みちのくの山野草

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終章 このままでいいのですか

2024-01-02 16:00:00 | 『校本宮澤賢治全集』の杜撰







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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
  終章 このままでいいのですか
 さて、第一章では、筑摩書房らしからぬ幾つかの杜撰があるということを論じたが、その中には当初入っていなかった、あの「定説★」までもがかなり杜撰であることがこれで明らかになった。賢治の終焉に関わることだからかつての私ならば触れることさえも畏れ多くて避けてきたこの「定説★」までもが、実は嘘である蓋然性が極めて高いということを知ってしまった。ということであれば、私が最も恐れることは、この嘘かも知れない「定説★」と同じような内容が学校の教科書に載った場合にどうなるかということだ。
 そして実際、本書の巻頭で引用したように、賢治終焉前日の農民との面談、
 そして、一九三三年(昭和八年)九月二十一日が来る。
 前の晩、急性肺炎を起こした賢治は、呼吸ができないほど苦しんでいた。なのに、夜七時ごろ、来客があった。見知らぬ人だったけれど、「肥料のことで教えてもらいたいことがある。」 と言う。すると賢治は、着物を着がえて出ていき、一時間以上も、ていねいに教えてあげた。    〈『国語⑥創造』(光村図書出版、令和3年、122p〉
が載っている教科書が今でも使われているという現実がある。つまり、嘘かも知れない「定説★」と同じような内容が載っている教科書が現在も使われている。
 となると、このような教科書で賢治を習った子どもたちの多くは、賢治は農民のために自分の命まで犠牲にして尽くした立派な人間であったと素直に思い込むであろうことはほぼ明らか。そしてやがて成長するとともに、谷川徹三たちが願ったように、多くの子どもたちは聖人・賢治像を育んでゆくであろうこともまたほぼ自明。
 だから私は世に問いたい、このままでいいのですかと。そして先生方には訴えたい、もう止めませんか嘘の(かも知れない)賢治を使って子どもたちを騙す虞のあることは、と。そして関係者には、『校本宮澤賢治全集』の杜撰がこのままでいいのですか、と言いたい。
 もちろん、賢治がそのとおりの聖人であったならば、子どもたちにそう教えることは全然否定しない。がしかし、拙著『本統の賢治と本当の露』や本書『このままでいいのですか『校本宮澤賢治全集』の杜撰』等で明らかにしたように、そうとまでは言い切れない。従って、いわば意図的に創られた賢治を子どもたちに教えていることになりかねないのだから、はたしてこのままでいいのだろうかということでもある。少なくともこの賢治終焉前日の面談の内容は事実とは言い切れないのだから、もうこのような教材は教科書から速やかに削除すべきでしょう。純真な子どもたちを騙している恐れが頗る大きいのだから。
 それでもやはりこの面談をこれからも子どもたちに教えたいというのであれば、まずはこの面談の内容が事実であったということを実証せねばならないことは当たり前のことだ。そしてもちろん、それが出来ないうちはこのようなことを教えることが許されないこともまた当然のことだ。
 言い方を換えれば、谷川徹三たちや「校本年譜」そして「国語教科書」は、
   『あなた方は私を使って純真な子どもたちを騙しているのではありませんか。今までも、これからも』
と賢治から厳しく問われているかも知れない。
 私はかつては、賢治関連については、まずは〈悪女・高瀬露〉という冤罪を晴らし、賢治が血縁以外の女性の中で生前最も世話になった高瀬露の尊厳と名誉を取り戻すことが、人権問題だから何よりも優先されるべき課題だと思っていた。そのことを願って出版したのが『本統の賢治と本当の露』だった。ところがその後、この冤罪事件は「倒産直前の筑摩書房は腐りきってい」たということが大きく関わっていたに違いないと思えて、そこに留まっていたのではこの冤罪は晴らしにくいということを私は覚った。
 そこで、そのための一つの取り組みとして次は、『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』を出版し、なぜ「新発見の252c」と、はたまた、「判然としている」と断定出来たのかという、我々読者が納得出来るそれらの典拠を情報開示していただけないか、と筑摩書房に直接お願いをした。しかし、筑摩書房からは何の音沙汰もない。
 ならばということで、今度は、この『このままでいいのですか『校本宮澤賢治全集』の杜撰』という冊子を出版し、これまでは遠慮していたことも出来る限り正直に述べた。それは、私もそろそろ老い先短い歳になってきたのでこの冊子をいわば「遺言」として残すことにより、一人でもいい、私の主張を知ってくださる方が現れて、「校本全集」の杜撰さが段々に解消されてゆくことを願ってである。
 なお、以前、拙著『本統の賢治と本当の露』を出版した直後、とある学会が特に私(鈴木守)を個人攻撃する文書がその学会員全員に配られた。するとそのことを知ったある方が慌てて『鈴木さんはこのままだとこれによって殺されますよ』という心配の電話を掛けて寄越したことなどがあった。ただし、『本統の賢治と本当の露』は、今回の『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』と比べればまだまだ私は穏やかに、そして筑摩書房に対しては控え目に書いたものだったというのに。しかし、今回の拙著は、私が今までの経緯から、後世に言い残しておくべき「遺言」という覚悟で出版したものであるから、遠慮はせずに、はっきりと書き記した。従って、今回はそれ以上のことが起こるかも知れないということを私は恐れている。
 がしかし、一連の拙著の出版は恩師岩田純蔵先生からの黙示のミッションでもあり、高瀬露の濡れ衣を晴らすためであり、そして本当の賢治を私たちの許に、なにより子どもたちに、そう未来の子どもたちのために取り戻すためであるという自恃を失いたくないので、負けない。だから最後に、特にこう言いたい。

 国語の教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えて、純真な子どもたちを騙している虞れのあることをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。

 これで、至らぬ点は多々あるとは思うが、私淑してきた上田哲の遺志を少しは引き継げたものとしての拙著、『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』を出版出来ることになって、安堵している。

 最後に、今まで多くのご指導ご助言、沢山のご叱責やご批判、そしてご協力賜りました皆様方に御礼申し上げます。特に、最終段階で多くのご指導とご指摘を賜りました吉田矩彦氏に深く感謝申し上げます。そしてまた、出版の労をとっていただいた録繙堂出版の藤澤史志氏にも篤く御礼申し上げます。
 令和5年8月30日
鈴木 守
 
〈付記〉
  引用文は原文のままで用いたが、漢字の「旧字体」が一部見つからず現代表記としたものもある。
 故人の方の場合、敬称につきましては基本的に省略させていただいた。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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