みちのくの山野草

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当時の露の教え子から貴重な証言

2019-05-27 10:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
〈「白花露草」(平成28年8月24日撮影、下根子桜)〉

当時の露の教え子から貴重な証言
荒木 例えば?
鈴木 例えば、
 彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家もかりてあり、世帶道具もととのえてその家に迎え、いますぐにも結婚生活をはじめられるように、たのしく生活を設計していた。〈『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)89p〉
という記述がだ。それはもちろん、あのように崇敬の念を抱きながら亡き賢治を偲ぶ歌を詠むような女性が、このような厚かましいことをしたのだろうかという素朴な疑問が湧くからだ。
荒木 となれば鈴木のことだ、露が当時勤務していた小学校周辺をうろつき回ったわけだ。
鈴木 そして同時に、花巻市立図書館へ行って当時の露の勤務先、寶閑小学校のことも調べた。すると、同館では『寶閑小学校九一年』という記念誌のようなものを所蔵していたので、それを見せて貰って同校の所在地も確認出来た。
荒木 ということは、それまでは賢治関係者の間では同校の所在地が明らかになっていなかったのか。
鈴木 不思議なことにな。それは、勤務校のあった場所だけじゃないよ、露の生家でさえもどこにあったのか確定されていなかったんだ。
吉田 それを初めて公に明らかにしたのも鈴木なんだろう。
鈴木 うん、東京在住の下根子桜出身の方から頂いた資料、『花巻市文化財調査報告書第一集』(花巻市教育委員会)に載っていた「大正期の同心屋敷地割」という地図によって、たまたま明らかにできた。
荒木 ちなみに、それはどこなんだよ。
鈴木 それは賢治の詩、〔同心町の夜あけがた〕
   同心町の夜あけがた
   一列の淡い電燈
   春めいた浅葱いろしたもやのなかから
   ぼんやりけぶる東のそらの
   海泡石のこっちの方を
   馬をひいてわたくしにならび
   町をさしてあるきながら
   程吉はまた横眼でみる
    …(投稿者略)…
     向ふの坂の下り口で
     犬が三疋じゃれてゐる
     子供が一人ぽろっと出る
     あすこまで行けば
     あのこどもが
     わたくしのヒアシンスの花を
     呉れ呉れといって叫ぶのは
     いつもの朝の恒例である
       …(以下略)…
             <『校本全集第四巻』(筑摩書房)72p~より>
に出てくる、「向ふの坂の下り口」、つまり、向小路の北端は下り坂になっているわけだが、何と、このその「坂の下り口」に高瀬露の生家、高瀬大五郎の家が当時あったんだ
荒木 して、寶閑小学校の場所はどごさ。
鈴木 それは、現在の「山居公民館」の直ぐ近くだ。
荒木 それじゃ、生家から勤務校までの距離は相当あるな。当然、当時の交通事情からすれば通勤は無理だったということか。
鈴木 そこで私は、寶閑小学校はいわゆる鍋倉にあったわけだから、鍋倉に出向いた(平成24年11月1日)。
吉田 そして、その時に鎌田氏から得たのがあの新たな情報だったのだな。
鈴木 そう、露の当時の教え子の一人、鎌田豊佐氏に会うことが出来て、
 露先生は「西野中の高橋重太郎」方(「鍋倉ふれあい交流センター」の近く)に当時下宿していました。
ということを教わったんだ。
 そこで私は心の中でべんぶした。これはとても重要な意味を持つことになると私には思えたし、そもそも、当時露が下宿していたということは今まで世に知られていなかったからさ。
荒木 ところで、その「べんぶ」ってのは何だよ。
吉田 それは、鈴木がかつていたく感動した賢治の詩「和風は河谷いっぱいに吹く」の末尾に、
   素朴なむかしの神々のやうに
   べんぶしてもべんぶしても足りない

             <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)110p>
と詠まれた「べんぶ」のことで、漢字では「抃舞」、意味は
    手を打って舞うこと。喜びをあらわすさま。〈広辞苑〉
のことさ。
鈴木 今はもう、「和風は河谷いっぱいに吹く」にはそれほど感動しなくなったけどね。
 で、話を戻すと、同氏はかくしゃくとした方だったしユーモアもあって、開口一番、『歳を取ってしまって、左手に持っているのにそれが無いと思って右手が探すんです<*1>』と話す素敵なご老人だった。
 お伺いしたところによれば、鎌田氏は寶閑小学校に1年生~4年生までの4年間(大正12年~15年頃)通っていてその後転校したのだそうだが、その4年の間露先生に教わったと言っておられた<*2>。従って鎌田氏は、ちょうど露が賢治の許に出入りしていた頃の露の教え子となる。
 当時寶閑小学校は小規模校だったので複式学級、学校全体で3クラスしかなかったと鎌田氏は言い、小規模校ゆえ先生と児童との間の距離は極めて近かったようで、露先生のことをよく知っていた。しかもそれだけではなかった。当時鎌田氏のお家は20町~30町の田圃を有していたのだが、露の父高瀬大五郎にその田圃の測量をしてもらったり、絵図面を浄書してもらったりしたことがあったということで、父親同士も付き合いがあったということも教えてもらった。
荒木 その他には?
鈴木 鎌田さんの露先生評等だが、
・クリスチャンだった。
・露先生と賢治との関係や〈悪女伝説〉については当時は知らなかった。大人になってからそういうことを聞いた。
・露先生は素直なお方で、人が悪いなどとは感じられなかった。
・第三者的に見て良いとも悪いともいえないが、不美人でもなかった、普通に見えました。
(←鎌田さんは正直な方であるということを知ることができる)
ということなどだった。
吉田 ということは、当時の地理的関係を図示してみると下図のようになるということか。

         <当時のものと思われる『花巻(五万分の一地形図)』(地理調査所)より抜粋>
 ちなみに、寶閑小学校の場所が赤●で、ピンク色●が高瀬露の生家、青●が羅須地人協会の建物のあった場所だ。すると、地図上でざっと計測してみると、高瀬露の家と寶閑小学校間の距離は約7㎞もあるから、さっき荒木が言ったように、たしかに当時の交通事情からすれば通勤は難しかった。だから、下宿した。納得。

<*1:投稿者註> 上田哲の論文の中に『露さんは、「右の手の為す所左の手之知るべからず」というキリストの言葉を心深く体していたような地味で控えめな人だった』(「「宮沢賢治伝」の再検証㈡-〈悪女〉にされた高瀬露-」より)という一文があるのだが、この「右の手の為す所左の手之知るべからず」はクリスチャンの間ではしばしば引用されるものであるということで、もしかすると鎌田さんは小学校時代にクリスチャン高瀬露からそのような話しをしばしばされていて、それが今でも心に残っているということを暗示しているのかもしれない。
 ちなみに、このキリストの言葉の出処は、
    施しをするときは、右の手のすること左の手に知らせてはならない。(マタイ伝6章3節)
            <『新約聖書』(財団法人日本国際ギデオン協会)より>
のようだ。
<*2:投稿者註> 『寶閑小学校九一年』所収の「當校の先生」によれば、露が花巻で勤務していた学校は寶閑(ほうかん)小学校だけであり、その期間は大正12年10月~昭和7年3月の8年半だった。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
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 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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