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3168 「演習」は「架橋演習」か?

2013-03-28 09:00:00 | 羅須地人協会の終焉
《創られた賢治より愛される賢治に》
 さて、昭和3年10月6日の花巻日居城野における御野立も済み、岩手県内で大々的に繰り広げられた陸軍特別大演習も10月10日に天皇は還行したので終わった。
「演習」の註釈について
 となれば、9月22日には病も癒えて阿部晁からは見舞いも受けて直接まみえたと思われる賢治は、9月23日付澤里武治宛書簡「243」において
 演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
としたためている訳だから、賢治はその後再び下根子桜に戻ったのだろうか。
 そこでもう一度、賢治が下根子桜から実家に戻ってからの賢治の営為を「宮澤賢治年譜」にて以下に確認してみよう。
・八月一一日(土) 「佐々木喜善日記」に賢治からの来信の記事がある。
・八月中旬 …菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で羅須地人協会を訪れる。いくら呼んでも返事がない…その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった、という。
・九月五日(水) 妹クニと刈屋主計の養子縁組が行われたが賢治は病臥中で宴に出られなかった。
・九月二三日(日) 高橋武治あて返書。
 「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。…(略)…演習<*45>が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。」
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜編』(筑摩書房)380p~より>
 ここで私がはっとしたのが<*45>の註釈である。今まで見過ごしていたが、筑摩書房ではこの「演習」については次ように
   盛岡の工兵隊がきて架橋演習などをしていた。
と註釈していて、「陸軍特別大演習」という捉え方はしていなかった<*☆>。
「演習」ははたして「架橋演習」か?
 ここは時期的に考えれば、「盛岡の工兵隊がきて架橋演習」等をしていたということよりは遙かにこちらの「陸軍特別大演習」方が賢治がしたためたところの「演習」に相応しいと思うのだが、なぜそうはなっていないのだろうか。少なくとも『陸軍特別大演習記念写真帖』には「架橋演習」等の写真は載っていないし、『陸軍特別大演習岩手県記録』(岩手県、昭和5年3月)の中にも「架橋演習」に関する記載は見つけられなかった。さて、この「盛岡の工兵隊がきて架橋演習などしていた」の出典は何だったのだろうか。
 たしかにかつて下根子桜近には『陸軍工兵演習廠舎』があって、そこでは「架橋演習」が行われていたようだ。
【大正期の花巻地図(抜粋)】

             <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)47pより抜粋>
 しかし、このことに関しては『花巻の歴史 下』によれば、
(一)工兵廠舎(花巻演習場廠舎)
 第八師団は…(略)…日露戦役後、同隊は盛岡に移転したので、その架橋演習には第二師団管下の前沢演習場を使用することに臨時に定めらていた。
 ところが、その後まもなく黒沢尻――日詰館に演習場設置の話があったので、根子村・谷沢村・花巻両町が共同して敷地の寄付をすることになり、下根子桜に、明治四十一年(一九〇八)、東西百間、南北五十間の演習廠舎を建てた。
 毎年、七月下旬から八月上旬までは、騎兵、八月上旬から九月上旬までは、工兵が来舎して、それぞれ演習を行った。
             <『花巻の歴史 下』(及川雅義著、図書刊行会)66p~より> 
とある。
 したがってこの説明が正しいとするならば、賢治が澤里武治に書簡を宛てたのは9月23日だから、その時点では既に演習は終わっていたと思われる。となれば、賢治が書簡にしたためた「演習」とはこの文章表現からはまだこの日には終わっていないと解釈されるから、やはりこの「架橋演習」ではなくて「陸軍特別大演習」ではなかろうか。
 さもなければ、賢治は
 演習が終わったのでそろそろ根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
としたためるのではなかろうか。

<*☆:筆者註> 「新校本年譜」によれば昭和3年の〝Ⅲ〟に
 一〇月五日 陸軍特別大演習統監のため天皇、盛岡着。六日~八日まで大演習。…
            <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜編』(筑摩書房)382pより>
と記されているが、そこには花巻でも「大演習」が行われたとか、御野立が行われた等の言及は一切ない。

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