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2 『宮澤賢治物語』の改竄

2021-03-18 16:00:00 | 賢治昭和二年の上京

2 『宮澤賢治物語』の改竄
 そこで今度は、先の新聞連載のものと次の単行本のものとを見比べてみることにした。

 決定的違い
 ではその、単行本の『宮沢賢治物語』(岩手日報社、昭和32年8月発行)の当該部分を次に示す。
【Fig.2 「セロ 沢里武治氏からきいた話」】

             <『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月発行)217pより抜粋>
セロ  沢里武治氏からきいた話
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
「上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る。」
と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。…(中略)…その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
「沢里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。」
 よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。
 セロは私が持つて、花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。発たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車を待つておりました…(以下略)…
              <『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月発行)217p~より>
 瞥見して妙である。そこで落ち着いてもう一度両者を見比べてみると、一箇所だけ全く違っている箇所があった。それは、
 単行本の『宮澤賢治物語』の場合における
    ・昭和二年には上京して花巻にはおりません。…………①
 新聞連載の『宮澤賢治物語』の場合における
    ・昭和二年には先生は上京しておりません。…………②
の部分であった。この両者の違いは字数としてはたった一字だが、意味としては全く逆であり、決定的な違いである。①ならば上京していることになるし、②ならば賢治は上京していないということになるからである。もちろん新聞連載の方の②は関登久也存命中のものであり、この②の方が本来の澤里武治の証言であることが判る。
 ということは、連載『宮澤賢治物語』を単行本『宮澤賢治物語』として出版する際に、
  ・関登久也以外の人物がたまたま間違えた。
ということが起こったか、あるいは
  ・関登久也以外の人物がわざとある意図の下に書き変えた。
という行為があったと考えられる。

 行われていた改竄
 さて、では実際にはどちらの方が起こっていたのか。私は、後者の方が起こっていたと見た。なぜならば、他の箇所は基本的には違っていないのにもかかわらず唯一この箇所だけが違っていて、なおかつ①と②とでは全く逆の意味になってしまうからである。それも重要な意味を持っている一文だからである。
 したがって、やはりここは改竄が行われていたと判断できる。そしてまた、こうまでもして改竄せねばならなかった理由は何なのか、ということを想像しただけで私はちょっと戦慄を覚えてしまった。それにしてもこの書き変えが意図的なものであったとするならば、その巧妙さに私はただただ呆れるばかりだ。
 一体、澤里はこのような改竄が為されたことを知ってどのように思っただろうか。ついつい私は澤里武治の気持ちを忖度してみたくなる。おそらく澤里は、
 どう考えたって昭和2年の11月頃の霙の降るある日、チェロを持って上京する賢治を花巻駅でただ一人見送った。そしてそのように関登久也の取材において証言した。ところがどういう訳か②の部分が①のように書き変えられ、あげく、いつの間にか「宮澤賢治年譜」ではそれは大正15年の12月2日のことであるとされてしまった。
と悲嘆に暮れてたのではなかろうか。もちろん控え目な性格の澤里のはずだからそんなことはないとは思うが、もしかすると牽強付会なことだと実は苦々しく思っていたかもしれない。
 またこのような思いに駆られているのは著者としての関登久也も同様であろう。まして、もし改竄されていたとなればなおさらにである。さぞかし、天国の澤里と関の二人は複雑な想いと遣る瀬無さを抱きながら互いに慰め合っていることであろう。

 賢治の場合にもあるまさか
 とまれ、関登久也が最初『岩手日報』に掲載した『宮澤賢治物語』の中身と、その後それらをまとめて出版した単行本の『宮澤賢治物語』の中身との間には、関登久也のあずかり知らぬところで決定的な違いが生じていたということである。何者かが改竄していた。そしてそれゆえに、澤里の本来の証言内容は全く逆な内容となって巷間流布してしまったということになる。
 私とすればこれは極めてショックなことだった。今まで少しく宮澤賢治のことを調べてみた中でこれほどショックだったことはない。これとやや似たことはかつて幾度か目の当たりにしきた。しかし、それらは著者の筆がついつい勢いで滑ったり、検証を徹底できなかったりしたからであり、まだそれらを許容できる心の余裕が私にはあった。ところが今回の場合は、あろうことか他人の著作を公の媒体上で改竄していたからである。
 そこで私が今後肝に銘じなければならないと悟ったことは、賢治関連の図書等に載っている「証言」等を扱う際も慎重であらねばならないときもあるのだということである。そんなことは当たり前のことだと嗤われそうだが、まさか賢治に関する図書等においてそのようなことがあるなどということは私には思いも寄らなかった。そのまさかが、それも改竄というまさかが賢治関連のことでも現実に起こっていたのである。

 「澤里武治氏聞書」の初出
 ところで、この「澤里武治氏聞書」の初出はいつどこでだったのだろうか。
 調べてみるとそれは昭和23年2月発行の『續 宮澤賢治素描』においてであった。そしてその「序」は次のようになっている。
 宮澤賢治逝いて十四年目の初冬に、因縁あつて私は眞日本社より續宮澤賢治素描を刊行することとなつた。前著素描は、一度東京の書店より出版したもので、即ち再刊であるが、續の方は悉く新しい原稿に依るものである。續に於ては、私は多くの門弟知己から、生前の賢治との交渉顛末を聽取し、それ成可くその儘文章にした。果たしてこの私の採録が正しいかどうか、書き上げた上に、一度その物語りの人達の眼を通しては頂いたが、それでも多少の不安がないでもない。
 昭和廿一年十月卅日  
岩手花巻にて
        關登久也
              <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)3pより>
 したがって、澤里が関登久也から「聽取」を受けたのはいつであったかは定かではないにしても、少なくとも昭和21年10月30日以前であることはこれで判った<*1>。賢治が亡くなって14年も経っていなかった時のことになる。
 そしてその「聽取」が『續 宮澤賢治素描』に「澤里武治氏聞書」として所収され、中身は次のようなものであった。
   澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…(中略)…滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
              <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)60p~より>
 したがって、チェロを持って上京する賢治を澤里がひとり見送った時から20年も経ってない頃の、澤里35歳以前の血気盛んな歳頃の「聽取」であったということになる。となれば、とりわけ賢治から可愛がられ、かつ賢治を尊崇していた花巻農学生時代の澤里に対して賢治が、
 澤沢里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。
と悲壮な決意を語り、
 最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。
という賢治の述懐を聞いたであろう愛弟子澤里が、霙の中チェロを持って上京する賢治をひとり見送った年次のことを間違うことはあまりなかろう。
 そしてそもそも、その時期「昭和二年の十一月ころ」の記憶に自信がなければ、愛弟子である澤里は「どう考えても」等というような言い回しはしないであろう。まして、虚偽の証言をするなどということはまず無かろう。

 「澤里証言」の経年変化
 ところで、関登久也が澤里から「聽取」した「チェロを持って上京する賢治を澤里ひとりが見送った」件に関する証言は、次のような関登久也の幾つかの著書に載っている。年代順にそれを並べるとその変化が垣間見られる。
(1)『續 宮澤賢治素描』(眞日本社、昭和23年2月)<*2>
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。

(2)『宮沢賢治物語(49)』(『岩手日報』連載、昭和31年2月22日)
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。

(3)『宮沢賢治物語』(単行本、岩手日報社、昭和32年8月)
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。

(4)『賢治随聞』(角川書店、昭和45年2月)
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。

(5)『新装版 宮沢賢治物語』(学習研究社、平成7年12月)
 どう考えても昭和二年十一月頃のような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。
  

 では、初出が『續 宮澤賢治素描』であったことを踏まえた上で、次の章において、二人の最愛の教え子達の証言等に話を移そう。

<*1:投稿者註> その後、『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」の手書き原稿を見ることができたので、この件に関しては拙著『本統の賢治と本当の露』の34pに載せてある。そしてこの資料によって、澤里が「聽取」を受けたのは、昭和19年3月8日であったと判断できた。
<*2:投稿者註> 関連する澤里晩年の自筆の資料も後に見ることができたので、『本統の賢治と本当の露』の26pにおいて紹介してある。なお、これらの件については、後ほど本シリーズの最後において再び論ずる予定である。

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