みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

2 証言等による検証

2021-03-22 16:00:00 | 賢治昭和二年の上京

2 証言等による検証
 ではここでは、仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………………♣
に関連しそうな証言が述べられているものの幾つかをまずリストアップしてみる(一部は既に触れたものもあるが)。
(1)「沢里武治氏聞書」(『賢治随聞』所収)
(2)「三日でセロを覺えようとした人」
(3) 座談会「宮澤賢治先生を語る會」(『宮澤賢治素描』所収)
(4) 柳原昌悦の証言
(5)『宮澤賢治日記(昭和2年版)』
(6) 盛岡気象台の記録
(7) 伊藤清の証言
(8) レコード交換会
(9) 宮澤清六編「宮澤賢治年譜」
 もちろんこれら以外にも関連する証言等はあるのだが、長くなるのでまずはこれらの10項目によって検証してゆきたい。
 なお、実際には検証というよりはそれらの証言が仮説「♣」の反例となることはないか、ということを調べることの方が多くなろうかと思う。そして、そのうちの一つでも反例が現れるとこの仮説は成り立たなくなるから私はそこですごすごと撤退するということになる。
 では各項目毎に、順に検討してゆきたい。

 (1) 「沢里武治氏聞書」
 これは以前に既に一部引用したものだが、次のようなことが述べられている。
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待っておりましたが、先生は「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」とせっかくそう申されたましたが、こんな寒い日、先生をここで見捨てて帰るということは私としてはどうしてもしのびなかった、また先生と音楽についてさまざまの話をしあうことは私としてはたいへん楽しいことでありました。滞京中の先生はそれはそれは私たちの想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかからぬよう、指は直角にもってゆく練習、そういうことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
              <『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
 この澤里の証言を読めば、直ぐに仮説「♣」が妥当であることが分かるが、もともとこの仮説はこの証言を基にして立てた仮説であるとも言えるから当然のことである。それゆえ、ここではこの証言のポイントを確認することに留めておきたい。
 賢治はある時チェロを持って上京したが、そのことに関する澤里のいくつかの証言である。
(ア) その上京は昭和2年11月頃だった。
(イ) 賢治は「少なくとも三か月は滞在する」とも言った。
(ウ) その際見送ったのは澤里ただ一人だった。
(エ) その日はびしょびしょみぞれの降る寒い日だった。
(オ) 賢治はこの3ヶ月間のはげしい勉強で、とうとう病気になって帰郷した。
 もちろん、これらの全項目は仮説「♣」の反例とはなっておらず、その証左となっている。

 (2) 「三日でセロを覺えようとした人」
 これは『昭和文学全集 月報第十四號』に載っている大津三郎の追想であり、それは次のようなものである。
   「三日でセロを覺えようとした人」
 それは大正十五年の秋か、翌昭和二年の春浅い頃だつたか、私の記憶ははつきりしない。…(中略)…
 ある日、歸り際に塚本氏に呼びとめられて「三日間でセロの手ほどきをして貰いたいと言う人が來ているが、どの先生もとても出來ない相談だと言つて、とりあつてくれない。岩手縣の農學校の先生とかで、とても眞面目そうな靑年ですがね。無理なことだと言つても中々熱心で、しまいには楽器の持ち方だけでもよいと言うのですよ。何とか三日間だけ見てあげて下さいよ。」と口説かれた。…(中略)…
 神田あたりに宿をとつていた彼は、約束通りの時間に荏原郡調布村まで來るのは仲々の努力だつたようだが、三日共遅刻せずにやつて來た。八時半に練習を終つて私の家の朝食を一緒にたべて、同じ電車で有楽町まで出て別れる。…これが三日つづいた。
 第一日には楽器の部分名稱、各弦の音名、調子の合わせ方、ボーイングと、第二日はボーイングと音階、第三日にはウエルナー教則本第一巻の易しいもの何曲かを、説明したり奏して聞かせたりして、歸宅してからの自習の目やすにした。ずい分亂暴な教え方だが、三日と限つての授業で他に良い思案も出なかつた。
 三日目には、それでも三十分早くやめてたつた三日間の師弟ではあつたが、お別れの茶話會をやつた。その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立つたか、と訊ねたら、「エスペラントの詩を書きたいのですが、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので…」とのことだつた。
             <『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)5pより>
 つまり、大津から受けた「三日間のチェロの特訓」に関しては、
(a) 大津三郎が賢治にセロを教えた時期は大正15年の秋か昭和2年の春浅い頃のいずれかの可能性が高い。
(b) 賢治は楽器の持ち方だけでもよいから教えてほしいとい う意味のことを言った。
(c) 賢治に教えた内容は楽器の各部の名稱、各弦の音名、調 子の合わせ方、ボーイング、音階などである。
(d) 賢治はチェロを習おうと思った訳を、詩の朗誦伴奏に「オルガンよりセロの方がよいように思います」と語った。
ということなどを大津三郎は証言していることになる。
 ではこれらの証言は仮説「♣」の反例となり得るか。幸いそのようなものはほぼないと言っていいだろう。この大津の「三日間のチェロの特訓」は昭和2年ではなくてその前年、大正15年12月に上京した際のものと考えられるから、(a)は反例とまではならないであろうからである。そしてそもそも、その時期が
大正15年の秋であるとすれば「通説○現」の12月とずれてしまうが、それは「通説○現」の反例となることはあっても、仮説「♣」とは無関係なことである。
 とまれ、ここまでの段階では仮説「♣」は成り立ち得るし、(b)、(c)、(d)については後程考察のために使いたい。

 (3) 座談会「宮澤賢治先生を語る會」
 關登久也著『續 宮澤賢治素描』に所収されている座談会「宮澤賢治先生を語る會」に、次のような証言がある。
K 先生のご病氣は昭和二年の秋ごろから惡くなつたと思ふが――。
M よく記憶にないが東京へ行つてからだと思ふ。東京でエス語、セロ、オルガンなど練習されたといふ話だつた。
            <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版)254pより>
なお、ここで「K」とは高橋慶吾のことで、「M」とは伊藤克己であることが同じく関登久也の著書『賢治随聞』(角川選書、昭和45年)で後ほど明らかにされている。
 したがって、
・賢治の病気は昭和2年の秋頃から悪くなったと思うと高橋慶吾は証言している。
・賢治の病気が悪くなったのは東京へ行ってからだと思うし、その際賢治は東京でエスペラント、セロ、オルガンなどを練習したという話だった、ということを伊藤克己は証言している。
ことになる。そして、同書にはこの座談会は「日時 昭和十年頃」と付記されているから、賢治が没してからあまり時が経っていない時期の座談会であり、これらの証言はそれほど昔のこととは言えない。また「下根子桜時代」から数えても10年ほどしか経っていない時期の複数の人による座談会だから、これらの証言はかなり真実を伝えているに違いない。
 ではこれらの証言は仮説「♣」の反例となり得るかというと、もちろんそのようなものではない。逆にこれらの証言からは、慶吾は自信なげに言っているが、一方の伊藤克己はそれをうち消しながら言っていることから、
・賢治は東京へ行ってから病気が悪くなった。
という可能性が大であることが示唆されるから、仮説「♣」の傍証になり得る。
 ただし、これが昭和2年の上京のことだけを述べているとなると、「エス語、セロ、オルガンなど練習された」という伊藤の証言中の「エスペラント、オルガンの練習」が気になるところではある。昭和2年の際に賢治はエスペラントやオルガンの練習をしたとは思えないからである。

 (4) 柳原昌悦の証言
 これは今まで何度か取り上げたものであり、菊池忠二氏がかつて柳原昌悦から直接取材した際に得た例の、
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。……………○柳
という証言のことである。この証言は仮説「♣」を傍証しているが、それはこの証言と「○随」とを互いに補完させて立てた仮説が「♣」だから当然のことではある。
 つまり、柳原は大正15年12月2日の賢治の上京の際には澤里と一緒に賢治の上京を見送ったということを保証し、ひいては、澤里がチェロを持って上京する賢治をひとり見送ったのは昭和2年の11月の霙の降る日であったということを導き出す拠り所の一つにもなっているのがこの証言「○柳」である。

 (5) 『宮澤賢治日記』
 5つ目は賢治の日記からである。一般に賢治は日記を書いていないということだが、昭和2年の賢治の日記(印刷上は「大正十六年日記」)、いわば『宮澤賢治昭和2年日記』に限っては一部分(いわゆる「手帳断片A」)が残っている。そしてそこには次のようなことが書かれている。
 「大正十六年日記」の「三頁、1月1(土)」の欄に賢治は、
   国語及エスペラント
   音聲學

と書き、同MEMO欄には、
   本年中セロ一週一頁
   オルガン一週一課

<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)408pより>
と書いている。ということは、昭和2年の元日に賢治は
   国語、エスペラント、音声学
を学んだということであろう。
 そして、この「MEMO欄」の記載は1月1日のものだし、その記載内容からして、
   本年中セロ一週一頁 オルガン一週一課
は賢治昭和2年の「一年の計」であることが判る。年頭に当たって昭和2年の賢治はまず「本年中セロ一週一頁」を第一に掲げていたということになる。そこからは、賢治のチェロに懸ける意気込みが伝わって来るし、チェロの腕前は殆ど初心者であったであろうことも同時に言えそうだ。オルガンは「一週一課」なのにチェロは「一週一頁」だからである。
 また、このことは前に挙げた証言 「三日でセロを覺えようとした人」の(b)及び(c)とも符合する。つまり、この(b)と(c)等の意味するところのチェロは全くの初歩であったということとも符合する。
 ではこの日記のメモが仮説「♣」とどう関わってくるかを次に少し考えてみたい。この日記の書かれ方〟一年の計の第一が「本年中セロ一週一頁」〝であることからは昭和2年の賢治がチェロに懸ける想いは相当なものであることが容易に理解できる。一般には日記を書かなかったといわれている賢治のようだが、昭和2年の年頭に当たってだけは日記を書き始め、しかも一年の計として
   本年中セロ一週一頁 オルガン一週一課
を掲げたからだ。かなり胸中期するところがあったに違いない、とりわけチェロの上達をである。
 しかし現実には、チェロを学ぶことは名チェリスト西内荘一氏でさえも生やさしいことではなかったと述懐(後述する)しているくらいである。したがって賢治は早晩チェロを独習することの限界を悟ったであろうことが容易に推測できる。そこで賢治は何とかせねばならぬとばかりに、
 沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。
             <『宮澤賢治物語(49)』(関登久也著、岩手日報連載、昭和31年2月22日付)より>
と賢治は澤里に強い決意を語って、昭和2年の11月に上京したということは十分に考えられる。
 という訳で、この日記の記載事項も仮説「♣」の多少傍証になり得る。もちろん少なくともこの仮説の反例とはなっていない。

 (6) 伊藤清の証言
 関登久也の『宮澤賢治物語』の中に伊藤清の次のような証言がある。
 地人協会時代に、上京されたことがあります。そして冬に、帰って来られました。東京での色々のお話も伺いましたが、今は記憶しておりません。
             <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)268pより>
もちろん上京したのは宮澤賢治である。一般に賢治の「下根子桜時代」の上京は、
 (ⅰ) 大正15年12月
のものと、
  (ⅱ) 昭和3年6月
のものの2回だけというのが通説だが、それでは伊藤が証言するところの「下根子桜時代」における、
 上京されたことがあります。そして冬に、帰って来られました……………○清
とはどちらの上京のことを言っているのだろうか。もちろん、後者(ⅱ)の場合には6月中に戻っているものだから当て嵌まらないので、残りの、前者(ⅰ)の上京でしかあり得ないはず。
 ところが、この上京(ⅰ)は12月2日に上京して年内には花巻に戻っているものだから、このような上京に対して「○清」のような言い方は普通しないであろう。伊藤が「そして冬に」と言っていることに注意すれば、賢治が花巻を出立した時期は当然「冬」ではなく、なおかつ、賢治が帰花したのは「冬」であるということが言えるからである。
 つまり「○清」の中の上京とは、その花巻出発時期が「冬の前」
であるものであることが解るから、(ⅰ)もふさわしくない。(ⅰ)の出発時期は冬そのものだからである。
 となれば伊藤のこの証言はうろ覚えなのかといえばそうとも言えない。ちょうど仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。……………♣
のことをそれは言っていると考えればぴったりと当てはまる。「11月」であれば時期は冬でなくてその前の秋だからである。
 逆に見れば、この伊藤の証言「○清」は澤里の証言「○随」及び次の証言
 そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。……………○三
          <『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
と符合しているから、仮説「♣」の一つの傍証となっていると言えるのではなかろうか。

 (7) 盛岡気象台の記録
 「通説○現」では、大正15年12月2日については、
 セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。
            <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)600p>
となっているから、もしこの日に花巻駅周辺で霙が降っていなければ、この「通説○現」の反例になるかも知れないし、仮説「♣」の傍証となるかもしれないと思って盛岡気象台にお訊ねした。
 するとその回答は、
・大正15年12月2日の花巻の天気は不明だが当日の降雨量は13.6㎜である。ちなみに当日の盛岡の天候は 朝夕雪、日中雨で、翌日の3日以降は雪が降っている。
ということであった。したがって、当日花巻に霙が降ったかどうかは判らない。盛岡の気象も踏まえれば花巻で霙が降った可能性も否定できない。よって私の目論見は崩れた。
 とはいえ、この盛岡気象台の気象データは「通説○現」を否定するものではないし、仮説「♣」を傍証するものでもない。もちろん反例となっている訳でもない。

 (8) 「レコード交換會」
 関登久也は『宮澤賢治素描』の中の節「レコード交換會」において次のような意味のことを述べている。
 賢治は昭和2年10月21日付のある紹介状を作った。それは高橋慶吾を紹介し、慶吾が事務を執ってレコード交換会を行うというもので、不用なレコードや希望のそれを教えてほしい、というものであった。
と。そしてこの節の中には次のような関登久也の証言がある。
 交換会は結局は賢治氏が病床の人となつたり、慶吾さんの都合で良い結果を得なかつた様でありますが…
             <『宮澤賢治素描』(關登久也著、協栄出版社)181pより>
ということは、昭和2年10月21日からそう遠くない時期に賢治は病臥したということが言える。
 するとかなり大雑把な話ではあるが、この時の病臥は仮説「♣」の中の「病気となり、昭和3年1月に帰花した」と符合する。したがって、関登久也のこの証言は仮説「♣」の多少ではあるが傍証となり得る。

 (9) 宮澤清六編「宮澤賢治年譜」
 昭和17年に出版された『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)には宮澤清六編の「宮澤賢治年譜」が所収されており、そこに次のような記載がある。
昭和三年一月、…この頃より過勞と自炊による栄養不足にて漸次身體が衰弱す。………………♥
            <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)259p>
 ということは、賢治は昭和3年1月には「漸次身體が衰弱す」という身体状況にあったということになる。したがってこの記載内容から、賢治は昭和3年1月中には帰花しており、家族の皆から心配されていたであろうことが推測される。なおかつ、これは賢治没後10年も経っていない頃の弟清六の編集による年譜だからまずは歴史的事実と判断できる。
 一方、皆さん既にお気づきのように仮説「♣」は、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。
のように本来は語句「」を付けねばならなかったものである。なぜならば、澤里武治の証言では、
   どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がします
となっているのだから、「昭和二年の十一月ころ」上京して3ヶ月弱滞京したとすれば、帰花するのはあくまでも「1月」とならねばならないからである。
 ところが私はこの語句「」を始めからこの仮説に付けなかった。その理由はこのような「宮澤賢治年譜」があることを知っていたからである。その月の何日に帰花したかは分からないにしても、少なくとも昭和3年1月中には花巻に賢治が戻っていたことはほぼ確実であろうと判断していたからである。
 逆に言えば、この宮澤清六編「宮澤賢治年譜」中の「♥」は仮説「♣」を裏付ける有力な資料の一つになっている。

 続きへ
前へ 
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 北上立花(3/19、アズマイチゲ) | トップ | 北上立花(3/19、フクジュソウ) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治昭和二年の上京」カテゴリの最新記事