《『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版)の表紙》
前回、『新校本年譜』の註、
*65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
に従うと、大正15年12月2日の「賢治年譜」の記述内容は破綻しているということが明らかになった。その一方で、沢里の証言を勝手に書き変えるというようなあるまじき事をせずに、素直にそのまま「昭和二年十一月ころ」を適用すればどうなるだろうか。そこで、そのために、その頃の賢治の動静を『新校本年譜』から抜き出してみると、昭和2年11月1日~昭和3年3月13日の期間については下掲のような《表2》となる。
【『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』25p】
すると容易に分かることだが、典拠としている「沢里武治氏聞書」の年次を「訂正」せずに素直にそのまま「昭和二年十一月ころ」を適用すれば、この期間中日に、この「三か月間」がすんなりと当て嵌まる空白期間(昭和2年11月4日~昭和3年2月8日)があることが分かる。なんともはや、「訂正」をすれば当て嵌まらないのに、「訂正」しない方がすんなりと当て嵌まるのである。
つまり、「注釈*65」のような年次の「訂正」の仕方は無茶だということが前回明らかになったし、その上このような「訂正」をせずにそのまま素直に当て嵌めてみればすんなりと『新校本年譜』に当て嵌まるから、大正15年12月2日の現定説は棄却するしかないということをダメ押ししているのである。
かくの如く、少し調べてみるだけでこの現定説は成り立ち得ないということが直ぐ分かるのに、賢治研究者の誰一人としてこのことに対して異議申し立てをしていないことが、門外漢で非専門家の私にはなおさら不可思議に見える。
同時に、訂正しなければ素直に当て嵌まるのにそうなっていないということは、その裏にはとんでもないことがあるのではなかろうかと訝られても致し方がなかろう、と私は同情してしまう。
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《ご案内》
来る12月16日付で、新刊『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))を発売予定です。
【目次】
【序章 門外漢で非専門家ですが】
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