《ルリソウ》(平成31年5月25日撮影)
〈子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない〉
〈子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない〉
さて前回私は、
客観的には、昭和3年の場合、稲作の心配や米の出来を心配して賢治が「ヒデリノトキニハ涙ヲ流」す必然性などなかった。
ということを導き出してしまった。とはいえ、稲作指導者という立場から賢治が同年の「ヒデリ」を心配して「涙ヲ流シ」たということはあり得るので、次にこのことを考察してみたい。
すでに明らかになったように、大正15年の大旱害の際に賢治は何一つ救援活動等をしていなかったと言える。となれば、昭和3年の「ヒデリノトキ」は流石に賢治も、今度こそは田植時のヒデリをとても心配していたはずだ。それは、大正15年の大旱害の際に賢治は何一つ救援活動等をしていなかったという悔いがあったであろうことと、同年の大旱害被害の最大の原因の一つに田植時に用水を確保できなかったことがあったからである。
ところが昭和3年の田植時に賢治は何をしていたのかというと、『新校本年譜』等によれば、
六月七日(木) 水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的をもって花巻駅発。仙台にて「東北産業博覧会」見学。東北大学見学、古本屋で浮世絵を漁る。書簡(235)。
六月八日(金) 早朝水戸着。偕楽園見学。夕方東京着、上州屋に宿泊。書簡(236)。
六月一〇日(日) <高架線>
六月一二日(火) 書簡(237)。この日大島へ出発、 伊藤七雄宅訪問?
六月一三日(水) <三原三部>
六月一四日(木) <三原三部> 東京へ戻る。
六月一五日(金) <浮世絵展覧会印象> メモ「図書館、浮展、新演」。
六月一六日(土) 書簡(238)。メモ「図書館、浮展、築地」「図、浮、P」。
六月一七日(日) メモ「図書館」「築」。
六月一八日(月) メモ「図書館」「新、」。
六月一九日(火) <神田の夜> メモ「農商ム省」「新、」
六月二〇日(水) メモ「農商ム省」「市、」
六月二一日(木) メモ「図書館、浮展」「図、浮、本、明」。
六月二四日(日) 帰花。
〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)〉六月八日(金) 早朝水戸着。偕楽園見学。夕方東京着、上州屋に宿泊。書簡(236)。
六月一〇日(日) <高架線>
六月一二日(火) 書簡(237)。この日大島へ出発、 伊藤七雄宅訪問?
六月一三日(水) <三原三部>
六月一四日(木) <三原三部> 東京へ戻る。
六月一五日(金) <浮世絵展覧会印象> メモ「図書館、浮展、新演」。
六月一六日(土) 書簡(238)。メモ「図書館、浮展、築地」「図、浮、P」。
六月一七日(日) メモ「図書館」「築」。
六月一八日(月) メモ「図書館」「新、」。
六月一九日(火) <神田の夜> メモ「農商ム省」「新、」
六月二〇日(水) メモ「農商ム省」「市、」
六月二一日(木) メモ「図書館、浮展」「図、浮、本、明」。
六月二四日(日) 帰花。
ということである。よってこの年譜に従うと、この時のヒデリに対して、
・大正15年の時とは違って、今年はしっかりと田植はできるのだろうか。
・田植はしたものの今年は雨がしっかりと降ってくれるだろうか、はたまた、用水は確保できるだろうか。
などということを賢治が真剣に心配していた、とはどうも言い切れない。なにしろ、農繁期のその時期に賢治は故郷にはしばらくいなかったからである。・田植はしたものの今年は雨がしっかりと降ってくれるだろうか、はたまた、用水は確保できるだろうか。
それでは賢治がしばしの滞京を終えて帰花した直後はどうであったであろうか。同じく『新校本年譜』によれば、
六月二四日(日) 帰花。
六月下旬〔推定〕〈〔澱った光の澱の底〕〉
七月三日(火) 菊池信一あて(書簡239)に、「約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。」とあり、また「約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして」という。…(投稿者略)…村をまはる方は七月下旬その通り行われる。
七月初め 伊藤七雄にあてた礼状の下書四通(書簡240と下書㈡~㈣)
七月五日(木) あて先不明の書簡下書(書簡241)
七月一八日(水) 農学校へ斑点の出た稲を持参し、ゴマハガレ病でないか調べるよう、堀籠へ依頼。イモチ病とわかる。
七月二〇日(金) <停留所にてスヰトンを喫す>
七月二四日(火) <穂孕期>
七月 平来作の記述によると、「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教へられた事がある。…(投稿者略)…」とあるが、これは七月一八日の項に述べたことやこの七、八月旱魃四〇日以上に及んだことと併せ、この年のことと推定する。
とある。そこで私は、2週間以上も農繁期の故郷を留守にしていた賢治はその長期の不在を悔い、帰花すると直ぐに、六月下旬〔推定〕〈〔澱った光の澱の底〕〉
七月三日(火) 菊池信一あて(書簡239)に、「約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。」とあり、また「約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして」という。…(投稿者略)…村をまはる方は七月下旬その通り行われる。
七月初め 伊藤七雄にあてた礼状の下書四通(書簡240と下書㈡~㈣)
七月五日(木) あて先不明の書簡下書(書簡241)
七月一八日(水) 農学校へ斑点の出た稲を持参し、ゴマハガレ病でないか調べるよう、堀籠へ依頼。イモチ病とわかる。
七月二〇日(金) <停留所にてスヰトンを喫す>
七月二四日(火) <穂孕期>
七月 平来作の記述によると、「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教へられた事がある。…(投稿者略)…」とあるが、これは七月一八日の項に述べたことやこの七、八月旱魃四〇日以上に及んだことと併せ、この年のことと推定する。
〔澱った光の澱の底〕
澱った光の澱の底
夜ひるのあの騒音のなかから
わたくしはいますきとほってうすらつめたく
シトリンの天と浅黄の山と
青々つづく稲の氈
わが岩手県へ帰って来た
…(投稿者略)…
眠りのたらぬこの二週間
瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来たが
さああしたからわたくしは
あの古い麦わらの帽子をかぶり
黄いろな木綿の寛衣をつけて
南は二子の沖積地から
飯豊 太田 湯口 宮の目
湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
〈『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)283p~〉澱った光の澱の底
夜ひるのあの騒音のなかから
わたくしはいますきとほってうすらつめたく
シトリンの天と浅黄の山と
青々つづく稲の氈
わが岩手県へ帰って来た
…(投稿者略)…
眠りのたらぬこの二週間
瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来たが
さああしたからわたくしは
あの古い麦わらの帽子をかぶり
黄いろな木綿の寛衣をつけて
南は二子の沖積地から
飯豊 太田 湯口 宮の目
湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
と〔澱った光の澱の底〕に詠んだのだと推測できたから、帰花後の賢治はさぞかし稲作指導に意気込んでいたであろうとばかり思っていた。というのは、田植やそれが終わったこの時期はあの賢治ならばあちこち飛び回って稲作指導をしていたであろう時期であり、一方で肥料設計をしてもらった農民達は特にその巡回指導を首を長くして待っていた時期であるはずだからでもある。それ故にこそ、賢治は〔澱った光の澱の底〕を昭和3年6月下旬に詠んだという『新校本年譜』の推定は妥当だと以前の私は納得もしていた。
ところがである、伊藤七雄に宛てたというこの年の〔七月初め〕の書簡(240)下書㈡に、
……こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・校異篇』(筑摩書房)>ということが書かれているということをある時知った。それまでは、当時眼を患っていたと賢治が言っていたことは知っていたのだが、「しばらくぼんやりして居りました」ということを全く知らずにいたので吃驚した。そしてもしそうであったとするならば、この下書の「しばらく」とか「やっと」という表現からしても、賢治が帰花直後の24日や25日にこの〔澱った光の澱の底〕を詠んだということはなかったと言えそうだ。このような「勢い」を帰花直後の賢治は持ち合わせていなかったであろうと判断できるからだ。これらの表現からは、帰花後の数日は何もせぬままに賢治はぼーっと過ごしていたという蓋然性が高い。しかも7月3日付書簡(239)には、
約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして
としたためていることから、約束でさえも後回しにしていることが知れるので、7月初め頃もまだ賢治のやる気はあまり起きていなかったと言えそうだから、賢治は「しばらくぼんやりして居りました」ということがこのことからも裏付けられそうだ。それはまた、賢治は、
さああしたからわたくしは
あの古い麦わらの帽子をかぶり
黄いろな木綿の寛衣をつけて
南は二子の沖積地から
飯豊 太田 湯口 宮の目
湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
…(投稿者略)…
みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
と詠んではいるものの、「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう」ということであれば、ざっと見積もってみても、賢治にとってはかなり無茶な行程となってしまうことからも裏付けられそうだ。あの古い麦わらの帽子をかぶり
黄いろな木綿の寛衣をつけて
南は二子の沖積地から
飯豊 太田 湯口 宮の目
湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
…(投稿者略)…
みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
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