《ルリソウ》(平成31年5月25日撮影)
〈子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない〉
〈子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない〉
さて、私に閃いたもの、それは何か。
私に閃いたことは、だからこそ、昭和6年の11月にあの手帳に書いたいわゆる「雨ニモマケズ」、
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
のここまでは、基本的には賢治とすれば「下根子桜」でできなかったり、はたまたそうしたりしなかったことばかりであり、それゆえ最後に、風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
〈共に『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)〉ワタシハナリタイ
と締め括って悔恨し、懺悔して願ったのだということだった。
ちなみに、「羅須地人協会時代」の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとも言えなければ、はたまた「サムサノナツハオロオロアルキ」をしようと思っても土台無理だったことは、それぞれ既に実証したところである。また、「小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ」については検証するまでもなく直ぐに納得できる(あの「羅須地人協会」の建物がどんなものであったかを思い浮かべればいともたやすく了解できる)。あるいは、「一日ニ玄米四合ト」についてもそうだ。それは、昭和7年6月1日付書簡下書が「羅須地人協会時代」の賢治は玄米食などしていなかったということを端的に教えてくれる<*1>からだ。そして他の「連」も、よくよく考えてみると皆そうでなかったり、そうできなかったことばかりだ。それ故にこそ、賢治は「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と願ったのだと私にはすんなりと了解できた。
つまり、例えば、「羅須地人協会時代」の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとか「サムサノナツハオロオロアルキ」とかいうことはなかったから、彼はこれらのこのことを悔い、これからは「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」たいと願ってこの「連」を認めたということになるはずだ、と了解できた。そう、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と。
するとこれと同じ論理で、先に述べたように賢治の稲作指導法はもともと貧しかった大半の農家にとってふさわしいものではなかったのだから、巷間言われているような賢治像からすれば、
「羅須地人協会時代」の賢治は貧しい農民たちのためにあまり献身できなかったからその悔いが残るので、「貧しい農民たちのために献身したい」という内容の連も「雨ニモマケズ」の中に詠み込まれて然るべきだ。………②
となるはずだが、その「連」がないという事実は一体何故なのかが私にとっては今までずっと疑問だった。ところがやっと、その解答となり得るものが遅まきながら見つかった。
<*1:註> 昭和七年 419 六月一日〔森佐一あて〕書簡下書に、
いままで三年玄米食(七分搗)をうちぢゅうやりました。母のさとから宣伝されたので、私はそれがじつにつらく何べんも下痢しましたが去年の秋までそれがいゝ加減の玄米食によることを気付きませんでした。気付いてももう寝てゐて食物のことなどかれこれ云へない仕儀です。最近盲腸炎(あらのため)を義弟がやったのでやっとやめて貰ひました。学者なんどが半分の研究でほうたうの生活へ物を云ふことじつに生意気です。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)399p~>と書かれているから、「いままで三年玄米食(七分搗)をうちぢゅうやりました」に注目すれば、この書簡の日付は昭和7年6月1日だから、大雑把に言えば、賢治は昭和4年6月~昭和7年6月の3年間玄米食を摂っていたということになる。ということは逆に、「羅須地人協会時代」の賢治は玄米食をしていなかったという蓋然性が頗る高いということである。まして、同時代に玄米食をしていたとすれば、「玄米食によることを気付きませんでした」ということはあり得ないからである。しかも、ここで言っているいわゆる「玄米」ではなくて「七分搗」の米のことであり、それでさえも、なのである。まして、三分搗きでもなければ五分搗きでさえもなかったのである。そう、だからだろう、後に「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」としたためたのは。いや、あの手帳にそう書いたのは昭和6年11月3日し、この書簡の日付は昭和7年だからそんなことはないか。時間軸に沿って考えれば、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と思って実際にやってみたのだが、「それがじつにつらく何べんも下痢しました」ということか。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
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〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
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