《『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)の表紙》
では今度は〝◎同僚達と法華経〟という節に入る。
まずは、田口氏も「農学校の同僚たちの中で、もっとも親しく交際した」と述べているとおりの堀籠文之進についてであり、
この文之進宅へ大正十年十二月下旬から週に一、ニ度時には三夜も四夜も連続して訪れ、日蓮宗聖典(柴田一能・山田一英編、無我山房版、一九一二年二月十日刊)を贈呈し、法華経の寿量品を一緒に唱えた…(投稿者略)…りしたと言う。入信を奨めた保阪嘉内とは決裂状態だったので、新しく、文之進にも入信も奨めたものであろうが、結局この試みは成功しなかった。
〈『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)150p〉ということが述べられている。
そしてこの「週に一、ニ度時には三夜も四夜も連続して訪れ」という件については、地元に住んでいるせいで私も仄聞していた。また、そのことがあって文之進は何度か下宿を変えていたということも同様にである。したがって、賢治のこのような「試み」についてはさほど驚かないが、これに引き続いて述べられてる次の出来事については、もしそれが事実であったとすれば私は驚くというよりは、愕然としてしまう。
このことは後に、大正十二年の三月に一関へ出かけての帰りに、たまたま信仰の話となり、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たせてくれませんか」といい堀籠の背中を打った。「ああこれでわたくしの気持ちがおさまりました。痛かったでしょう。許してください」と言ったという。
〈同150p~〉それはもちろん、こんなひどい「仕打ち」をあの賢治がするはずはないとかつての私は思っていたからであり、そしてこの頃の私は賢治の場合にはそれもあながち否定できないことだということを知ってしまったからである。またもちろん、賢治が「痛かったでしょう。許してください」と謝ったところで、その行為が消えるわけではない。まして、「ああこれでわたくしの気持ちがおさまりました」という前置きがあっての謝罪だから、この賢治の自己中な行為に私は言葉を失ったものだ。賢治とあろう人物が、到底ありうべからざる事をしでかしてしまったものだ。
ちなみに、『新校本年譜』の大正12年3月4日(日)の項にはこの「仕打ち」に関して、
堀籠文之進と一関へハイキング。途中一切英会話。一関で上演中の歌舞伎を見物し、一〇時を過ぎる。汽車もなく、飲み屋で休み、月夜を歩いて帰る。
途中、たまたま信仰の話に及んだとき、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」と言い、堀籠の背中を打った。
「ああこれでわたくしの気持ちがおさまりました。痛かったでしょう。許してください」といい、平泉駅につき待合室のベンチで休み、夜明けとともに下り列車に乗り、花巻まで一睡する。
と紹介されており、さらにこの脚註が次のようになされていた。途中、たまたま信仰の話に及んだとき、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」と言い、堀籠の背中を打った。
「ああこれでわたくしの気持ちがおさまりました。痛かったでしょう。許してください」といい、平泉駅につき待合室のベンチで休み、夜明けとともに下り列車に乗り、花巻まで一睡する。
この項の記述は校本全集年譜のとおり。内容は、堀尾青史による堀籠文之進からの聞き書きと「堀籠文之進日記」によるものと見られる。ただし、現在、「堀籠文之進日記」は所在が不明のために再確認することができない。
一方私は、堀籠と長年懇意だったある方から、堀籠は正直で誠実な人柄であったということを教わっているから、堀籠が嘘を語ったとは思えない。したがって、堀籠に対しての賢治のこの「仕打ち」は限りなく事実であったであろうと判断できるから、前述の「もしそれが事実であったとすれば私は驚くというよりは、愕然としてしまう」という私の発言は、「限りなくこれは事実であったと言えるから、私は驚くというよりは、愕然としてしまう」と訂正せねばならない。それは、今まで私は約10年をかけて「羅須地人協会時代」を中心にして検証作業等を続けてきたのだがその結果は、常識的に考えておかしいと思ったところはほぼ皆おかしかったから、この「仕打ち」に対しても当てはまるだろうと思わざるを得ないからでもある。さりながら、そう内心では思っていても賢治だからということでこのひどい「仕打ち」に限っては、あれこれ論うことを私は今までは憚ってきた。だがしかし、賢治の言動といえどもおかしいことはおかしいのだとやはりはっきりと言わねばならない。このような「仕打ち」は到底許されない身勝手な行為であることは自明のことだし、賢治の場合に限ってだけはそれを見逃してやるということはアンフェアなのだからだ。まして私の場合、このような「仕打ち」は一般的には最も蔑まれる行為の最たるものだと今まで認識していたのだからなおさらにだ。
言い換えれば、あの賢治でさえもこのような一面があったのであり、それもまぎれもない賢治の事実なのだということを受け容れねばならないということである。そしてそれは、賢治といえども神様でもないのだから、ある面では彼も私(たち)と同じようなとんでもない間違いを犯すこともある一人の人間なのだという、当たり前のことでもある。
翻ってみれば、同じようなことの繰り返しになるが、この10年ほどの検証作業を通じて、賢治には不羈奔放な性向があり、常識的に考えてみるとそれはいくら何でもという言動がいくつかあったと言われてるということも私は知った<*1>。さりながら、かつての私であれば賢治のことを尊敬していたから、そのような賢治の言動を等閑視したり、その評価をえこひいきしたりしてきた。しかしそれは当然正しい対応ではなかったのだ、完全に間違っていたのだ。だからこれを機会に、今後ははっきりと主張することにした。賢治のこの「仕打ち」は絶対許されるべきことではなく、いわば賢治の内なる「阿修羅」性がそれをなさしめたと言えるだろうと。
そして、この「仕打ち」が行われたのは大正12年3月4日(日)の春だったということだから、まさに、
春と修羅
と言える。となれば、賢治の、
「おれはひとりの修羅なのだ」<*2>というあの謂いは、たしかにありだ。
と私はごちた。
<*1:投稿者註> 例えば、賢治が大変世話になった高瀬露を拒絶するために賢治は自分をライ病だと詐病したと言われており、森荘已池によれば、
(賢治は)「自分は癩病」と彼女(露)にもいい、協会員にもいつたりした
〈『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池、人文書房)81p〉あるいは、
「私はレプラです」
恐らく、このひとことが、手ひどい打撃を彼女(露)に與え
〈同92p〉恐らく、このひとことが、手ひどい打撃を彼女(露)に與え
ということである。
<*2:投稿者註> 『春と修羅』は大正13年4月刊行であるという。そして、
春と修羅
(mental sketch modified)
心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の濕地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく
琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
〈『校本宮澤賢治全集第二巻』(筑摩書房)20p〉(mental sketch modified)
心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の濕地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく
琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
というように詠まれている。
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