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2 チェロの学習 

2021-04-05 16:00:00 | 賢治昭和二年の上京

2 チェロの学習 
 さて、昭和2年の「一年の計」として
    本年中セロ一週一頁
    オルガン一週一課

   <『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)408pより>
を立てた賢治ではあったが、その後はたしてチェロの学習は順風満帆であったのであろうかということを少しく考察してみたい。

 「チェロ学習ノート」
 横田庄一郎氏は賢治の「チェロ学習ノート」に関して次のように述べている。
 賢治はチェロの学習ノートを残している。一九二四(大正十三)年末から翌年夏にかけて順次刊行されたアルス『西洋音楽講座』(全十六巻)の、第四巻から第六巻に掲載されたヴィオロン・セロ科を写していたのである。ノートの紙片は宮沢賢治記念館に展示されており、インクで書かれ、二つ折にた紙は未記入も含めて四十頁に及んでいた。
              <『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)23p~より>
 したがって、どうやら賢治の「チェロ学習ノート」は「四十頁」分あったようだ。この「頁数」は後程の考察に役立つと思うので心に留めておきたい。
 そして横田氏は次のことも前掲書で教えてくれている。
……賢治の学習ノートにはここに付けられたイラストを筆写している。イラストだけではない。楽譜はもちろんのこと、写真までもイラストにして描いている。
 平井保三のセロ講座は『西洋音楽講座』第四巻に序記、楽器に関しての考証、物理的技術論、弦について、第五巻に右手にいついて、第六巻に右手について(承前)、左手について、造らるゝ音について、という具合に構成されている。
             <『前掲書33p~より>
 ということは、『ヴィオロン・セロ科』のイラストや写真も含めて賢治はこのノートに書き写したということになろう。また、この講座『ヴィオロン・セロ科』は極めて長丁場であろうことも窺えるが、この『ヴィオロン・セロ科』については序記から始まって最後まで全てが『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』の550p~589pに転載されているのでその中身を見てみればなおさらそのことがわかる。
 そこで私は、賢治はチェロの学習が長続きできて、そこそこ上達したのだろうかとついつい心配したくなる。一般にチェロをマスターするということは極めて難しいことだと言われているようだからなおさらに。
 ところで、横田氏は同書において「本年中セロ一週一頁」の、
 「一頁」とは大津から貰ったウエルナー教則本の一頁のことだと見ていいだろう。
            <前掲書68pより>
と判断している。私も一旦そう思ったのだが、しかし待てよ……、突如別な考えが頭をもたげた。そもそもこの「学習ノート」はいつ頃賢治によって書き写されたものだろうかという疑問がまず湧いたからだ。そして、もしかするとこの「一頁」とは「ウエルナー教則本の一頁」のことではなくて『ヴィオロン・セロ科』の「一頁」のことであり、
◇この「チェロ学習ノート」は昭和2年の1月から賢治が『ヴィオロン・セロ科』を書き写してできたものである。………①
という可能性もあるのではなかろうかということを思い付いたのである。
 つまり、一年の計「本年中セロ一週一頁」とは、この『ヴィオロン・セロ科』を一週一頁ずつ書き写すことであったのではなかろうか、そう思い付いたのであった。そしてその結果出来上がったのが「チェロ学習ノート」であったのだと。
 そこで、横田氏はこのことについてどう論考していたかをもう一度『チェロと宮沢賢治』で読み直したところ、
 『校本宮沢賢治全集』の解説では、このノートの字体は書簡などから大正十四年から昭和二年ごろのものとほぼ一致する、としている。『西洋音楽講座』第四巻でヴィオロン・セロ科が始まったのは一九二五(大正十四)年なので、これを購読したか、見た時期にもよるが、この年から学習が始まったとも見ることができる。翌一九二六年に賢治はチェロを買っているのだから、学習は先行していたのだろうか。
           <『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)35p~より>
と論じていて、その年次については限定していないようだ。
 そして続けて横田氏は
   また、『校本全集』が賢治のチェロ学習ノートの目に付く特色として……
と著しているので、実際に『校本全集』の当該箇所を見てみると、御園生京子氏がこの「学習ノート」の特色について次のような見立てをしていた。
(1) 初歩において肝要な右手に関する記述を殊に丹念に筆写しており、その部分についてはかなり考えながら消化しようとしていつ。これは誰か(恐らく大津)に、右手がさしあたり全てを決することを叩きこまれたためとみられる。
(2) その他、楽器が手もとにあり、既に少なくとも一度は教師の手ほどきを受けたことがある、とみられる点が多い。
(3) 一方、「音の変化」の項以下などは筆写の丹念さが減ずるばかりでなく、十分な理解を伴っていないことが、記述や楽譜の筆写ミスに現れている。
           <『校本宮澤賢治全集第十二(下)巻』(筑摩書房)596p~より>

 『ヴィオロン・セロ科』の可能性
 すると、まず(1)よりこの「学習ノート」は昭和2年1月から書き写されたと考えてもよさそうである。なぜなら、賢治は前年末にたしかに大津から「三日間のチェロの特訓」を受けているからである。
 具体的には、以前「(b)、(c)、(d)については後程考察のために使いたい」と前触れしておいたように、大津三郎は「第一日には楽器の部分名稱、各弦の音名、調子の合わせ方、ボーイングと、第二日はボーイングと音階」と証言していて、両日とも「ボーイング」(大津三郎の「三日でセロを覺えようとした人」より)の指導を受けていることになるから、「右手がさしあたり全てを決することを叩きこまれた」ことは十分にあり得る。
 次に(2)に関しては、賢治は前年末に最高級のチェロ一式を購入済みであると先に判断できたし、大津から「三日間のチェロの特訓」も受けているのでこれは前頁①の、明けて「昭和2年の1月から」とも対応できる。
 なお、「既に少なくとも一度は教師の手ほどきを受けたことがある」の部分は、「1926年(大正15年・昭和元年)末に初めて教師の手ほどきを受けた」となるのかもしれない。そして(3)は先の①を否定するものではない。
 したがって、以上の(1)~(3)の三つから、①はそれほど無茶な推理でもなさそうだだ。なお(3)に関わることだが〝「音の変化」の項〟とは平井の『ヴィオロン・セロ科』のどの辺りだろうかということが気になったので見てみると、それは『ヴィオロン・セロ科』の殆ど最後の方の〝項〟であった。ということは、賢治はこの『ヴィオロン・セロ科』を最後まで読み通し、筆写もしたと考えてよさそうだ。
 こうしてみると、
◇賢治は昭和2年の1月から、『ヴィオロン・セロ科』を使って「一週一頁」ずつ最後まで筆写しながらチェロを学んでいった。
という可能性が少なからずある。

 『ウエルナーの教則本』の可能性
 となれば、同じようなことが『ウエルナーの教則本』に対しても可能かどうかを調べる必要がある。
 その『ウエルナーの教則本』だが、それと全く同じものかどうかはしかとわからないが、基本的には酷似しているであろう『ウエルナーチェロ教則本』(企画編集室編著、東京楽譜出版社)を手に入れた。
 さてその中身である。まず同書の1p~10pには
  チェロの調弦、同名称、同持ち方、指の位置、弓の持ち方弾き方、各種記号等
が載っている。そして11pから本格的な練習が始まり、そこからは最終頁までがすべて楽譜から成り立っている。ちなみにその最初の頁は
  【11p  開放弦の練習、手くび首の練習】
になっていて、その一部分は上段が学習者、下段が教授者となっている楽譜もある。
 さて、はたして賢治はこの教則本を用いて「セロ一週一頁」ずつ独習でマスターしていったのだろうか。たしかに、賢治は大正15年(昭和元年)末に大津三郎から「三日間のチェロの特訓」を受けた際、ボーイングについては少なくとも指導を既に受けていた訳だし、この頁なら開放弦の練習だからチェロ初心者でも何とかなりそうだ。
 しかし、次の頁を捲ると
  【12p~13p 第一の位置 各指の位置】
となっていて、実質的な練習が始まったばかりの2頁目だというのにもう「指の位置」とあるから、早速左手の練習ということになるのではなかろうか。したがって、もし賢治がこの教則本を用いて「セロ一週一頁」ずつマスターしようとしたのであれば、賢治がかなり苦労したであろうことは想像に難くない。
 そして次は
  【14p~15p 第一の位置】
となっていて、この頁の楽譜はすべて上段(学習者)と下段(教授者)とに分かれている。
 これに関連しては、藤原嘉藤治が井上敏夫との対談で次のようなことを後年語っている。
井上 どんな練習をしたんですか。
藤原 その当時はチェロの教科書があまりなかったので、バイオリンの教則本、ホーマンのⅠを使って、弟子は上の方のメロディーを弾き、先生が下の方を弾くんですが、それを二人でやりました。
井上 どちらが下の方をやったのですか。
藤原 僕が下をやりました。低音ですからね、弾いていると腹の底からグーグー響いてきて、それが愉快でした。宮沢君は、チェロはほんの初歩でした。
            <『宮沢賢治第5号』(洋々社)24pより>
 この対談は昭和48年10月に行われたものであるから、時に藤原嘉藤治77歳であり、ここで語られていることはかなり昔の話になるので中には記憶のずれ等もあるかもしれない。
 とはいえ、少なくとも賢治と嘉藤治は二人でチェロの練習したことがあるということは間違いなかろう。当然チェロに関しては初歩であった賢治が上段を弾き、既にチェロをやっていた嘉藤治が下段を弾いたこともこの証言どおりだろう。
 そこで、賢治が常にこのようにして嘉藤治から指導を受けられたのであればそうでもなかったかもしれないが、嘉藤治は花巻高等女学校の教師だからそれは叶わなかったであろうから、もし『ウエルナーの教則本』を用いて賢治がチェロの独習をしていたとすればかなり難渋したであろう。

 やはり『ヴィオロン・セロ科』では
 ところで、『ウエルナーの教則本』の最終頁は76pであった。ということは、同教則本には練習用のページ数だけでも
  76-11+1=66頁
あり、もし「セロ一週一頁」の割合で真面目に練習すると
  66×7=462日
すなわち
  1年と97日
を要することになる。とても一年内には終わりそうにない。
 一方『ヴィオロン・セロ科』の方であれば、それがもし『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)に「資料」として載っているとおりのものだったとするならばそれは40頁分ある。また、この『ヴィオロン・セロ科』を賢治が筆写した「チェロ学習ノート」となる訳だが、先ほど心に留めておきたいと言ったようにこのノートの「頁数」も「四十頁」であった。この二つの頁数が一致していることは、やはり用いたのは『ヴィオロン・セロ科』の方なのかもしれないと思わせる。
 もし、「セロ一週一頁」用としてこちらを用いていれば
  40×7日=280日
となるなので、数字上からは「本年中セロ一週一頁」は達成できそうだ。また、瞥見した限りにおいても『ウエルナーチェロ教則本』と比較して『ヴィオロン・セロ科』の方が達成しやすそうな気がする(まあ所詮私の素人判断ではあるが)。
 こうやってここまで調べて来てみた結果、賢治が「セロ一週一頁」ずつマスターしようとしたのはどうやら大津三郎から貰った『ウエルナーの教則本』ではなくて『ヴィオロン・セロ科』の方だったのではなかろうか、と私は判断したくなってきた。
 もしこちらの『ヴィオロン・セロ科』の方を用いていたとすれば、例の一年の計「本年中セロ一週一頁」の具体的な中身は、この『ヴィオロン・セロ科』を一週一頁ずつ筆写しながら学習していくというものであったとなろうし、その結果出来上がったのがもちろん「チェロ学習ノート」であったということになろう。

 『ヴィオロン・セロ科』の借覧先
 さて、『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』によれば、件の「チェロ学習ノート」は賢治の筆跡から判断して大正14年~昭和2年頃のものだという。それではその際に賢治はその原本(『西洋音楽講座』所収の平井保三著『ヴィオロン・セロ科』)をどこから借覧したかというと、それは国会図書館でもないし、藤原嘉藤治や澤里でもないともいう(『校本宮澤賢治全集第十二巻下)』(筑摩書房)598pより)。
 では一体どこからそれを賢治は借りたのだろうかであるが、もしかすると町内の木村兄弟の家から借覧したのではなかろうかと私は直感した。木村家は資産家であったようだし、芸術にも造詣が深かったと聞くからである。
 当時の木村家については、高橋文彦(松田十刻)氏によれば父木村寿は花巻市坂本町の開業医で、子供は全部で七人だという。長男の圭一も医師であり、またアイヌ語研究家でもあったという(「賢治を慕った女性たち」(『宮沢賢治第5号』(洋々社)所収)112pより)。この圭一は藤原嘉藤治や妹らとレコード鑑賞やコンサート活動を続ける(『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)94pより)ということで賢治とは親交があったようだし、『啄木 賢治 光太郎』によれば圭一は当時花巻にあったカルテットのメンバーであり「のち岩手医大の教授になったセロの木村圭一」とある(『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞盛岡支局)156p)。圭一はチェロも弾いたようである。
 一方、『西洋音楽講座』の中身はどのような内容であったかというと、横田氏の前掲書(28p)によれば
  音楽通論、楽典、和声学、音楽史、ピアノ科、声楽科等
ということだから、木村兄弟の中の特に木村杲子であれば、上野音楽学校(東京芸術大学前身)に入学して声楽とピアノを専攻しているということだし、杲子は藤原嘉藤治の教え子でピアノのレッスンなども嘉藤治から受けている(『宮沢賢治5号』(洋々社)114pより)という。
 したがって木村家では『西洋音楽講座』を購読していた可能性が大であり、圭一あるいは嘉藤治のルートでそのことを知った賢治がそれを借りた可能性があるのではなかろうか。かなり想像を逞しくした話ではあるが。

 順調な滑り出し
 さて、昭和2年の賢治は「一年の計」の一つとして「本年中セロ一週一頁」を立て、「チェロ練習ノート」を作りながら、チェロをマスターしていこうという気合いに溢れていたといえる。
 それも、チェロの独習のみならず、例の毎週火曜日に行われていたという近所の若者達からなる楽団の練習も続けられ、そして、これもまた計画的に行われたであろうと思われるのが例の講義である。
 ちなみに「新校本年譜」によれば、
1月10日 〔講義案内〕による羅須地人協会講義が行われたと見られる。午前一〇時より午後三時まで。
1月20日 羅須地人協会講義。参会者に「土壌要務一覧」のプリントを配布し、図解を示ししつつ土壌学要綱を講じる。
1月30日 羅須地人協会講義。「植物生理学要綱」上部。午前一〇時より午後三時まで。
             <「新校本年譜」(筑摩書房)より>
とあり、〔講義案内〕どおりに実施したようだ。
 また、賢治のチェロはまだまだ習いたてだから楽団でチェロを弾きこなすことができなかったことは自明だろうが、井上ひさしによれば『楽器練習会で最初に取り上げた曲は「太湖船」だったという証言がある』(『ちくま日本文学全集 宮沢賢治』(筑摩書房)460p)ということだから、この曲だけは賢治もチェロを弾きながら若者達と一緒に合奏を楽しんだことであろう。
 ちなみに、横田庄一郎氏によればこの「太湖船」という曲はチェロの開放弦だけで弾けてしまう曲(『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)35pより)であるというし、板谷栄城氏も『賢治小景』において次のように言っているからである。、
  『太湖船』唯一の曲 楽譜は自筆
 羅須地人協会時代の賢治はオーケストラを作ることを夢見て、集まってくる青年たちと練習しました。
 しかし、バイオリンの初心者用『ホーマン』という教科書さえ手にはおえません。
 ですからレパートリーはただ一つ、『太湖船』だけでした。
  …(中略)…
 ところで賢治自筆のガリ版刷りの『太湖船』楽譜がのこっていますが、それはハ長調で書かれています。
 となると低音部はCとGだけでも何とかなりますので、チェロの開放弦だけで弾けますから、賢治の腕をもってしても何とかなったと思われます。
              <『賢治小景』(板谷栄城著、熊谷印刷出版部)32p~より>

 したがって、昭和2年は順調に滑り出して何もかもが賢治の思ったとおりに回り出した……

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