《創られた賢治から愛すべき賢治に》
さて、どうやら賢治は大正15年度末(三月の末)に、少なくとも学校側に対しては突如辞職を申し出たと判断できそうだ。すると、当然生徒達には動揺が起こったであろう。そのことを示唆する生徒達の証言がある。まずは先に用いた柳原の証言の、その続きである。
卒業式が終わって私たちが二年生になるとき、何人かが中心になったと思いますが、鼬幣の稲荷さんの後ろの小高い所ある小さな神社の境内に集まって、宮沢先生退職反対のストライキ集会を開いたのでしたが、宮沢先生の知るところとなり「おれはお前たちにそんなことされたって残るわけでもないから、やめなさい」との一言で、それはまったく春の淡雪のように、何もなかったかのようにさらりと消えてしまいました。
<『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著)342p~より>あるいは、前掲書にはこれに続いて教え子の柏田政一の次のような証言も載っていた。
そのころなぜ先生が学校を辞められたのか、ということが全校生徒の一つの疑問となり、その理由をはっきり聞きたいという気持ちをみんなが持っておりました。先生がお辞めになった前後の私たち全校生徒の気持ちは、ちょうど明るい舞台から暗い奈落へ突き落とされた、あのへんなうっとおしい気持ちで、毎朝学校へ来るのが張り合いが抜けて実に困ったものでした。
そして、これらの生徒達の証言からは、賢治の農学校の辞め方が極めて不自然なものであったということが導かれそうだし、考えたくないことだが、もしかすると賢治は校長から無理矢理辞めさせられたということもあながち否定できなくなってくる。一方で、学校を出たら家へ帰って百姓をやれと賢治は生徒達には言っておきながら、自分は俸給生活者であることの矛盾に葛藤して、おれも百姓になるからおまえらもなってくれという強い態度を行動で示すために農学校を辞職したのであれば、そのような辞め方は賞嘆されこそすれ何ら恥じることではない。ところがそれを明らかなしなかったということは、「秘すれば花」とでも賢治は思ったのだろうか。とはいえ、もし賢治がそのように思っていて学校を辞めようとしたのであれば、少なくともその際にはあちこちに迷惑をかけないように、とりわけ生徒達には動揺が起こらないようにと心配りをしたはずだが、そのような配慮をした辞め方では実際はなかったようだ。
こうしてみると、唐突と思われる賢治の退職の仕方は腑に落ちないことが多すぎる。ということは、この不自然な賢治の退職には私などが窺い知れないような理由や原因があったということなのかもしれない。
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「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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お早うございます。
いつも大変有り難うございます。
ところでお問い合わせの「願いを出した日付」についですが、済みません、私はわかっておりません。
ご期待に沿えなくて申し訳ございません。
鈴木 守
わざわざご丁寧に有り難うございます。
自信はないのですが、私も非常に関心がある日付ですので、今後心に留めながら探索して参りたいと存じます。
鈴木 守