗になりようがないのだろう。
そのときこの小栗判官と照子姫の話を聞いたのだが、すっかり忘れていたのに、ここで「小栗判官と照子姫」の名前を見て突然記憶が蘇ってきた。人の記憶とは不思議なもので、普段は忘れていてもチョットしたきっかけで、記憶の引き出しを開けると、次から次へと湧いてくる。

 遊行寺の境内には他にも、樹齢が三百~七百年いわれ幹回りが6.83mある大イチョウの木や、六地蔵など見所が多かった。だが少々時間をかけすぎてしまった、先を急ごう。

  
  大イチョウ                              六地蔵

 遊行寺の鏑木門から遊行寺橋を渡り東海道にでる。そろそろ藤沢の本陣跡の標識があるはずが見当たらない。東海道の説明には「郵便局を過ぎたラーメン店の近く」とあるが、ラーメン屋はあったが標識は見当たらなかった。仕方ないこのラーメン屋を本陣跡としてデータを取ろう。後で調べてみると私の立っていたの京に向かって左側だったが、本陣は右側だったようだ。

 次は白旗交差点の近くにある「義経の首洗井戸」に寄って行こう。でも案内板はあるのかな?
案の定井戸への標識は見当たらず、またもやウロウロしてしまった。だが交番の横の路地の先に公園のような物が見えるので入って行くと。ピンポンあたりです、そこに義経の首洗井戸と首塚があった。しかし何故義経の首塚が藤沢にあるのだろう。案内板によると
「吾妻鏡によると、奥州でなくなり鎌倉に送られた義経の首は、首実検ののち片瀬の浜に捨てられた。それが潮に乗って境川を遡り、この辺りに漂着したのを里人がすくいあげ、洗い清めた井戸と伝えられている」
吾妻鏡などがで出てきて説得力のある説明だ。さらにこの近くには「白旗神社」もあるというから疑り深い私でも信じたくなる。

 首洗い井戸は、石材で井桁に組まれた立派な井戸枠だったが本物にしては新しすぎか。また首塚は義経のものにしては少々貧弱な感じだった。案内板を信じたい気持ちと、実物を見て疑う気持ちとが交差してしまった。
その公園を出て西の方から振り返ると、首洗い井戸の標識が建っていた。これでは電柱の陰で江戸へ向かう旅人は分かるが、西に向かう人は気づかず通り過ぎてしまうだろう。
次の白旗交差点には白旗神社への標識があったが、すでに首洗い井戸も首塚も見たのでパスしよう。

  
  義経の首洗い井戸                           義経の首塚

 藤沢宿には古い双体の道祖神に白粉を塗った「おしゃれ地蔵」がある。これは近江の草津宿でも紹介したが、ここには藤沢市教育委員会で建てた立派な案内板が建っている。それによると
「女性の願い事なら、何でもかなえてくださり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼回りをする。今でも、お顔から白粉が耐える事がない」とあった。さらに教育委員会らしく
「形態は地蔵でなく、道祖神が妥当であるが、土地に言い伝えを大事にしていきたい」と言いわけしていた。

       
         おしゃれ地蔵

 街道が国道1号と合流した交差点に「大山道標」があった。大山とは丹沢山の東側にある山で、山頂に阿夫利(あふり)神社がある事で知られている。
高校時代丹沢山塊には何度か入ったが、大山には登った事は無い。あの当時は大山は宗教の山で低山と馬鹿にしていて登る気も起きなかったのだ。それが今なら丹沢より大山の方に惹かれるようになってきた。宗教心の芽生えか、それとも体力の衰えか。いやいやただ単なる好奇心の変化だろう。

大山道標の上に不動明王の座像が載っている。更に道標の先にある鳥居の額束には天狗の顔が彫られている。不動明王に天狗とは妙な取り合わせだ。不動明王は仏教で、天狗なら猿田彦の命で神道だろう? ならきっと神仏混淆時代の名残で廃仏毀釈から難を逃れた名残なのか。
調べてみると阿夫利神社の別当寺(神社に附属して建てられた仏教寺院)の大山寺のご本尊が不動明王だった。そして天狗は猿田彦の命ではなく、阿夫利神社の摂社の守り神で、全国八大天狗に数えられた「大山伯耆坊」という天狗だった。

 ただここで腑に落ちないのは案内板に「堂外の道標が初代のもので、万治4年に建てられたものです」と書いてあった事だ。堂外には新しい石に彫られた道標しかなかったのに。 

   
  大山道標                             不動明王       鳥居の天狗

 松並木がチラホラ現れだした所で、今日最初に出合った一里塚は、日本橋から13里目の「辻堂の一里塚」だった。たった1本の杭の標識だが、そんな標識でもあった方が断然嬉しい。歩く張合いも生まれてくるというものだ。江戸時代の旅人も、この一里塚を目標と慰めにして歩いた事だろう。

 稲荷神社の境内に古い石仏と案内板があった。覗いてみると「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られていた。道路脇の石仏で三猿を見るのは初めてだが、これは庚申塚だと案内板があった。それには
「寛永十年の庚申供養塔は総高105cmの蓮辨型で、造り出しの基礎部の上に別に台座を作り、その上部ヶ所の正面向きに三猿像を載せる手法をとっている」とあるが、何故三猿なのかの説明は無い。調べてみたら私に知識不足で、ネットのフリ-百科事典ウィキペディアには
「庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫るものが多い」とあり、参考写真には藤沢市の庚申塔が載っていた。因みの、ここ稲荷神社の庚申塔は藤沢市の重要文化財に指定されていた。
 
  
 庚申塔                                藤沢・茅ヶ崎の市境

 庚申塔を過ぎ本格的な松並木が始まるところで茅ヶ崎市に入った。   

東海道53次 三条大橋

2012-04-03 16:11:07 | ウォーキング
東海道53次14回目―4

 追分-1:10-刑場跡-0:30-三条大橋-0:40-京都駅

 京都市に入り最初に目を引いたのは六角形の地蔵堂だった。説明によると京から各地に通じる街道の出入口を守るといわれる「京の六地蔵」の一つで、ここの地蔵は「山科地蔵」とよばれている。
因みに六地蔵のある街道は奈良街道―伏見地蔵  大阪街道-鳥羽地蔵  山陰街道-桂地蔵
周山街道-常盤地蔵  鞍馬口街道=鞍馬口地蔵  東海道-山科地蔵 の六街道にあるという。

 山科駅入口の標識があった。山科といえば赤穂浪士の大石内蔵助が討ち入り前に隠棲した土地で、妻や子と別れた「山科の別れ」もあった所だ。それにここで内蔵助は郭に通って放蕩生活を送っていたのだから郭のある京の繁華街も近いだろう。 

この辺りは道標や石碑が幾つもありいちいち見てはいられないが、一際目立つ道標が見えてきた。「史跡 五条別れ道標」となっているが何が別れなのだろう。道標は正面に「左ハ五条橋 ひがしにし 六条大佛 今ぐま きよ水道」、側面に「右ハ三条通」と刻まれていた。
何か判じ物のような道標で「ひがしにし」は東本願寺・西本願寺、「六条大佛」は東山の方広寺にあった大仏で、「今ぐま」は今熊野観音、「きよ水」は清水寺を指すそうです。ようは。「史跡 五条別れ道標」とは五条橋への道と別れるという事なのだ。
昔も今も道路案内は分かり難いものが多い。建てる人の主観で書くからなのだろうが、それでも昔の道標は変化があって楽しく感じられる。
遊郭が近くにあって道標には三条とあるのだから三条大橋は近いはずだ。頑張ろう。

    
   山科地蔵堂                           五条の別れ道標

 道は太い三条通りに出た。地図ではここを右折して東海道線のガードを潜り、日石のGSの所を左折するとなっている。だがGSが無い。心配になり歩いている人にGSの場所を確認したが、この先にはないと言う。
大体旧東海道を西に向かって来たのに、太い新しい道にでたら北に向かうなんて変だ。慌てて引返し旧東海道を直進した。しかし不安は収まらない。タイミングよく玄関先を掃除している女性がいたので聞いてみた。
「済みません。日ノ岡や亀水へ行くにはこの道ですか?」と地図を見ながら聞く。すると女性も地図を覗き込みながら
「アー亀水さんなら、そこの突き当りを右に曲がって行くのだけど、またすぐ曲がらなければならないので、近くに行ったら聞いてみて」と教えてくれた。ラッキー!この道で良かったのだ。
突き当りを右折すると線路のガードになった。これは三条通りにあった東海道線なのだろ。そしてしばらく進んで四つ角でまた聞いてみた。
「済みません亀水やごりょう駅は、どのように行けば良いのでしょう」
「ごりょう? アーみささぎ(御陵)駅ね。東海道を歩いているなら、この道が東海道だから、この道を真っ直ぐで行けば亀水や日ノ岡にいけるよ」
「この道が東海道って、この道がですか」
と今歩いてきた道を指すと
「違う、違う、そっちの道じゃなくて、こっちの道だ」と歩いてきた道がぶつかる道を指した。
なるほど旧東海道は地図が示していたように、太い三条通りを右折した先にあったのだ。でも大きな間違えでなくて良かった。
後で家に帰り地図を見てすごくがっかりしてしまった。あの太い三条通りを歩いていたら「天智天皇山科御陵」があったのだ。
天智天皇とは中大兄皇子の事で、中臣鎌足らと蘇我氏を滅ぼし大化の改新を行なった人物出もあるし、日本で最初に水時計を作った事でも知れている。覗いて見たかったな。

 住宅地を過ぎると道がだんだん上り坂になってきた。逢坂の関を越せば登りは無いと思っていたが、とんでもない思い違いだった。疲れが出始めた足にはつらい坂道だった。この坂は日ノ岡峠と言って東海道で最後の峠らしいから頑張って歩こう。
峠の途中に「亀の水不動尊」の提灯をブル下げた所があった。中に入りたいがロープを張ってあり立入りできないようになっている。なんとせこいんだ、ここは江戸時代から旅人の喉を潤してきた井戸があるのに今では立入もできないとは情けない。

 さらに峠を登って行くと大乗寺の階段があり、そこの案内板には「大乗寺は酔芙蓉の寺と言われ1500本の酔芙蓉が群生している」とあった。酔芙蓉は、朝のうちは純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけては紅色になる事から、酒を飲んで顔色がだんだんと赤くなるのに似ている事から名がついた花だという。花は秋なので今は咲いていないので階段は登る気はないが、群生している酔芙蓉を見てみたい。
実はこの花の名前は高橋修の「風の盆恋歌」で知ってから見てみたいと思うようになったのだが、アルコール依存症気味で粗野な私には似合わない小説ですよね。でも何故かロマンチックな恋愛小説も好きでよく読んでしまう。自分にはありえない世界を知りたい好奇心からなのか。
それにしても酔芙蓉は名前も咲き方も風情があると思う。
くだらない事を言っていると最終電車に間にあわなくなってしまう先を急ごう。

   
  亀の水不動尊                            大乗寺の階段

 道が下り坂になると、また三条通りに合流した。五条の別れや三条通りなど、如何にも三条大橋が近く思わせる名前なのに中々着かない。大石内蔵助はこんな道を通って遊郭通いをしたのだろうか。昔の人は足が丈夫だったのだと改めて感心してしまう。
道の左側に荷車が2台見える。何だろうと近づいて見ると米俵を積んだ荷車が石畳の上に置いてある。その石畳は荷車の轍の部分がへこんでいて、まるでレールの上、いや溝の中を通るようになっている。

  
  車石の上の荷車                              車石の上の荷車

荷車の周りには説明する物が無く残念だが、でも大丈夫、逢坂の関からここまで来る途中に何カ所かに説明があったので、この敷石が「車石」という事はしっていた。それを紹介すると
「車石 大津-京都間を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資が運ばれてたが、この逢坂の峠道はとくに運送の難所だった。そこで文化2年(1806)に大津から京都三条にかけて約三里(12km)の間を、荷車往来用に花崗岩に轍を刻んだ敷石を並べて通行に役立てました。この附近は車道と人道に分かれていて、京に向って右側に車石を敷き、左側は人や馬の通る道であったと伝えられている」
そうですあの敷石(車石)の溝は轍の後ではなく、人為的に溝を掘って荷車を走りやすくしたものだった。
そこでへそ曲りの私はすぐ疑問を感じる。では擦違う時はどうしたのか、それに追い越しは出来なかったのか? 複線でもなかったようだし部分的な追越し車線の事も書いてない。
ならきっと京行きの一方通行で追越禁止だったのだとおもう。何故京行かと言うと京は都で一大消費地。物資は出るよりはるかに入る方が多かったと想像できる。
それともう一つの疑問は荷車の形状だ。ここに置かれている荷車は長方形で牛馬が入る枠が無い。それと車輪の位置が随分片側に寄っているが、これが本来の形だったのだろうか。53次の大津宿の浮世絵は牛の荷車が描かれているが、これを見る限りでは取っ手もあるし車輪も荷車の中央にある。

  
  追分閑栖寺の車石                             広重の大津走井茶屋

 この車石を見てすぐ思い出したことがある。それは駿河の岡部宿でこの車石と同じような敷石を見た事だ。そこの敷石は溝を掘ったのではなく自然に出来た轍の後が少しへこんだ状態だった。そこの説明盤には
「三輪街道は江戸時代から三輪石、みかん、茶などを運搬しやすくするため道一面に三輪石を敷き詰めた」とある。その距離は15kmと書いてあるが、これはきっと三輪街道の総距離だと思われるので敷石布設の距離は明確ではない。
ただ逢坂の車石と岡部の敷石は布設方向が違っていて、岡部では石の長い方向を道と平行に布設してある事だ。こうすれば石と石のつなぎ箇所が少なくなり荷車も走りやすかっただろう。では逢坂では何故そうしなかったのか? 掘り出す石の幅が狭かったのだろうか。
折角展示してくれたのに文句ばかりでごめんなさい。それだけ興味を持ったという事です。

    
  岡部宿三輪街道の敷石              敷石拡大

 一旦下りになった道は三条通りになってまた登りだした。道左手の高台に石碑が見える。そこが「粟田口刑場跡」だそうだ。石碑には「南無阿弥陀仏」と掘られていた。
次に見えてきたのは左に蹴上浄水場で、ここは琵琶湖の水をトンネルを掘って引き込んでいるのだという。また左には地下鉄蹴上駅も見え、そこにあるガードを潜って行けば南禅寺に行けるようだが今日はパスするしかない。
蹴上交差点を横断すると道の下に赤レンガの建物が見えた。この建物は琵琶湖の水を利用した発電所で今は使われていないようだ。
ところで私は琵琶湖疏水と言うと銀閣寺の近くの哲学の道を流れている小川を想像してしまう。それがこんな大きな発電所を動かす水量があったとは驚きだ。それに疏水は江戸時代からあったと思っていたら、これも明治になってから作ったものだった。

  
  粟田口刑場跡                              旧蹴上発電所
  
 蹴上交差点を過ぎ坂を下りきると、いよいよ街の中に入ったようだ。オッと前方に橋の欄干らしきものも見えてきた。あれが三条大橋だろう。その手前には銅像も見えてきた。何だあの銅像は---侍が土下座をしているが何だろう。
「高山彦九郎 皇居望拝之像」となっている。説明の概略は「高山彦九郎は群馬県出身で、前後5回上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像のように京都御所に向かって拝礼をした」とあった。
この短い文章の幾つかに引っかかった。京都御所なら「皇居望拝」ではなく「御所望拝」だろうし、群馬県ではなく「上野国」ではないか。何か腹が立ってきた。戦時中に皇居に向かって敬礼をする「宮城遥拝」を国民に強制したのも、この高山何某が発端だったのか。
それにこんな場所に、天皇の住む場所に向かって土下座をしている銅像を設置してあるのを、外国人は何と思うだろうか、聞いてみたい気がする。
だがこの銅像も思わぬ苦難にも遭遇している。戦争も敗戦色が濃くなってきた昭和19年に金属回収令で供出されてしまった。天皇を美化する代表的な銅像も戦況悪化には敵わなかったのだ。そのまま再建されなければよかったのに昭和36年に再建されてしまった。

      
          皇居望拝之像

 京五条大橋は大井川や安倍川を見慣れている私には思っていたより短い橋だった。だが橋の欄干や、その下に取り付けられている板塀等が和風な感じを醸し出していていい雰囲気だ。それに擬宝珠が付いているのもいい感じだ。

この橋を渡った歴史上の人物は、と思ったが止めた。何故なら殆どの歴史上の人が、この橋を渡ったのだろうから。
以前岡部宿の宇津ノ谷峠を歩いているとき、この峠を豊臣秀吉や徳川家康も通ったと想像し興奮したが、ここではそんな事は当たり前のことだったのだ。
橋の途中から鴨川を覗き込むと水の流れている所が広く、河川敷は左右の遊歩道しかない。昔はこの河原が刑場で罪人を処刑したり晒し首にしたそうだが、それにしては狭い感じだ。これでは見物人など集まれそうもない。
アッそうか。昔はこんな立派な堤防などなく、ダラダラと河川敷が広がっていたのだろう。それなら理解できる。
そうそう三河赤坂宿の先の本宿間宿に近藤勇の首塚もあったが、その近藤勇もここ三条河原で晒し首になったという。その首を同志が盗み出して本宿の法蔵寺に埋葬したという。長く歩いていると色々な話が結びついてくるので楽しい。

  
  三条大橋                            三条大橋から鴨川

 橋を渡り切ると橋の袂に弥次さん喜多さんの像が建っていた。私の読んだ「東海道中膝栗毛」は江戸から伊勢までの道中記で京は無かったが、評判がよく続編で京・大坂が追加されたようだ。その弥次さん喜多さんが皇居望拝之像を見たらどんな表現をするのだろうか興味が湧く。それには弥次さん喜多さんを幕末まで移動させなければならないが。
ところで弥次さんの喜多さんの生みの親は十返舎一九ですが、彼の生まれ故郷は駿河の駿府。それでは駿府は日本橋から何番目の宿場だったのでしょう?
駿府宿でも話題にしましたが、十返舎一九のペンネームの一九は故郷の駿府が東海道19番目の宿場だったことから付けたそうです。だから正解は駿府は19番目の宿場町です。
1番目の新橋と53番目の大津は覚えられるが、途中の宿の順番はとても覚えきれない。それがこんなきっかけがあれば忘れる事が無い。他の宿場にもこんな覚えやすい方法が無いのだろうか。

 橋の袂には「三条大橋 擬宝珠刀傷跡」の説明に、寺田屋騒動のとき付いた刃傷があるとあったので戻って見てきた。写真を写していると「何を写しているのだ」と怪訝なかおの通行人に少々恥ずかしかった。

  
  弥次さん喜多さんの像                     擬宝珠の刀傷跡

 三条大橋を5時30分に出た。予定では京都駅には30分も歩けば着きそうなので最終電車には余裕を持って間にあう。いやその前の電車にも間に合いそうだ。それなら太い道だけでなく露地も歩いてみようと思い入ったのが「先斗町通」。露地に入ると先斗町歌舞練場があり鴨川踊りの舞妓さんのポスターもある。ラッキー若しかして舞妓さんを見る事が出来るかもしれないと喜んでしまった。
それにしても狭い通りだ。これでは舞妓さん二人が並んで歩けないではないか。現に私が人を追抜くにも、擦違うにも面倒で時間がかかる。これでは時間が掛かり過ぎだと、四条大橋の所で太い通りに移動してしまった。

 四条大橋の先を見ると大正時代の和風な建物が見えた。後で調べると歌舞伎興行の南座だった。
お上りさん宜しくキョロキョロしながら歩いて京都駅に6時10分に到着。早速キオスクで氷結を購入し一人乾杯をする。こんな人ごみの中で良く酒を飲めるものだと我ながらアホたれてしまうが、回数を重ねてきたせいか最近はとみに図々しくなってきてしまった。気を付けなければと思いつつ一人乾杯を止める事が出来ない私です。

兎も角、目的地の三条大橋に着いたが、心の中は「めでたさも 中ぐらいなり 今日の京」で特に感激はしなかった。

    
  先斗町通り                           京都駅前の京都タワー                                 
  

藤枝七福神

2012-04-02 18:11:44 | 寺社遍路
 藤枝市にある七福神巡りをしてきました。
七寺の内、四寺は市内の蓮華寺池の周りで、あとの三寺が郊外にあるので措定距離は30km程度と思ったが、実際の歩行距離はそれより若干多い35kmだった。
コースはまた紹介しようと思っているが、まだ東海道も十字縦走の紹介も済んでないのでどうなることやら--------

 今日のコースで猩猩袴(しょうじょうばかま)が咲いていた。
猩猩袴とは、この時期に山野のやや湿ったところに咲き、管のような花びらを付けたピンク色の可憐な花です。
名前の由来は花を猩々(しょうじょう;想像上の猿の一種)の赤い顔,葉の重なりを袴にみたてたものということです。
咲いていた場所は清水寺から助宗に行く下り坂の土手に咲いていました。
この辺りでは珍しい花で、島田市大草の慶寿寺に咲くと新聞で紹介されたりします。

志太地方にお住みの方、ぜひ見に行ってみてください。でも見るだけですよ。


  

東海道53次 追分

2012-04-01 08:54:27 | 低山歩き
東海道53次14回目―3

大津宿~追分
 大津宿-0:25-逢坂山関址-0:25-追分


 東海道最後の宿場の大津宿を1時間10分遅れの慌ただしい出発になった。
これも前回乾杯をしたい一心でゴールを草津駅にしたからだ。あれを南草津まで頑張ればこんな事は無かっただろう。いや違う、今日の予定距離はそれほど多くない。いつもの速度なら余裕をもって到達できるはずだ。やはり一昨日43km歩いた疲れが残っていたのだろう。もう年なのだから自重しなければ。
とは言っても建部神社からは必死に歩いてきた。この先には逢坂越えが控えているので、これ以上速度を上げるには無理だ。あとは見物する時間を減して最終電車に間に合わすしかないか。

 道は1号線と合流する。右の線路の先に蝉丸神社の鳥居がが見えていた。この神社には国の重文の石灯籠があるらしいが、今日は諦めて入口の鳥居を写して通過。
そして説明書に「国1は左側にしか歩道が無いので、押しボタンで左に渡る」と書いてあったので、その通り国道を渡って下り線の歩道に入った。逢坂の坂を上って行くと右にまた蝉丸神社や弘法大師堂が見えてきた。ヨシあれは省略と、そのまま左側を進む。暫くして手持ちの地図を見ると「早めに右側に移る」と書いてある。エー何で。こんな交通量も多く速度が出ている所を横断するなんて---- 腹を立てながら先ほどの説明書を読み返してみると。左の歩道に移った後「蝉丸神社上社の押しボタン信号で右に渡る」とチャンと書いてあった。アーア泣きっ面に蜂だ。更に地図の先を見ると右側には逢坂の関所跡があり、その先は右手の小道に入って行くようになっている。それじゃ仕方ない無理してでも渡らなければ、と車の隙間を見て強引に渡った。
いばらくして「逢坂山関址」があった。強引に渡って良かった、と思うも束の間その先に何と手押しの信号があった。これこそ本当に泣きっ面に蜂だ。

 「逢坂山関址」の説明には「逢坂の関は、京を守る三関(鈴鹿、不破、逢坂)の一つだった。場所はいまだに明らかなっていません」とあった。それはそれで良いのだが、これが逢坂?もう坂は終わりなの?と疑問が湧いてきた。私のイメージでは逢坂=大坂で難所と言わないまでも結構な登りが続くと思っていた。それがこんな程度で終わるとは嬉しいような詰まらない様な変な感じだ。
しかし先を急ぐ身としては喜ばしい事だ。ここが山城・近江の国境なら、滋賀と京都との県境でもある。三条大橋はもう少しだ。

  
  蝉丸神社下社                            逢坂山関址

 右の旧東海道の道に入ると左に鰻屋があった。この店は江戸時代の峠の茶屋が続いているのだとか、たいしたものだ。しかしこんな山の中に鰻がいる淵があるのだろうか?きっと茶店だけではやって行けずに鰻屋に転業して、琵琶湖から鰻を持ってくるのだろう。
鰻屋の前には三軒目の蝉丸神社があった。下社、上社、分社とあって、ここの神社は分社になるようだ。蝉丸とは天皇の皇子だったが目が見えなくなり、逢坂山に籠って和歌を詠み、琵琶を奏でる暮らしをしていたという。そのため蝉丸神社は音曲の神になって、今でも芸能関係の人のお参りが絶えないとか。それにしてもどうして3軒もの神社が近くにできたのだろう。

 今日はここまで休憩らしい休憩は弁天池でとっただけだ。それも10分程度だけだったので少し疲れてきた。それに腹も空いてきたので少し休もう、と寺の階段の上で休憩。時間も気になるが少し食べないとガス欠を起こしてしまう。
休憩しながら石塀の中を覗き込むと、小さいながらも茅葺の庵が見えている。さらに横の方には急斜面を利用した庭園も見えた。だがその入り口は閉ざされていて人の気配はない。地図で確認すると「月心寺」となっていたが、どうやら無住のようだ。こんな寺が京都以外に建っていたなら、きっと名所になっていただろうに残念な気がする。
さて腹ごしらえもできたので出発だ。今3時20分、最終電車は7時なので3時間以上ある。きっと大丈夫だろう。

 この月心寺の付近に日本橋から118里目の一里塚があったが、今は現存していないらしい。その代りなのかこんな道標があった。

      
   月心寺                                 月心寺前の道標

 高速道路のガードを潜ると「追分町」の表示が出てきた。きっとここは奈良と京都の追分なのだろう。最早京都は近い。
ほどなくして道は左右に分かれる追分になった。ウンこれでこそ追分だ。やはり追分ならYの字になっていなければ、T字では追分の気分が出ない。
道の中央に建っている道標には「みきハ京ミち」「ひだりハふしミみち」となっている。伏見?って京都じゃないのか、京都市伏見は聞いた事がある。ではこの追分は奈良への分かれ道ではなかったのか。だまされた気分だ。
道標には更に分からない文字が刻んである。「柳緑花紅」て何の事だろう。「柳はみどり、花はくれない」都都逸か何かだろうか?

 家に帰り調べてみた。まず「ひだりハふしミみち」は、この道を地図で辿って行くと間違いなく京都市伏見へと続いていた。そしてそこから大阪と奈良への道が分かれている。だからここは京と奈良の追分でもあり、京と浪速との追分でもあったのだ。そのため奈良・浪速の分岐点の伏見を取って「伏見道」としたのだろう。納得!

 ついで「柳緑花紅」。読みは「柳はみどり、花はくれない」で良かったのだが、意味は難しいのでそのまま引用します。「物事が自然のままに、人の手を加えられていないことの例えで、柳は緑色をなすように、花は紅色に咲くように、この世のものは種々様々に異なっており、それぞれに自然の理が備わっている、という意味です。全てのものを客観的に捉え、ありのままを受け入れようという事です」ウーン、でも何故その言葉がこの追分に書いてあるのだろう?アルコール依存症気味で、しかも「ある(歩)中」の私の頭では理解できない。誰か教えてください。
それにしても宿題の多い道標だった。

 
    
  山科追分の道標             「みきハ京ミち」 「ひだりハふしミみち」 「柳緑花紅」

 国道1号線を渡る歩道橋の上から西を見ると、アレーなんだ滋賀と京都の県境の看板がある。逢坂の関で京都に入ったと思ったのだが、まだ滋賀県だったのだ。普通なら峠が国境になるのに何故だろう。
静岡県(駿河)と山梨県(甲斐)の県境の籠坂峠は、峠よりだいぶ静岡県側に下がった所に県境がある。これは昔甲斐の武田の勢力が強く、その分駿河側に侵略したのだと聞いた事がある。ではここも近江の勢力が強く山城に侵略したのだろうか? まさかな~

 右側に三井寺への観音道の道標がある。ここには逢坂越えに対して裏道の小関越えの合流点でもある。次回中山道を歩く事があったら、今度はこの三井寺から小関越の道を歩いてみたい。
アレーまた滋賀京都の県境看板が出てきた。一体この辺りの県境はどうなっているのだ。訳が分からない。
(後日地図で確認すると月心寺の庵は滋賀、庭園は京都で、それ以西は東海道の南は京都、北は滋賀県だった。歩道橋で見た見た看板も、ここの看板も間違いは無かった(当りまえか))

  
  黄道1号線(県境表示が見える)                   三井寺観音道(小関越分岐)