みちのくの山野草

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昭和2年賢治は二度上京

2021-11-17 18:00:00 | 「賢治年譜」等に異議あり
《『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版)の表紙》

 ところで、羅須地人協会時代(大正15年4月1日~昭和3年8月10日、下根子桜時代)の賢治の詩の創作数の推移を調べてみると、昭和2年9月に入ると創作数は一気に激減して2篇のみとなり、その後の10月~3月の半年間はなんと1篇の詩すら詠まれていない。一体そこにはどんな変化が賢治には起こっていたのだろうか。
 まず、9月に入って突如詩の創作数が激減し、以後しばらく皆無となってしまった原因は、大正15年の12月と同様にそれこそ上京していたがためということだってあり得る。ちなみに、昭和2年9月については、かつての殆どの「賢治年譜」には次のように、
昭和二年 三十二歳
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
……★
と記載されていたから、9月に入って突如創作数が激減し、以後しばらく皆無となってしまったのは、この記載どおりに賢治は上京していたからであるとすれば説明が付く。
 そしてそれに続く、昭和3年3月までの詩の創作の空白期間は、「沢里武治氏聞書」の中にあるように、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気に」なったせいで、滞京中とその帰花後の賢治には詩を創作するだけの時間的な余裕がなかったからだということで説明が付く。
 ちなみに、かつての殆どの「賢治年譜」には
 昭和三年 三十三歳
 一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊に依る榮養不足にて漸次身體衰弱す。
と記載されているから、なおさらにである。
 言い方を換えれば、『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』の中で沢里は、「そして先生は三か月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国(帰花)なさいました」と証言しているわけだが、昭和2年の11月頃上京した賢治が三か月後に病気になって帰花したとすれば、昭和3年1月頃の賢治は帰郷せねばならなかったほどの病気だったということになるから、前掲の「賢治年譜」の「この頃より過勞と自炊に依る榮養不足にて漸次身體衰弱す」という記載とこの証言は符合している。よって、当時の年譜のこの記載が逆に、沢里のこの証言内容の信憑性が高いということを教えてくれる。延いては、沢里の証言内容の信頼度は一般に高そうだということでもある。
 あるいは、こんなことも示唆してくれる。それは前掲の『原稿ノート』の中で、
 「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞剣だ少なくとも三か月は滞京する。俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。
と沢里は証言しているのだが、この証言に従えば、
    「今度」(昭和2年の11月頃)以前の、それもそれほど遡らない時期に賢治は、短期間の上京をしていた。
であろうことが示唆される。つまり、昭和2年の11月頃の、それほど遡らない時期にも賢治はこのような「短期間の上京」をしていた蓋然性が高い。すると、当然思い付くのは前掲の〝★〟だ。つまり、かつての「賢治年譜」の記載、「昭和二年 九月、上京」が、このような「短期間の上京」と符合するということだ。
 そこで、しかし賢治はこの9月の上京では悔いが残ったので、「今度は俺も眞劍だ、少なくとも三か月は滞京する」と決意して再び同年11月頃に、「沢里君、セロを持つて上京して来る」と愛弟子沢里に語ったのだと解釈すれば、すんなりと辻褄が合うことに気付く。
 そこで私は合点する。小倉豊文はそのことをよく調べていたので、昭和28年発行の『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店)に所収した「賢治年譜」の中に、
大正十五年(1926) 三十一歳
十二月十二日、東京國際倶樂部に出席、フヰンランド公使とラマステツド博士の講演に共鳴して談じ合ふ。
昭和二年(1927)  三十二歳
 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作。
 十一月頃上京、新交響樂團の樂人大津三郎にセロの  個人教授を受く。
昭和三年(1928) 三十三歳
 一月、肥料設計。この頃より漸次身體衰弱す。
             <『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年6月10日発行)所収の「年譜 小倉豊文編」>
と書けたのだということにだ。
 そして改めて、小倉豊文のこの「賢治年譜」の、
   昭和2年賢治は二度上京
という意味の記載は鋭いし、的確だと私は感心し、流石は小倉は歴史学者だと頷くのだった。私の知る限り、宮澤賢治が昭和2年に二度上京したという意味のことを述べている人は小倉以外にはいないし、まして、同年「十一月頃上京、新交響樂團の樂人大津三郎にセロの個人教授を受く」と断定している人は小倉のみだ。私はそこに、小倉の矜持と自恃を垣間見た。

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【目次】

【序章 門外漢で非専門家ですが】

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