みちのくの山野草

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賢治は昭和2年11月頃から3ヶ月間滞京

2021-11-16 20:00:00 | 「賢治年譜」等に異議あり
《『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版)の表紙》

 さて、『新校本年譜』の大正15年12月2日の記述は現定説となっているわけだが、その典拠だと言っているところの「沢里武治氏聞書」自体がこの定説の反例となっているので、現定説は修訂せねばならない。ではそれに伴って、「賢治年譜」はどのように修訂すればよいのだろうか。
 
 まず、第一に、ここまでの検証結果によって、
 みぞれの降る、昭和2年の11月頃の寒い日、セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。教え子の沢里武治がひとり見送る。「沢里君、セロを持って上京して来る、今度は俺も眞剣だ少なくとも三か月は滞京する。俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが沢里は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。そして、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ、帰郷なさいました」と沢里は証言している。………◎
ということが、そしてこの沢里の証言内容は事実であったということも明らかになった。
 とりわけ、誰もこんなことは主張していないが、私は仮説、
   賢治は昭和2年11月頃から3ヶ月間滞京していた。
が検証できた。しかも、このことは平成30年出版の拙著『本統の賢治と本当の露』等で既に公にしているが、その後誰一人としてこの仮説に対して反例を突きつけてはくれない。したがって、今後これに対する反例が突きつけられない限り、
   賢治は昭和2年11月頃から3ヶ月間滞京していた。………………①
は事実であった、ということである(これが仮説検証型研究の威力である)。つまり、「賢治年譜」にこのことを新たに付け加えなければならない。

 そしてこれに伴って、大正15年12月2日については次のように修訂せねばならない。
 大正15年12月2日 沢里武治〔、柳原昌悦〕に見送られながら上京(ただし、この時に「セロを持って」という保証はない)。………………②
というようにである。
 それは、実は柳原昌悦の次のような重要な証言

【『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』29p】

があるということを、菊池忠二氏(柳原と菊池氏は向中野学園勤務時、同僚であった)から私(鈴木)は教わっている(平成23年11月26日)からである。つまり、
 「羅須地人協会時代」の賢治の上京について、柳原昌悦が、
「一般には沢里一人ということになっているが、あの時は俺も沢里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていないことだけれども」
と証言していたというのである。
 さて、では柳原が言うところの「あの時」とは一体いつの日のことだったのだろうか。それは素直に考えれば、現定説の、「セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」となっている、大正15年12月2日であることは直ぐに分かる。つまり、「現定説」では同日に賢治を見送ったのは「沢里武治がひとり」ということになっているが、その日に実は柳原も沢里と一緒に賢治を見送っていた、ということを同僚の菊池氏に対して柳原自身が証言していたことになる。なお、この時に賢治が「セロを持って」ということは、沢里も柳原もそれ以外の誰も証言していない。

 要するに、現「賢治年譜」には前掲の①及び②のような修訂が少なくとも必要であるある。

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 来る12月16日付で、新刊『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))を発売予定です。
【目次】

【序章 門外漢で非専門家ですが】

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