《『批評空間 Ⅱ 14』(太田出版)の表紙》
さて、先ほどまでの関井氏の主張を受けて今度は柄谷氏が、
國柱会のことはあまりにも明白であり隠しきれないので、多少は言及されます。しかし、すぐにそれを隠蔽する。そのために、今日では、テクスト論を使うというやり方がとられる。
〈『批評空間 Ⅱ 14』(太田出版)16p~〉と言っていた。私はハッとした、そうかもしかするとそのためにテクスト論が前面に押し出された可能性もあるのかと。
すると今度は関井氏が、
…投稿者略…(K氏の)この本がいけないのは作者=主体を消去していることです。賢治のテクストの可能性を、「賢治自身の言葉の扱い方」を問題にするならば、テクストを歴史的文脈のなかに一度おいてみるべきだと思いますね。テクストの内部だけで賢治のテクストを読んでも、未完成なものが多いから、読めないと思うんですよ。
〈同〉と批判していた。私などは「テクスト論」などと言われるとすぐに怖じ気づいてしまう。しかし、テクスト論者の石原千秋氏でさえも、「作品を読むとき、作者を無視していいと主張するわけではない」と言っていたことを知って私はホッとしたものだが、今度は関井氏が「テクストを歴史的文脈のなかに一度おいてみるべきだと思いますね」と指摘していることを私は知ってさらに安堵した。まして、賢治の作品にはたしかに「未完成なものが多いから」、関井氏のこの指摘は説得力がある。
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