連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

紫式部のメッセージ:駒尺喜美著

2016-01-18 10:30:15 | 血液専門医宇塚善郎
紫式部のメッセージ 駒尺喜美著 朝日選書 1991年発刊

 元の仙台血液疾患センターの院長室は、先生が生存時と大きな変化はありませんが、かっての応接室へと抜ける扉は閉ざされ、当時応接室にあった一般書が、扉の前に移動した本箱内に並べ、積んでいます。その中一冊をたまたまてにとったのが、《駒尺喜美著 紫式部のメッセージです》。
 2016年度のセンター試験の休養室待機を終日しているなかで、読み始めたらやめられませんでした。
 1991年は、開院間もなく、やらなければならないことが満載で、ゆっくり読む暇もなかったからか、宇塚先生から、この本の読後感を聞くことはありませんでした。聞きたかった!

 紫式部の百人一首に入っている
めぐりあいてみしやそれともわかぬまに雲がくれにしよはの月かな
  の歌を送った相手が、女友達だったとは!

紫式部は、男との間でより、女との間で多くの相聞歌を取り交わしている。女たちに深い愛をこめている人、そのメッセージを織り込んだのが、源氏物語という解釈。
 父や夫に従って地方に行ってしまった、生きて再開かなわなかった女友達との別離。
 多くの妻をめとっていた藤原宣孝との29歳ころの結婚は、急逝により2年ほどで終焉し、残した歌は 見し人のけぶりとなりし夕べより名そむつまじき塩釜の浦 などで、
紫式部がかかわった男性は一人のみであったようだが、夫を悼む純粋の哀傷歌は無いといいきれるほどの感情しかもっていなかったようだ。
 紫式部は、心を主に考えると同性愛者だという。この本にでてくる、その文面にうなずくのみ。同性愛を、性的関係を直ちにイメージするのも、男性優位社会の洗脳かとも思った。

宇治十帖を書かずにいられなかったのは
道長の誘いに応じない、式部に、お仕えしている中宮彰子の前で、
 “すき(好き、酸き)ものと 名にし立てれば 見る人の をらで過ぐるは あらじとぞ思う”という歌:
 注釈 あなたは浮気者という世間の評判だから、あなたをみかけて言い寄らぬ人はいないだろう。
 源氏物語が、恋の賛美としてのみ受け入れられたのでは、
「見るにも飽かず聞くにもあまる」女の状況を、「心に籠めがたくて」「後の世にも言い伝え」たいから、書いた源氏物語の意味が失われてしまう。からだとの解釈。

女ほど不自由で哀れな存在はない。
望まない、望まれてしまったための結婚。幸せな女の不幸
桐壺帝の寵愛を受けた、桐壺の更衣(四位)の不自由で、いじめから逃れることもできず、夫=帝の無理解で、衰弱しきってからの里下がりで、その夜に亡くなり、死後の女御(三位)の授与。桐壺の更衣の子が“光源氏”。
そして、今度は藤壺の宮との光源氏との密通。
紫の上は、光源氏のもてあそびとしてさらい、藤壺と葵上から満たされぬものを満たすための生贄人形として、自分の都合の良いように養育し、女主としての、六条院では、光源氏が関係のあった女たちを住まわせ、明石の君の娘を育てさせ、そのうえ夫、光源氏は女三宮と結婚し、などに耐えに耐え自我を殺して源氏の心に沿って生き続け、死去された。
柏木亡き後の妻、落ち葉の宮が柏木の友人夕霧から言い寄られたことを知った紫の上が“女ばかり、身をもてなす様もとこせう、あわれなるべきものはなし”=女ほど身の処しかたが窮屈で、痛ましいものがあろうか、きっぱりといっている。
男の視点のみで選ばれ、評価される世の中で、結婚しなければならない女の不幸から、結婚をしない“結婚幻想”を打ち破りたかったために、宇治十帖を書き加えた。という。

源氏物物語の主人公は≪女たち≫で、女を見つめる作者の視点は、主に娘たを見守る母の言葉として示されている、という。
源氏物語は、帚木の冒頭、夕顔の結語の部分で、“理想的に見える男も、女の知らぬところでひどいことをしているのだということを、分断されて家の中にかこいこまれて女たちに伝えよう”とした、紫式部の地の声をさりげなく、きっぱりと書き込んだ物語だと。
今でもつづく、男の強姦、和姦を正当化している男社会をリアルに書き込んでいる物語。

古文を書き写したので、興味があれば読んでください。
帚木の冒頭
“光る源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれたもう咎多かなるに、いとど、かかる好き事どもを末の世にも聞きつたへて、軽ろ美たる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへ事をさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。さるは、いといた世を憚り、まめだちたまひけるほど、なよびかにをかしきことはなく、交野の少将には、笑われたまひけむかし。”

夕顔の巻の結末
“かようのくだくだしきことは、あながちに隠ろへしのびたまひしにもいとほしくて、みなもらしし止めたるを、「など帝の皇子ならんからに、見ん人さ語ほならず物ほめがちなる」と、作り事めきてとりなす人ものしたまひければなん。あまりにもの言ひ性なき罪避り所なく。

古文では読みがたいので、現代語訳を再度読み直し、特に
谷崎純一郎訳VS
瀬戸内寂聴訳、田辺聖子訳、与謝野晶子訳を比べてみよう。

千年たった現在、男尊女卑の発言は、政治家の議会発言にかぎらず、強姦者の、喜ぶと思ったとかの発言、また肯定するような世の風潮など、枚挙にいとまがありません。
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