みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

1994 肥料設計(とはいうものの)

2011-02-07 09:00:00 | 賢治関連
        《1↑『肥料設計書(昭和2年ころ)』》
             <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)より>

1.目立たなくなった羅須地人協会の活動
 大正15年春岩手日報の取材を受けて
 耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く
と期待に胸膨らませて応えた賢治。
 また、昭和2年2月の岩手日報では
 同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画…
と報道されたのだが、結局「物々交換」も「農民劇」も一回も行えず、4月以降は「羅須地人協会」らしい活動さえも行われなかったと聞く。年譜でそのことを以下で確認してみたい。

 『校本』の年譜や『年譜宮澤賢治伝』によれば昭和2年3月~同7月の主だった事柄は以下のとおりである。
3月 4日 湯口村の高橋末治ら6人、地人協会へ入会。
3月 8日 松田甚次郎の訪問を受ける。
3月20日 羅須地人協会講義 「エスペラント」「地人芸術概論」
春頃  労農党稗貫支部事務所として宮沢右八の長屋を借り受けてやる。
春頃(3月頃?) 花巻警察署刑事の事情聴取を受ける。
4月30日 藤原嘉藤治に菊池清松を紹介。
5月末頃 花巻温泉南斜花壇に花の苗を植える。
6月末頃 小原忠来訪。
     (賢治は『警察に引っぱられるかもしれない』ととりつくしまもないほどの剣幕だったという)
6月末  肥料設計2,000枚を超える。
7月17日? 盛岡測候所で記録を調べる。

 したがってこのとおりであるとするならば、私塾「羅須地人協会」としての活動はやはり4月以降は行われなかったということになろう。
 つまり羅須地人協会が発足したと言われている前年8月から数えても約7ヶ月足らずで、賢治は敢えなく私塾「羅須地人協会」の活動から緩やかに撤退をしていったということになろう。それとももしかすると、表立って活動していないが、こっそりと行っていたのであろうか。

2.旺盛な詩作活動
 一方その代わりに賢治の活動でまず目立つのは、詩の創作が旺盛になっていったということである。以前〝下根子桜の大正15年5~6月のこと〟で触れたようように賢治は前年の
  『大正15年の1月からこの日(5/2)まで全く詩を詠んでいなかった』
のにである。
 おそらく、大正15年とこの昭和2年との間には著しい心境の違いがあったということになろう。物々交換も農民劇も一回も行えず、「農民講座」からさえも敢えなく撤収をせざるを得なくなかった賢治。詩の創作はそのことによって生じた賢治の心の空白を埋める行為だったのだろうか。

 まずは、この時期に詠まれたのであろう幾つかの詩を見てみたい。
一〇二〇
     〔労働を嫌忌するこの人たちが〕
                       三、廿八、
   労働を嫌忌するこの人たちが
   またその人たちの系統が
   精神病としてさげすまれ
   ライ病のやうに恐れられるその時代が
   崩れる光の塵といっしょにたうたう来たのだ
     <詩ノート>
一〇三四
     〔ちゞれてすがすがしい雲の朝〕
                  一九二七、四、八、
   ちゞれてすがすがしい雲の朝
   烏二羽
   谷によどむ氷河の風の雲にとぶ
   いま
   スノードンの峯のいたゞきが
   その二きれの巨きな雲の間からあらはれる
     下では権現堂山が
     北斎筆支那の絵図を
     パノラマにして展げてゐる
   北はぼんやり蛋白彩のまた寒天の雲
     遊園地の上の朝の電燈
   こゝらの野原はひどい酸性で
   灰いろの蘚苔類しか生えないのです
     権現堂山はこんどは酸っぱい
     修羅の地形を刻みだす
       …(略)…
    ひがしの雲いよいよ
    その白金属の処女性を増せり
     ……権現堂やまはいま
       須弥山全図を彩りしめす……
   けむりと防火線
     ……権現堂やまのうしろの雲
       かぎりない意慾の海をあらはす……
   浄居の諸天
   高らかにうたふ
     <詩ノート>
一〇三五
     〔えい木偶のぼう〕
                  一九二七、四、十一、
   えい木偶のぼう
   かげらふに足をさらはれ
   桑の枝にひっからまられながら
   しゃちほこばって
   おれの仕事を見てやがる
   黒股引の泥人形め
   川も青いし
   タキスのそらもひかってるんだ
   はやくみんなかげらふに持ってかれてしまへ
     <詩ノート>
一〇五一
     〔あっちもこっちもこぶしのはなざかり〕
                  一九二七、四、二八、
   あっちもこっちもこぶしのはなざかり
    角をも蹄をもけぶす日なかです
   名誉村長わらってうなづき
   やなぎもはやくめぐりだす
    はんの毬果の日に黒ければ
    正確なる時計は蓋し巨きく
    憎悪もて鍛へられたるその瞳は強し
        小さな三角の田を
        三本鍬で日なかに起すことが
        いったいいつまで続くであらうか
    氷片と光を含む風のなかに立ち
    老ひし耕者もわらひしなれ
      その白い朝の雲
     <詩ノート>
一〇五五
     〔こぶしの咲き〕
                       五、三、
   こぶしの咲き
   きれぎれに雲のとぶ
   この巨きななまこ山のはてに
   紅い一つの擦り傷がある
   それがわたくしも花壇をつくってゐる
   花巻温泉の遊園地なのだ
     <詩ノート>
一〇五六
     〔サキノハカといふ黒い花といっしょに〕
   サキノハカといふ黒い花といっしょに
   革命がやがてやってくる
   ブルジョアジーでもプロレタリアートでも
   おほよそ卑怯な下等なやつらは
   みんなひとりで日向へ出た蕈のやうに
   潰れて流れるその日が来る
   やってしまへやってしまへ
   酒を呑みたいために尤らしい波瀾を起すやつも
   じぶんだけで面白いことをしつくして
   人生が砂っ原だなんていふにせ教師も
   いつでもきょろきょろひとと自分とくらべるやつらも
   そいつらみんなをびしゃびしゃに叩きつけて
   その中から卑怯な鬼どもを追ひ払へ
   それらをみんな魚や豚につかせてしまへ
   はがねを鍛へるやうに新らしい時代は新らしい人間を鍛へる
   紺いろした山地の稜をも砕け
   銀河をつかって発電所もつくれ
     <詩ノート>
一〇五六
     〔秘事念仏の大元締が〕
                  一九二七、五、七、
   秘事念仏の大元締が
   今日は息子と妻を使って、
   北上ぎしへ陸稲播き、
      なまぬるい南の風は
      川を溯ってやってくる
   秘事念仏のかみさんは
   乾いた牛の糞を捧げ
   もう導師とも恩人とも
   じぶんの夫をおがむばかり
       …(略)…
   秘事念仏の大元締は
   むすこがぼんやり楊をながめ
   口をあくのを情けながって
   どなって石をなげつける
      楊の花は黄いろに崩れ
      川ははげしい針になる
   下流のやぶからぽろっと出る
   紅毛まがひの郵便屋
     <春と修羅 第三集>
一〇七五
     〔わたくしは今日死ぬのであるか〕
                       六、一三、
   わたくしは今日死ぬのであるか
   東にうかんだ黒と白との積雲製の冠を
   わたくしはとっていゝのであるか
     <詩ノート>
一〇七八
     〔金策も尽きはてたいまごろ〕
                       六、三〇、
   金策も尽きはてたいまごろ
   まばゆい巻層雲に
   銀いろに立ち消えて行くまちのけむり
     <詩ノート>
一〇八二
     〔あすこの田はねえ〕
                  一九二七、七、一〇、
   あすこの田はねえ
   あの品種では少し窒素が多過ぎるから
   もうきっぱりと水を切ってね
   三番除草はやめるんだ
       ……車をおしながら
         遠くからわたくしを見て
         走って汗をふいてゐる……
       …(略)…
   これからの本統の勉強はねえ
   テニスをしながら 商売の先生から
   きまった時間で習ふことではないんだよ
   きみのやうにさ
   吹雪やわづかな仕事のひまで
   泣きながら
   からだに刻んで行く勉強が
   あたらしい芽をぐんぐん噴いて
   どこまで延びるかわからない
   それがあたらしい時代の百姓全体の学問なんだ
   ぢゃ さようなら
       雲からも風からも
       透明なエネルギーが
       そのこどもにそゝぎくだれ
     <詩ノート>
一〇八三
     和風は河谷いっぱいに吹く
                  一九二七、七、一四、
   南からまた西南から
   和風は河谷いっぱいに吹く
   七日に亘る強い雨から
   徒長に過ぎた稲を波立て
   葉ごとの暗い露を落して
   和風は河谷いっぱいに吹く
       …(略)…
   あゝさわやかな蒸散と
   透明な汁液の転移
   吸収される珪酸や燐酸
   つくられる強靭な維管
   鋼にも克てそのセルローズ
   秋のはじめの風や雨まで
   ならされよならされよ oryza sativa
   oryza sativa よ
   芦とも見えるまで逞しく強く
   こゝをキルギスの曠原とも見せるまでなびいて
   和風は河谷いっぱいに吹く
    <春と修羅 第三集(下書稿(三))>

<註:「春と修羅第三集」は『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)、「詩ノート」は『同第六巻』(筑摩書房)より>

 これらの詩は、賢治は「下ノ畑」で農耕活動や花巻温泉の花壇づくりに従事し、稲作指導に駆けずり回っていたであろうことは窺えるものではあるが、私塾「羅須地人協会」らしい活動は詠み込まれてはいない。

3.肥料設計
 一方、佐藤成は『宮沢賢治-地人への道―』で次のように語っている。
 昭和二年は彼が農業指導に打込んだ最高潮の年でないかと思われる
とか、
 また、この頃すでに肥料設計は二、〇〇〇枚に達していたという。
と。
 ということは、賢治は私塾の活動からは撤退したのだが、その代わりに肥料設計などの農業指導に我を忘れて邁進したというのであろう。

 そこで気になるのが、何を根拠にして設計書が2,000枚に達したと言っているのだろうかということである。残念ながらその根拠を探しているが今のところ見つけられないでいる。このことに関して判ったことは、せいぜい次の詩
一〇二〇
     「野の師父」
    …(略)…
   しかもあなたのおももちの
   今日は何たる明るさでせう
   豊かな稔りを願へるままに
   二千の施肥の設計を終へ
   その稲いまやみな穂を抽いて
   花をも開くこの日ごろ
   四日つゞいた烈しい雨と
   今朝からのこの雷雨のために
   あちこち倒れもしましたが
   なほもし明日或は明后
   日をさへ見ればみな起きあがり
   恐らく所期の結果も得ます
    …(略)…

     <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
の中に
  二千の施肥の設計を終へ
の2,000枚があるということだけである。
 その設計書、昭和3年のものであればかなりの枚数が公になっているのだが、この頃(昭和2年頃)のそれはこのブログの先頭のものしか私は見たことがない。2,000枚の中で見つかっているものはこの他にも少なからずあると思うのだが。

 やはり、下根子桜時代の賢治に関することは判らないことが多すぎるのではとついつい思ってしまう。

 なお、佐藤成が『昭和二年は彼が農業指導に打込んだ最高潮の年』という根拠は何をもってしているのだろうか。ここまでの年譜からはそのことは判らないから、今後8月以降の年譜を調べてゆけばそれが分かってくるのだろうか…。

 続きの
 ”賢治と甚次郎最後の別れ”へ移る。
 前の
 ”甚次郎に託した賢治
に戻る。

 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1993 『胡四王山に咲く花』50... | トップ | 1995 『胡四王山に咲く花』50... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治関連」カテゴリの最新記事