みちのくの山野草

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この頃の賢治はどうやら心が折れていた

2023-03-21 12:00:00 | 「賢治年譜」一から出直しを
《オオタカネバラ》(2021年7月17日撮影、岩手)

 ところで、この時期6月は農家にとってまさに農繁期なのだから、農民のために献身したといわれている賢治であれば常識的には何もこの時期を選んで花巻を離れて上京せずともよかろうにと私は訝ってしまう。しかも、わざわざこの時期になんと伊豆大島くんだりまで出かけて行かなくともよかろうに、と。ところが、実際には賢治はそれをしていたのだから、伊藤七雄とこの時期に是非とも会わねばならなかったからだったという可能性のあることが逆に示唆される。
 したがって、もしこのときの上京が「逃避行」というのであれば、それは「現実からの逃避行」というのではなくて、実はもっと差し迫った「逃避行」であり、それは、この年10月に岩手で行われる「陸軍大演習」を前にして繰り広げられたという凄まじい「アカ狩り」に対処するためのもので、官憲の追求から逃れるためであったとか、はたまた、労農党の活動家でもあった伊藤七雄と賢治との関係を示す客観的な資料等を処分するためであったという可能性すらも否定できない(だからこそ逆に、周りはそれをカムフラージュするために賢治の「伊豆大島行き」はちゑとの見合いのためだったと強調したのかもしれないし、それが真相であったことを知っていたがゆえにちゑは賢治と結びつけられることを潔しとしなかったということだってあり得る。そもそも見合いは既に前年の10月に花巻で終えていたとほぼ断定出来るのだから、再度大島で見合いを行うということは常識的にはあり得ない)。
 それから、『新校本年譜』によれば、賢治は後に(昭和5年4月以降)しばし毎日のようにいろいろな花についてもメモを残しているようだから、賢治はこのときの上京を境に、あるいは切っ掛けとして新しい企て、「園芸事業」に乗り出すことを思い付いたという可能性があるのではなかろうか。つまり、昭和3年の6月頃になると賢治はもはや、下根子桜で従前のような活動をする困難さを覚り、新しい道に進むことを模索し始めたということはなかろうか。それは、土岐 泰氏の論文「賢治の『MEMO FLORA手帳』解析」〈『弘前・宮沢賢治研究会誌 第8号』(宮城一男編集、弘前・宮沢賢治研究会)所収〉の最後の方で、
 このように見てくると、「MEMO FLORA手帳」は、帰花後の園芸活動に役立てるためにわざわざ用意した一冊の手帳に、かねてより考えていた園芸植物についての新しい情報を書き込み、さらに、図書館で発見した夢あふれる花の装飾についての新情報を書き加えた実用のための手帳であったと考えてよいのではないだろうか。
             〈『弘前・宮沢賢治研究会誌第8号』(宮城一男編集、 弘前・宮沢賢治研究会)、97p〉
という見方を述べているが、この見方はその「模索し始めた」ことを裏付けてくれていると私は思えてしまうからでもある。
 言い換えれば、この頃の賢治はもはや〝地人〟からはほど遠い状態になってしまっていたとも言えそうな気がしてくる。それは、帰花後の賢治は伊藤七雄あて書簡(240)の下書(一)の中で
 こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。
            <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>
と書いてあったということを知ればなおさらにそんな気がしてしまう。私の抱いていた賢治のイメージからすれば、帰花したならばそれまでの農繁期の「約三週間ほど」の故郷の留守<*1>を近隣の農民たちに侘び、それこそ彼らのために「徹宵東奔西走」するとばかりに思っていたのだがそんなことではなくて、「しばらくぼんやりして居りました」というからである。したがって、どうやら、
   この頃の賢治は、下根子桜の生活に心も体もそろそろ「折れ」始めていたのかもしれない。
ということを、昭和3年6月の農繁期でもある「約三週間ほど」の滞京が教えてくれる。
 そして一方で、賢治の詩〔澱った光の澱の底〕について、『新校本年譜』等は「六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕> 」と推定しているから、帰花直後に賢治は「南は二子の沖積地から/飯豊 太田 湯口 宮の目/湯本と好地 八幡 矢沢とまはって」大車輪で稲作指導にかけずり回っていたと受け止めている読者等も多いようだが、こんなことがほぼできないことは実際に移動距離を調べてみれば容易にわかる
 そして賢治自身も、「南は二子の沖積地から/飯豊 太田 湯口 宮の目/湯本と好地 八幡 矢沢とまはった」とは詠んでいない。あくまでも「南は二子の沖積地から/飯豊 太田 湯口 宮の目/湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう」であり「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう」と予定をあるいは「あした」の意気込みを単に詠んでいるに過ぎない。
 もともと詩には非可逆性があるのだから単純に還元できないが、この〔澱った光の澱の底〕については還元以前の問題である。しかも、「六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕>」という推定そのものもかなり危うい。私の検証によれば、当時の『阿部晁 家政日誌』等に従って7月5日頃と推定する方が遥かに妥当だからである

 どうやら、この頃の賢治は心が折れていたようだ。

<*1:投稿者注> 昭和3年7月3日付菊池信一宛書簡(239)の中に、
  約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。
            <『校本 宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>
とある。

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