〈「白花露草」(平成28年8月24日撮影、下根子桜)〉
安易な「一九二七年」への変更
鈴木 さて、では露に関して「あやかし」でないと思われるものとしては何が例の「下敷」に書かれているか。それは、
彼女にはじめて逢った時の様子を『宮沢賢治と三人の女性』に森は高瀬露についていろいろと書いているが、直接の見聞に基いて書いたものは、この個所だけであるから参考までに引用しておく。
〈『七尾論叢11号』(七尾短期大学)77p〉と上田が同論文中で断り書きをして引用している、唯一「直接の見聞」に基づいたと考えられる次の記述、
一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。…(投稿者略)…
ふと向うから人のくる氣配だった。私がそれと氣づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。…(投稿者略)…半身にかまえたように斜にかまえたような恰好で通り過ぎた。私はしばらく振り返って見ていたが、彼女は振りかえらなかった。
〈同77p〉ふと向うから人のくる氣配だった。私がそれと氣づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。…(投稿者略)…半身にかまえたように斜にかまえたような恰好で通り過ぎた。私はしばらく振り返って見ていたが、彼女は振りかえらなかった。
だ(たしかに、『宮澤賢治と三人の女性』の74p以降にこのように書いてある)と、普通は思いたくなる。
荒木 なんだよ、その思わせぶりな言い方。
鈴木 それには理由があるんだが、済まん、その訳については暫し待ってくれ。
荒木 しょうがねえな。
吉田 もちろん承知のように、肝心の「直接の見聞」が大問題。「一九二八年の秋」であれば、賢治は豊沢町の実家で病臥していたのだから「下根子桜」にはもはや居らず、この引用文に書かれているような「下根子桜訪問」は森には不可能であり、「一九二八年の秋」という記述は致命的ミスであることが明らかだからだ。
荒木 ちなみに、「校本年譜」にはどう書かれてるんだっけ?
鈴木 『新校本年譜』はこの「下根子桜訪問」については、
「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。
〈『新校本年譜』、359p〉と註記して、これを「一九二七年の秋の日」と読み変えている。つまり同年譜は、「一九二八年」は森の単純なケアレスミスだったとして処理していることになる。
荒木 しかし、そんな処理の仕方は安易であり、論理的でもないことは俺でさえも直ぐ判る。そもそも、大前提となるそのような「下根子桜訪問」自体が「羅須地人協会時代」に確かにあったという保証は何ら示せていないからだ。
吉田 その一方で、可能性としては森の記憶違いということも考えられないこともない。というのは、「昭和六年七月七日の日記」が所収されている『宮澤賢治と三人の女性』は昭和24年の発行だから、森が「一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた」と記述するところのその訪問は約21年も前のことなので、「一九二八年……」の部分は単なる森の記憶違いということは確かに考えられる。
鈴木 それはもちろんだ。そこで私はその他の森の著作の中にこの件が書いていないだろかとあれこれ漁ってみた。
すると、まずは、昭和9年発行『宮澤賢治追悼』にも似た内容の森の「追憶記」が載っていて、そこにも
一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた。途中、林の中で、昂奮に眞赤に上氣し、ぎらぎらと光る目をした女性に會つた。家へつくと宮澤さんはしきりに窓をあけ放してゐるところだつた。
――今途中で會つたでせう、女臭くていかんですよ……
<『宮澤賢治追悼』(草野心平編輯、次郎社、昭和9年1月28日 発行)33pより>――今途中で會つたでせう、女臭くていかんですよ……
と記述されている。つまり、昭和9年頃でさえも森は「一九二八年の秋の日」と記していることがわかった。
吉田 ということは、森の記述どおり下根子桜を訪ねたのが昭和3年の秋にせよ、「現通説」である同2年の秋にせよ、それから約5年半~6年半後に出版された『宮澤賢治追悼』に所収されてこの「追憶記」は活字になっているわけだから、それはそれ程昔の出来事ではない。したがって、森がその年を本来ならば昭和2年と書くべきところを昭和3年と不用意に書き間違えたとは普通は考えにくい。まして昭和9年と言えば、森は岩手日報社の文芸記者として頻繁に賢治に関する記事を学芸欄に載せるなどして大活躍していた時期でもある。そのような記者が、賢治を下根子桜に訪ねた「年」を、その訪問時から6年前後の時を経ただけなのに間違えてしまったというケアレスなミスを犯してしまったというのだろうか。
荒木 常識的には、それはねえべ。
鈴木 しかもさらなる問題が発生する。それは、森の『宮沢賢治 ふれあいの人々』に所収されている「高雅な和服姿の〝愛人〟」 の中には、
羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日であった。そこへ行くみちで、私は一人の若い美しい女の人に会った。
<『宮沢賢治 ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷印刷出版部、昭和63年)17pより>という記述があったからだ。
もちろん前後を読んでみればこの「女の人」とは露であることが直ぐわかるし、これも森の「下根子桜訪問」のことを素材にしていることがわかる。したがってこれは奇妙なことだ。それは、この場合もその訪問時期は今通説となっている「昭和2年の秋」となっていないし、しかも、こちらは「昭和六年七月七日の日記」にあるような「一九二八年の秋」でもなく、「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋」、すなわち「大正15年の秋」ということになるからだ。
吉田 しかし、この『宮沢賢治 ふれあいの人々』が出版された昭和63年頃であれば、『校本全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年)が発行されてから10年以上も経っているのだから、同巻所収の「賢治年譜」は関係者の間ではもう周知定着していただろう。したがって常識的に考えれば、森が下根子桜を訪問した時期が「昭和2年の秋〔推定〕」となっていることや、その通説が「昭和2年の秋」となっていることを森自身が知らなかったはずなかろうに。
荒木 何かきな臭くなってきたな。
んで、その他にはないのか。
鈴木 あっ、忘れていた。もう一つあった。それは『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年9月)所収の森惣一(森荘已池)の「追憶記」であり、そこには、
一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた。途中、林の中で、昂奮に真赤に上氣し、ぎらぎらと光る目をした女性(投稿者註:高瀬露のこと)に會つた。家へつくと宮澤さんはしきりに窓をあけ放してゐるところだつた
――今途中で會つたでせう、女臭くていかんですよ……
〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年9月)346p~〉――今途中で會つたでせう、女臭くていかんですよ……
と書かれていた。
吉田 つまり、昭和9年発行の『宮澤賢治追悼』所収の「追憶記」と全く同じだったということか。
荒木 ということは、ここでまでのことを整理してこの件に関して時系列で並べてみれば、森はその訪問時期については、
・『宮澤賢治追悼』(草野心平編輯、次郎社、昭和9年1月)所収「追憶記」 →「一九二八年の秋」
・『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年9月)所収森荘已池著「追憶記」 →「一九二八年の秋」
・『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房、昭和24年1月)所収森荘已池著「昭和六年七月七日の日記」 →「一九二八年の秋」
・『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房、昭和49年10月)所収「昭和六年七月七日の日記」 →「一九二八年の秋」
・『宮沢賢治 ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷印刷出版部、昭和63年10月)所収「高雅な和服姿の〝愛人〟」 →「大正15年の秋」
としていたということか。・『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年9月)所収森荘已池著「追憶記」 →「一九二八年の秋」
・『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房、昭和24年1月)所収森荘已池著「昭和六年七月七日の日記」 →「一九二八年の秋」
・『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房、昭和49年10月)所収「昭和六年七月七日の日記」 →「一九二八年の秋」
・『宮沢賢治 ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷印刷出版部、昭和63年10月)所収「高雅な和服姿の〝愛人〟」 →「大正15年の秋」
とほほ、いずれの場合も通説となっている「一九二七年(昭和2年)の秋」を意味するような記述の仕方は決してしていなかったということがこれで導かれてしまったぞ。
吉田 ということは、逆に言えば、実は森は「一九二七年の秋」と書くわけにはいかなかったということであり、何らかの理由があってやむを得ず「一九二八年の秋」とした。あげくのはては、もしかすると困りはてて、後になると今度は「大正15年の秋」としてしまったのではなかろうかということだな。
荒木 そして一方で言えることは、現「賢治年譜」の、
「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。
という処理の仕方は、懸念されたとおり、あまりにも杜撰だったということになるべ。吉田 当然、この件をこのまま放置しておくわけにはもはやいかない事は明らかなのだが、実際問題、自ら蒔いた種とはいえ当局は困りはててしまうだろうな。
荒木 あまり良く調べもせずに、しかも杜撰な論理で、安易に「一九二七年」へ変更した結果だからやむを得んだろう。
鈴木 そしてこうなってしまうと、この下根子桜訪問自体がはたたして実際に行われていたかどうかという、さらに新たな大問題が生じてしまったということにもなる。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
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〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
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