《『大凡の日々-妹尾義郎と宗教弾圧』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
大正2年、東亜同文書院の県費派遣留学生試験に合格した妹尾は新たな別の道に進むこととなり、光明が見えてきたはずだったのだろうが、理崎氏によれば、
その後も次々に病魔に襲われ続けたという。そのために休学して帰郷。しかし病状は改まらず退学。大いなる希望は砕かれてしまった。
病状回復後は、南洋の雄飛を目指して今度は台湾に渡航せしもまた病状が悪化。病気療養のために湯治出掛けた温泉でのこと、宿の主人が田中智学の『日本国の宗旨』を貸してくれたのでそれが切っ掛けで、智学を熟読して日蓮の書を読んで、熱烈な信仰の人になりたい、と思うようになった。
〈32p~〉病状回復後は、南洋の雄飛を目指して今度は台湾に渡航せしもまた病状が悪化。病気療養のために湯治出掛けた温泉でのこと、宿の主人が田中智学の『日本国の宗旨』を貸してくれたのでそれが切っ掛けで、智学を熟読して日蓮の書を読んで、熱烈な信仰の人になりたい、と思うようになった。
という。先に〝病気帰郷・法華経との出会い〟で触れたように、病気のために第一高等学校を休学して郷里に戻った際には、豆腐屋の主人から「小鳥も命は惜しいでしょう。時間潰しに殺生をするよりも、豆腐の臼ひきやお題目を唱える方がどれほど良いかしれません」と諭されて、それ以降その主人の言う通りに実践したということだったが、今回も同様なことがあったことになる。そして遂に妹尾は、
来し方を振り返ってみると、宗教家になるのが自分が生かされる道だと思い、一切を捨てて病躯を伝道に捧げよう、と決意した。
〈34p〉のだそうだ。
その後修業に出た妹尾は、
岡山県の総社で釈日研という日蓮宗の僧に出会った。日研は…(投稿者略)…日清戦争の孤児たちを養っていた妙善尼とともに事業を始め、百数十人を育て上げた。妹尾が訪問した時は二十七人の孤児を養育していた。
〈34p〉という。そして、妹尾は日研の許に留まって子供たちに勉強を教えることになり、出家して日研の弟子になることを決意したのだが、またしても病序が悪化して帰郷することになったのだと、理崎氏は教えてくれる。
妹尾には、上手く回り始まったと思った途端に必ずと言っていいほど蹉跌を来すという繰り返しの連続だったようだ。
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なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
・「聖女の如き高瀬露」
・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
等もその際の資料となり得ると思います。
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