みちのくの山野草

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一 必ず一次情報に立ち返って

2024-06-04 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)

一 必ず一次情報に立ち返って
 さて、先に一度述べたことだが、「えっ、いくらなんでも!」、と私は思わず声を発した。それは、『新校本宮澤賢治全集 第16巻(下)補遺・資料 年譜篇』における、大正15年12月2日の次の記載を見て、「それはないでしょう」、とである。
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。………○×
 *65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
〈『新校本年譜』325p~〉
 なんと、あの筑摩書房が、「……要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている」という、まるで他人事のような言い回しで、その典拠も明示せずに、「関『随聞』二一五頁の記述内容」を一方的に書き変えていたことになるからである。
 はてさて、他人の記述内容を、その典拠も明示せずに一方的に書き変えるということがはたして許されるものなのだろうか。こんなことをしたならば、「出版社が、何と牽強付会なことをなさるものよ」と、眉を顰める人だっていそうだ。その一方で、このような処理の仕方は大問題だということを指摘している賢治研究者等を、私は残念ながら未だ誰一人として見つけられずにいる。なんともはや、賢治学界というところは不思議な世界だと、門外漢で非専門家の私は首を傾げてしまう。

 そんな折、石井洋二郎氏が次のように、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。〈「東大大学院総合文化研究科・教養学部」HP総合情報平成26 年度教養学部学位記伝達式式辞(東大教養学部長石井洋二郎)〉
と式辞で述べたということを、あるHPで知った。さて、ではなぜ同氏はこのようなことを述べたのかというと、同HPによればおおよそ次のようなこと、
 あの有名な、「大河内総長は『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』と言った」というエピソードを石井氏が検証してみたところ、
「早い話がこの命題は初めから終りまで全部間違いであって、ただの一箇所も真実を含んでいないのですね。にもかかわらず、この幻のエピソードはまことしやかに語り継がれ、今日では一種の伝説にさえなっている」
という思いもよらぬ結果となった。そこで、このことを憂慮した同氏は卒業生に対して、
「必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」
が如何に大事かということを訓えようと思った。そしてまた、
「この健全な批判精神こそが、「教養」というものの本質なのだ」
ということを訴えたかった。
からだと私は理解した。
 実際私も、この式辞の中味を知るまでは、「大河内総長は『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』と言った」は事実であると思い込んでいたから、やはり鵜呑みにすることは危険なのだということをなおさら覚った。かつては、「疑うことが学問の始まりである」という基本を叩きこまれたはずの私だが、いつのまにか唯々諾々と鵜呑みにしてきたことが多かったなと反省しつつ、これからは基本に立ち戻ろうと自戒し、
 今後は、健全な批判精神を失わず、方法論としては「必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」を心掛けてゆこう。
と決意を新たにしたのだった。

 そこで、なにはともあれ、「関『随聞』二一五頁の記述」をまずは確認してみよう。それはこのようなものだ。
 沢里武治氏聞書
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までセロを持ってお見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つておりましたが、先生は「風邪を引くといけないからもう帰つてくれ、おれはもう一人でいいのだ」とせっかくそう申されましたが、こんな寒い日、先生をここで見捨てて帰るということは私としてはどうしてもしのびなかつた、また先生と音楽についてさまざまの話をしあうことは私としてはたいへん楽しいことでありました。滞京中の先生はそれはそれは私たちの想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかからぬよう、指は直角にもってゆく練習、そういうことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ、帰郷なさいました。
〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~〉
 つまり、『新校本年譜』は、この「沢里武治氏聞書」が現定説〝○×〟の典拠であるとし、ただし、この上京は大正15年12月2日のことである、と「訂正」したということになる。当然、多少賢治のことを知っている人ならば首を傾げるはずだ。「三か月間」どころか、それから一か月も経たない12月末に賢治は花巻に戻ったし、明けて昭和2年1月10日には羅須地人協会の講義等を行ったと同年譜ではなっているからだ。
 もう少し丁寧に説明すると、典拠としている「沢里武治氏聞書」の中で、「三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ、帰郷なさいました」と沢里は証言しているわけだから、賢治は大正15年12月2日~昭和2年3月1日の「三か月間」滞京していたことになるはずだが、現定説の〝○×〟はそのことには全く触れていないのである。しかも、『新校本年譜』からその当時の賢治の動静を拾い上げてみると、下掲の《表1 賢治の動静(大正15年12月1日~昭和2年3月1日)》のようになり、

この表の中に、大正15年12月2日~昭和2年3月1日の「三か月間」の滞京を当て嵌めることができないから、自家撞着が起こっている。つまり、あろうことか、現定説〝○×〟が典拠としているという「関『随聞』二一五頁の記述」それ自体が、その反例になっているのである。そしてもちろん、定説と雖も所詮仮説の一つだから、反例がある仮説は即棄却されねばならないのに、だ。
 ところがその一方で、典拠としている「沢里武治氏聞書」の年次を「訂正」せず、素直にそのまま「昭和二年十一月ころ」を適用すればどうなるのかというと、下掲の《表2 賢治の動静(昭和2年11月1日~昭和3年3月13日)》

にはこの「三か月間」がすんなりと当て嵌まる空白期間、昭和2年11月4日~昭和3年2月8日(この間、賢治はまるで透明人間だ)がある。なんともはや、「訂正」をすれば当て嵌まらないのに、「訂正」しない方がすんなりと当て嵌まるではないか。

 畢竟するに、「注釈*65」のような年次の「訂正」の仕方は無茶だということを、この《表1》と《表2》は教えてくれている。そしてまた、『新校本年譜』の担当者がこのことに気付いていなかったはずがない。それは、現定説〝○×〟の中に、「少なくとも三か月は滞在する」の文言が完全に消え去っていることが、逆に暗示していると私には思えるからである。
 かくの如く、現定説〝○×〟は成り立ち得ないということが直ぐ分かるのに、賢治研究者の誰一人としてこのことに対して異議申し立てをしていないことが、門外漢で非専門家の私はなおさら不可思議に見える。賢治学界というところはやはり私には別世界のようだ。

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    来る6月9日(日)、下掲のような「五感で楽しむ光太郎ライフ」を開催しますのでご案内いたします。 

    2024年6月9日(日) 10:30 ▶ 13:30
    なはん プラザ COMZホール
    主催 太田地区振興会
    共催 高村光太郎連翹忌運営委員会 
       やつかのもり LCC 
    参加費 1500円(税込)

           締め切り 5月27日(月)
           先着100名様
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