みちのくの山野草

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『本統の賢治と本当の露』(164~167p)

2021-01-15 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉




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ました。母のさとから宣伝されたので、私はそれがじつにつらく何べんも下痢しましたが去年の秋までそれがいゝ加減の玄米食によることを気付きませんでした。気付いてももう寝てゐて食物のことなどかれこれ云へない仕儀です。最近盲腸炎(あらのため)を義弟がやったのでやっとやめて貰ひました。学者なんどが半分の研究でほうたうの生活へ物を云ふことじつに生意気です。<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)399p~>
と書かれているから、「いままで三年玄米食(七分搗)をうちぢゅうやりました」に注目すれば、この書簡の日付は昭和7年6月1日だから、大雑把に言えば、賢治は昭和4年6月~昭和7年6月の3年間玄米食を摂っていたということになる。ということは当然、「羅須地人協会時代」の賢治は玄米食をしていなかったという蓋然性が頗る高い。まして、同時代に玄米食をしていたとすれば、「玄米食によることに気付きませんでした」ということはあり得ないからである。
〈註十一95p〉この書簡は、平成19年4月21日第6回「水沢・賢治を語る集い「イサドの会」」 における千葉嘉彦氏の発表「伊藤ちゑの手紙について―藤原嘉藤治の書簡より」の資料として公にされたものでもある。
〈註十二95p〉伊藤七雄・ちゑ兄妹が花巻を訪れた時期は「昭和3年の春」という説が最近独り歩きしつつあるが、この書簡による限り、「昭和3年」でもないし「春」でもない。昭和3年より前の年の秋である。
〈註十三100p〉森荘已池によれば、
 「私は結婚するかもしれません――」と盛岡にきて私に語つたのは昭和六年七月で、東北碎石工場の技師となり、その製造を直接に指導し、出來た炭酸石灰を販賣して歩いていた。さいごの健康な時代であつた。<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)104p>
ということである。
〈註十四101p〉現時点ではこの発言を活字にする事は憚られるので一部伏せ字にした。
  なおこの『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』については、私は二人の人から違うルートで聞いている(そのうちの一人は佐藤紅歌の血縁者で平成26年1月3日に、もう一人は関東の宮澤賢治研究家である(ただしその時期はそれ以前なのだがそれが何時だったかは失念した))。
〈註十五102p〉ちゑが森に宛てた昭和16年1月29日付書簡の中の次のような一節がある。
 皆樣が人間の最高峰として仰ぎ敬愛して居られますあの御方に、御逝去後八年も過ぎた今頃になつて、何の爲に、私如き卑しい者の関りが必要で御座居ませうか。あなた樣のお叱りは良く判りますけれど、どうしてもあの方にふさわしくない罪深い者は、やはりそつと遠くの方から、皆樣の陰にかくれて靜かに仰いで居り度う御座居ます。あんまり火焙りの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あの方のお帰りになる後姿に向つて、一人ひそかにお誓ひ申し上げた事(あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家で御一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯を御相手するにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらつしやいました。<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)157p>
〈註十六102p〉同じく、2月17日付森宛ちゑ書簡中に、
ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪惡とさへ申し上げたい。
とある。<同164p>
〈註十七103p〉高瀬露絡みの幾つかの賢治の奇矯な行為としては、
  ・「本日不在」の札を門口に貼つた。
 ・顔に墨を塗つて露と会つた。
 ・座敷の奥の押入の中に隱れていた。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著)73p~>
 ・「私はレプラです」(と露に言った。) <同92p~>
ということが述べられている。
〈註十八104p〉〔聖女のさまして近づけるもの〕の中に、
乞ひて弟子の礼とれる
とあるからということで、この「弟子」とは羅須地人協会に出入りした者であり、その点からもこのモデルは露だという人もあるようだがそれは安易である。いかな賢治の詩〔聖女のさまして近づけるもの〕と雖も、安直には還元できない。もしこの弟子が露のことを指すというのであれば、それは裏付けされた場合とか、検証できた場合に初めて論ずる意味がある。まして、詩に書かれていることを元にして安易に推測し、それをそのまま事実とすることなどは問題外であろう。
〈註十九105p〉「〔あすこの田はねえ〕」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」の三篇は、農民の献身者としての生き甲斐やよろこびが明るくうたいあげられているように見える。しかし、「野の師父」はさらなる改稿を受けるにつれて、茫然とした空虚な表情へとうつろいを見せ、「和風は……」の下書稿はまだ七月の、台風襲来以前の段階で発想されており、最終形と同日付の「〔もうはたらくな〕」は、ごらんの通り、失意の底の暗い怒りの詩である。これら、一見リアルな、生活体験に発想したとみえる詩篇もまた、単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟であることがわかる。<『新編 宮沢賢治賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)414p~>
〈註二十111p〉内田康子とは高瀬露の仮名であることが知られている。
〈註二十一129p〉そもそもこの「新発見の書簡252c」という表記からしておかしいのであり、ここはあくまでも「新発見の書簡下書252c」とすべきものだと私は思う。なぜならば、それは相手に届いたものではなく、いわゆる反古に過ぎないはずだからだ。
〈註二十二132p〉例えば境忠一は、
 賢治が高瀬露にあてた事がはっきりしている下書きの中から問題の点だけをしぼってここに紹介してみたい。 <『宮沢賢治の愛』(境忠一著、主婦の友社)156p>
あるいは澤口たまみ氏は、
 けれども露とのつき合いは、それだけでは終わりませんでした。昭和四年には手紙のやりとりがあり、そのなかには結婚についての記述もあります。
 書簡集に紹介されているのは賢治の手紙のみで、いずれも下書きですが、以下に一部を抜粋してみましょう。
「お手紙拝見いたしました。
法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます」
 露はクリスチャンでしたが、このときは「法華経を信仰する」と言って、何とか賢治と会おうとしていたようです。<『宮沢賢治 愛のうた』(澤口たまみ著、もりおか文庫)269p~>
というように断じている。
 しかし、米田利昭は冷静で、
 ひょっとするとこの手紙の相手は、高瀬としたのは全集の誤りで、別の女性か。(愛について語っているのだから男性ということはない。当時男は愛などは口にしなかった。)それに高瀬はクリスチャンなのに、ここは<法華をご信仰>とある。以上疑問として提示しておく。<『宮沢賢治の手紙』(米田利昭著、大修館書店)223p>
と疑問を投げかけている。
〈註二十三135p〉上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』 所収の拙論「聖女の如き高瀬露」を参照されたい。

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           〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
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