みちのくの山野草

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3301 賢治と「禁酒運動」

2013-05-27 09:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛される賢治に》
「禁酒」主義だった賢治
 この年、昭和2年の8月といえば、やっとできあがった農民劇の脚本を携えて松田甚次郎が山形の新庄から賢治の許をはるばる訪ねて来た月だ(これが2度目で、結果的には最後となる訪問となった)が、その当時、甚次郎もその新庄で禁酒運動を繰り広げていたという。するとその頃というのは禁酒運動が全国的に繰り広げられていたということなのだろうか。
 そういえば、下根子桜で賢治と少なくとも半年以上は一緒に生活したいた千葉恭の証言によれば、次のようなことがあったという。それは千葉恭が行った講演会での、質問に対するある答えである。
 羅須地人協会ので生活について。
 弟子入りした当時、賢治から”君がほんとうに農民指導者になろうとするならば、次の三つのことを自分に約束出来るか。その一つは酒を飲まないこと、その二つは煙草を喫わないこと、その三つはカカアをもらわないこと”と言われた。私は考えてみた結果、酒を飲まないことも出来るし、カカアをもらわないことも出来るが、どうしても煙草だけはやめられそうもないので、そう答えた。賢治は”煙草をやめられないようでは、酒のことだって、カカアのことだってアテにならない。この話は一切御破算にしましょう”と、一笑に附されてしまつた。
              <『イーハトーヴォ』復刊5(宮沢賢治の会)11pより>
 したがって、このことから賢治自身ももちろん「ほんとうに農民指導者」になろうとしていたであろうから、煙草も吸わず、独身主義で、しかも「禁酒」主義であったということなのであろう。
 ところで、賢治は基本的には詩の日付を書き変えることがないということだから、「藤根禁酒会へ贈る」の日付が「一九二七、九、一六」となっていることから、賢治がこの日昭和2年9月16日に隣村の岩崎を訪ねたことはほぼ間違いなかろう。そして、この詩からは賢治の気持ちの昂ぶりを読み取ることが出来る。
 一方、昭和2年のこの頃の賢治といえば、8月迄は旺盛だった詩の創作が9月に入って突如激減した。その9月に詠んだのが「藤根禁酒会へ贈る」と「華麗樹種品評会」であり、それ以後しばらく皆無となってしまって、再び賢治が詩を詠んだのは明けて昭和3年の4月の「台地」であったようだ。




 さりとて、この頃に賢治が他にやっていたことで「新校本年譜」に書かれているものは何もないと言っていいくらいだ。ちなみに、8月20日に〔何をやっても間に合わない〕などの沢山の詩を詠んだことが記載されているが、その後賢治自身が行ったこととしては時系列的に示せば、
 ・9月16日にこの「藤根禁酒会へ贈る」を詠んだこと、
 ・日にちは確定していないが9月中に「華麗樹種品評会」を詠んだこと、
 ・そして10月21日に「レコード交換会」案内の書簡を出したこと
である。つまり、8月21日~10月20日の間に賢治が行ったことは「賢治年譜」上では、こ「藤根禁酒会へ贈る」を詠んだことだけしか明らかになっていない。一体賢治はこの2ヶ月の間何をやっていたのだろうか。「禁酒運動」に専念していたとでもいうことなのだろうか…

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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
クリックすれば見られます。


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