《創られた賢治から愛すべき賢治に》
以前ご案内したいたしました「私達の議論」は、今佳境に入りつつあります。
この「議論」の発端は、拙書
に対する、浜垣 誠司のブログ『宮澤賢治の詩の世界』掲載の「2013年10月 3日 賢治昭和2年上京説」における、
さて、鈴木さんの『羅須地人協会の真実』という本は、この沢里武治の(訂正前の)証言をほぼ唯一の根拠として、全体が「一本足で」立っている形なので、こうなるとその存立はやや危うい感じもしてきます。
というご批判に私が応えるという形のものです。私自身は拙書を御覧いただければおわかりいただけると思いますが、同書における私の仮説「♣」は
賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。
という仮説のことであり、その仮説「♣」は賢治の最愛の愛弟子2人の証言に基づいて定立したものであり、その仮説が検証の結果まずは妥当であるということを論証したつもりのものが同書です。したがって、「一本足」とはもちろん思っておらず、二人の教え子の証言の「二本足」で立っております。また、その検証結果については浜垣氏自身からも「鈴木さんの「賢治昭和2年上京説」は、なかなかはっきりとは否定しにくいというのが現状のようです。」と仰っていただいているところでもあります。
なお、お聞きするところによると、ツイッターにおいて拙書や私にたいするご批判もあるようですが、残念ながら私はツイッターをやっておりませんのでその詳細は分かりませんが、この「私達の議論」や「拙書」において私に間違いがありましたならば、いつでも潔く謝罪する覚悟でございます。
つきましては、今暫くこの議論は続くもの思われますのでどうぞご忌憚のないご意見をツイッターではなくて、こちらのコメント欄にお寄せいただければ幸甚です。
鈴木 守
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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