みちのくの山野草

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㈡ 菊池忠二氏の疑問

2024-01-01 16:00:00 | 『校本宮澤賢治全集』の杜撰











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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
  ㈡ 菊池忠二氏の疑問
 それにしても、この面談に対して疑問を呈している人は、私が今まで賢治周辺を渉猟してみた限りでは、菊池忠二氏しかいない。そう言う私もまたしかりで、このような面談があったのだということを学校で教わったことなどにより、賢治は貧しい農民のために己の命まで犠牲にして尽くした聖人だとかつての私は素直に信じてきた。そして、そのことを象徴するのが私にとっては、まさに「旧校本年譜」や『新校本年譜』の次の記載、
九月二〇日(水) 前夜の冷気がきつかったか、呼吸が苦しくなり、容態は急変した。花巻病院より来診があり、急性肺炎とのことである。…筆者略…
 夜七時ころ、農家の人が肥料のことで相談にきた。どこの人か家の者にはわからなかったが、とにかく来客の旨を通じると、「そういう用ならばぜひあわなくては」といい、衣服を改めて二階からおりていった。玄関の板の間に正座し、その人のまわりくどい話をていねいに聞いていた。家人はみないらいらし、早く切りあげればよいのにと焦ったがなかなか話は終らず、政次郎は憤りの色をあらわし、イチははらはらして落ちつかなかった。話はおよそ一時間ばかりのことであったが何時間にも思われるほど長く感じられ、その人が帰るといそいで賢治を二階へ抱えあげた。───★                〈『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)714p~〉
つまり、昭和8年9月20日、賢治終焉前日の定説であった。
 とはいえ、この「定説★」(以後、この9月20日、つまり賢治終焉前日の記載〝★〟のことをこう表記する)は賢治の終焉に直接関わることであり、他のこととは違う。畏れ多くて私如きが軽々しく触れるべきものではないと、これまでの私は特別扱いをしてきた。
 しかしここでもまた、あの石井洋二郎氏の警鐘が鳴った。「あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」という警鐘がである。
 私は覚悟した。特別扱いはもう止めようと。そして、その菊池忠二氏の著書、『私の賢治散歩 下巻』を本棚から取り出した。すると同書では、この件に関して菊池氏は次のような疑問を投げかけていた。
      前夜の面談
 それにしても三十七年の短かい生涯だった宮沢賢治の最後は、伝えられる通りだとすれば、なんという見事なものであったろうか。
 とくに昭和八年(一九三三)九月二十日、死の前日の夜に来訪した農民と稲作や肥料の相談に、一時間ちかくもていねいに応じたということは、賢治らしい生涯の最後をかざるにふさわしい、まことに英雄的なエピソードであったと思われる。…筆者略…たしかな事実であったかもしれないが、またいくつかの疑問な点のあることも感じないわけにはいかない。
 この年九月十九日の夜は、当時の花巻祭りの最終日であり、宮沢賢治は御旅屋から鳥谷ヶ崎神社の本殿にかえる神輿を、ぜひ拝みたいというたっての希望で、店先にたってそれを見送ったといわれている。…筆者略…
 翌二十日の朝呼吸が苦しくなり容体が変ったので、花巻共立病院の医師の往診をうけ、急性肺炎のきざしがみとめられたという。絶筆の短歌二首が書かれたのもこの日である。そしてこの日の夜七時ころ農民の来訪をうけることになったのである。…筆者略…
 それを聞いた彼は「そういう用事ならぜひ会わなくては」といって衣服をあらため、二階からおりて農民のまっている店先へ出たのだという。どの記録をみても、まったく自力で歩いて出たような印象をうける。しかし前記の宮沢磯吉の回想や『賢治年譜』の記述が事実であったとすれば、このとき賢治は自力で店先まで歩いてゆくことができたのかどうか、はなはだ疑問なのである。
 もし家族の手をわずらわしてまで出たのだとするならば、それほど農民が急ぎの大事な用件をもってきたのだろうかと思う。岩手におけるこの年の稲作は近来にないほどの大豊作だった。…筆者略…たぶんその農民は、この年のめぐまれた収穫を思いえがきながら、次年度の稲作とその肥料相談にやってきたのであろう。ことは急を要する問題ではなかったのだ。…筆者略…それでも、このときの両者の対談は一時間ちかくにもおよんだといわれている。その間賢治は店内の板敷に正座して、農民のとつとつと話す質問に、わかりやすく答えながらていねいに応対し、そのいきさつを蔭で見守る家族の方は、ハラハラしながら早く終わってくれるのを、祈るようにまっていたという。
 私にとっての最後の疑問は、翌日の昼すぎに臨終をむかえるほどの重い結核の病人が、前の晩に正座して、一時間ちかくもはたして対談できるものだろうか、という点である。もっともそういう対談で無理をしたからこそ、病勢が急にあらたまってしまった、という事情もあるにはちがいない。…筆者略…
 もしこの事実が、宮沢賢治のたぐいまれな利他的精神のあらわれとして、これからも末長く語り伝えられてゆくものとするならば、私の感じたこれらの小さな疑問が、すこしでも明らかになってほしいものだと、願わずにはいられないのである。             〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著、2006年)330p~〉
 確かにそのとおりであり、岩手におけるこの年の水稲は反収2.22石(『都道府県農業基礎統計』(加用信文監修、農林統計協会))の大豊作だったので、「次年度の稲作とその肥料相談にやってきたのであろう。ことは急を要する問題ではなかったのだ」った。
 だから引っかかる。「定説★」とこの菊池忠二氏の疑問とを読み比べていると違和感を感じてだ。
 ところがその違和感を軽くしてくれる本が最近出版された。『改訂版 小学生のための 宮沢賢治』(巽聖歌著、畠山貞子編、録繙堂出版、令和5年4月1日)という本である。
 同書には、賢治終焉前々日の面談のことが次のように紹介されていた。
  十三、賢治のりんじゅう
 花巻の、鳥谷崎神社のおまつりは、毎年、九月十九日です。
 昭和八年(一九三三年)のこの日、賢治は、ちょうど気分がよかったので、店にでて、ミコシの通るのを見ていました。
 この二・三年 、岩手県地方は、ひどい不作(お米がとれない)で、みんなが、こまっていましたが、この年は、どうやら、豊作(たくさんとれる)です。それで、おまつりも、しぜん、にぎやかでした。賢治も、なんとなしに、明るい気持ちで、そのおまつりを、見ていたのです。
 すると、そこへ、ひょっこりと、賢治の知っている人が、通りかかり、
「や、先生。たいへん、おわるいと聞いていましたが、大分、顔色がよくなりましたね。」
と言って、家に入ってきました。
 この人も、賢治のおしえをうけて、まじめな百姓のしかたを、けんきゅうをしている人でした。
 わるい気持ちではなかったのでしょう。しごとに、ねっしんな人だったので、ついに、晩まで、いろいろと、話しこんでいました。
 そのとき、家の人たちは、
「あんなに話しこんで、からだに、さわらなければいいが―。」
と、しんぱいしていたそうです。
〈『改訂版 小学生のための 宮沢賢治』(巽聖歌著、畠山貞子編、録繙堂出版)91p~〉
〈令和5年5月29日に、編者の畠山貞子氏に筆者が伺ったところ、この「十三、賢治のりんじゅう」については、子どもたちに読みやすく説明を付け加えたところはあるが、その内容は初版本のものと基本的には同じとのことであった。〉
 まず、この面談についての菊池忠二氏の記述と「校本年譜」の「定説★」とを比べてみると、前者にはないが、後者にはある、「どこの人か家の者にはわからなかったが」などの記述がとても気になる。「呼吸が苦しくなり、容態は急変した。花巻病院より来診があり、急性肺炎」の賢治が、なんと「どこの人かわからなかった」農民に対して、「衣服を改めて二階からおりていった。玄関の板の間に正座し、その人のまわりくどい話をていねいに聞いていた」ということは、普通、常識的にはあり得ないからだ。相談の申し出の断り方はいくらでもあっただろうに、そのかけらさえも「定説★」からは窺えない。一方で「定説★」の内容が事実であったならば、花巻地方の農民は愚鈍だと侮っているようなものであり、もしこれが嘘であればこの「賢治年譜は」彼等を愚弄していることになる。
 だから私は、この巽聖歌の記述の仕方に接すると、ほっとする。このような相談者と賢治であればそれは十分にあり得た面談だと領会出来るからだ。そしてまた、その農民は「賢治のおしえをうけて、まじめな百姓のしかたを、けんきゅうをしている人」であり、「しごとに、ねっしんな人だった」というからだ。おのずから、「わるい気持ちではなかったのでしょう。しごとに、ねっしんな人だったので、ついに、晩まで、いろいろと、話こんでいました」ということもまた、素直に納得できる。そして何より、「定説★」とは違って、相談に来たこの農民のことを巽は侮っていないし、それどころか逆に、評価しているからだ。そこで、この三つについて表にまとめてみたところ、後掲のの《表5 宮澤賢治終焉前々日、前日の面談》のようになった。
 もちろん、概観しただけで、〝⑵「校本年譜」〟と巽聖歌の〝⑶〟とでは違いが大きいことが直ぐ分かる。それは、面談の日にちが前者では9月20日、後者では9月19日とそれぞれなっていて、根本的に違っているからだ。
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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