みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

『イーハトーヴォ 第三号・四号』(昭和15年1月・2月)

2021-12-22 14:00:00 | 一から出直す
《三輪の白い片栗(種山高原、令和3年4月27日撮影)》
 白い片栗はまるで、賢治、露、そして岩田純蔵先生の三人に見えた。
 そして、「曲学阿世の徒にだけはなるな」と檄を飛ばされた気がした。


 では今回は『イーハトーヴォ』(宮澤賢治の会)の第三号(昭和15年1月21日)と第四号(昭和15年2月21日)についてだ。
 これらの中で幾ばく気になった事柄を幾つか次に取り上げてみる。

・『イーハトーヴォ』(宮澤賢治の会)の第三号には、森荘已池の「宮澤賢治と職業」が載っていて、賢治は、
 人の苦しいことをきくと丸椅子を賣って某氏の醫療費を支拂つてやり、又家人にしれないやうに腕時計を脫づしてこつそり賣らせ某氏の困苦を救つたり、かういふ樣な例が澤山あるのです。
ということを森は述べていたからだ。どういうことかというと、「賣らせ」ということに違和感を感じたからだ。もう少し説明を付け加えれば、羅須地人協会時代の賢治は白鳥省吾との面会のドタキャンの際に自分が行かずに千葉恭をして「謝絶」をさせたり、高級蓄音機を売却する際も自分は行かずに、千葉をして売りに行かせたと言えるからだ。どうも、賢治は面倒くさいことを他人にさせがち……。

 また、一ノ倉則文の「關さんと宮澤さん」においては、
 宮澤さんが病床にあつた頃、もう一度先生が花巻温泉に來られて温泉で關先生にお會した時、「宮澤君も病氣なそうだ。一度見舞つてやりたいが、今度は行けぬから君から宜しく傳えて呉。」とのお話であつた。そして先生は東京に歸られた。
 宮澤さんのなくなられたのは其後幾日も經たない日である。
という証言があったが、これは以前の投稿〝『宮澤賢治研究』(十字屋版、昭和14年9月)関豊太郎〟における関の証言の正しさを裏付けてくれそうだからだ。

・一方、『イーハトーヴォ』(宮澤賢治の会)の第四号(昭和15年2月21日)には、伊藤克巳の「詩碑通信」(其の一)が載っていて、
 階下は八疊と十疊の二間になつてゐて、…投稿者略…十畳の方は地人協會の教室となり、オルガンや椅子や小さな机などが置かれた處です。
とあった。これで、羅須地人協会の建物の一階にオルガンはおいてあったということはまず間違いはなさそうだ。
 それから、 「一月賢治の会」の報告欄では、「江別賢治の會発會」の報告も載っていて、
 二月十一日午後七時、皇紀二千六百年のこの佳日を卜して江別白雲荘にて賢治の会を催す。參集せる會衆四十餘名…投稿者略…「人間的完成者宮澤賢治」と題し小田邦雄氏一時間半に渉って熱弁をふるふ。
ということなどが紹介されていた。この時期にして、遠く北海道の江別でも「賢治の会」が発足し、しかも四十名余も集まったということにまず驚く。と共に、この「小田邦雄」の名前を知って、もしかするとと思った。それは以前小田の著書『宮澤賢治覚え書』を読んだとき、その奥付に
小田邦雄
詩人
日本文学報国会会員
大政翼賛会北海道支部主事
とあったことを思いだしたからだ。それは、「皇紀二千六百年のこの佳日を卜して」という表現からも感じたのだが、どうやら、小田はもしかすると賢治を国策に利用しようと思っていたのではなかろうかと。そう思いついたなら、「人間的完成者宮澤賢治」という演題もそのことを示唆しているのではなかろうかということにも気づいた。大政翼賛会の発足も昭和15年、この第四号の発行も昭和15年だからなおさらにだ。 

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【新刊『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))の表紙】

【キャッチコピー】 

【目次】

【序章 門外漢で非専門家ですが】


【終章】



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