体験者でなければ、惨状は伝えられないか?
2012年8月6日は、1945年を起点とすると67年後の8月6日。
被爆者は、年月を経て高齢化し、”被爆体験者を語れる人がいなくなる”
というあせりの報道が最近は、かならずある。
被爆体験者による体験は、日々繰り返される惨状を超えた内容か?
一瞬にして、目の前で家族を失った。
家族の遺骨はみつからない。
家族を失った悲しみ。
交通事故で子を失った親。
今も日々起きている戦争で、
身体の各所を失い不自由な体での生活を強いられている人は増え続けている。
化学兵器の影響で、生まれながらにしての奇形を背負っての生。
この現実は、生存をつつけている被爆者と変わることはない。
戦争がなくても、死にまでおいつめる”いじめ”がはびこっている。
原爆が投下される必然性としてとらえている米国合衆国民の意識の追求報告を見聞することは、何故日本に原爆は投下されたか?を知り、回避するために必要だ。
原爆を持たなければ、無防備なら安全か?
”いじめ”は、理不尽なおぞましさが、ヒットラーの呼びかけに呼応した”ユダヤ人大量虐殺”と同じと思う。
生き延びてきた生物の一員としての人間。
集団で生きることを心地よいと感じる脳の仕組みを最大限発揮し、
殺戮の不快さを無視せず、行動できる脳の働きが活動開始出来る人を育てる
集団の一員としての倫理性。
惨状を伝承できるか?
伝承があっても忘却の徒であり、繰り返すだろうな。
歴史は、残酷、愚挙を行う人間を示し、
歴史は、喪失の悲しみを乗り越えて協力し合う人間を示している。
決定的な人を殺すという行動の前に、
振り上げた気持ちを納める、納められるのが人間で有ることを歴史は示している。
”揺れをあおらない”
今もそうだけれど、あおるメディアに踊らされない自分の確立が手始めでしょうか。
伝承は続けなければならない。世代を超えて。
原爆の死者数、
地上戦が継続した場合の死者数
戦争は何故起こされ、継続されたのか?
感情論にならず、理路整然として理不尽さを追求し続ける。