みちのくの山野草

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2913 高瀬露?宛書簡反古(#1)

2012-09-26 08:00:00 | 賢治渉猟
「書簡の反古」より
 さて、くだんの『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版)の中には「書簡の反古」という章があり、次のような書簡下書4通が掲載されている。
(1)
(原稿紙に鉛筆)
 お手紙拜見いたしました。仰ること一一ご尤もです。獨身といふことは主義にはなりません。もつともゴム靴主義だとかパン食主義だとか
(2)
(原稿紙に鉛筆)
 お手紙拜見、一一ご尤です。まことの道は一つで、そこを正しく進むものはその道(法)自身です。みんないつしよにまことの道を行くときはそこには一つの大きな道があるばかりです。しかもその中でめいめいがめいめいの個性によつて明るく樂しくその道を表現することを拒みません。生きた菩薩におなりなさい。獨身結婚は便宜の間題です。一生や二生でこの事はできません。さればこそ信ずるものはどこまでも一諸に進まなければなりません。手紙も書かず話もしない、それでも一諸に進んでゐるのだといふ強さでなければ情ない次第になります。なぜならさういふことは顔へ縞ができても變り脚が片方になっても變り厭きても變りもつと面白いこと美しいことができても變りそれから死ねばできなくなり牢へ入ればできなくなり病氣でも出來なくなり、ははは、世間の手前でも出來なくなるです。大いにしつかり運命をご開拓なさいまし。
(3)
(原稿紙に鉛筆)
 手紙拜見いたしました。法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます。そのうち私もすつかり治つて物もはきはき言へるやうになりましたらお目にかゝります。
 根子では私は農業わづかばかりの技術や藝術で村が明るくなるかどうかやつて見て半途で自分が倒れた譯ですがこんどは場所と方法を全く變へてもう一度やつてみたいと思つて居ります。けれども左の肺にはさつぱり息が入りませんしいつまでもうちの世話にばかりなつても居られませんからまことに困つて居ります。
 私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから。尚全恢の上。
(4)
(原稿紙に鉛筆)
 で只今としては全く途方にくれてゐる次第です。たゞひとつどうしても棄てられない問題はたとへば宇宙意志といふやうなものがあつてあらゆる生物をほんたうの幸福に齎したいと考へてゐるものかそれとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科學とのいづれによつて行くべきかといふ場合私はどうしても前者だといふのです。すなはち宇宙には實に多くの意識の段階がありその最終のものはあらゆる迷誤をはなれてあらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめやうとしてゐるといふまあ中學生の考へるやうな點です。ところがそれをどう表現しそれにどう動いて行つたらいゝかはまだ私にはわかりません。そこであなたがわたくしの主義のやうにお働きになるといつてもわたくしはまああなたの最善の御考の通り
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版)99p~より>
森荘已池の解説に関する疑問
 そして、同書所収の「全集六巻並に別巻解説」の中で、森荘已池はこれらの書簡に関して次のように解説している。
   書簡の反古に就て
 書簡の反古のうち、冒頭の數通は一人の女性に宛てたものであり…(略)…反古に非ざる書簡は、二人の女性とも手元に無いと言明してをりますが、眞偽のほどは、いまは解りかねます。…(略)…
 ――これら反古の手紙の宛名の人は、全部解るのでありますが、そのままにして置きました。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版)附録72p~より>
 つまり、森荘已池はこれら(1)~(4)書簡の反古はこの時点(=昭和18年2月28日=『十字屋版宮澤賢治全集』初版発行日)で既に高瀬露宛(高瀬露の名こそ顕わに出してはいないもののそのことは自明)書簡の反古であることを確認できていて、その〝反古に非らざる書簡〟は高瀬露の手元にはないと本人から言われたと語っていることになる。
 しかしこの解説で森荘已池は「反古の手紙の宛名は全部解るのですが」と言っていながら、これら(1)~(4)の宛名を高瀬露だと彼は何故明らかにしなかったのだろうか(なお後述する予定だが、森荘已池は自分宛の書簡下書であることがほぼ明らかなはずの一通の書簡下書に関しても、ここでは明らかにしていないという不自然な処理をしている)。このような下書の内容ならばそこに高瀬露が<悪女>だと誹られることは何一つ書かれていない訳だし敢えて彼女の名を伏せる理由もなかっただろうに(かえって、賢治の方が「ははは、世間の手前でも出來なくなるです。大いにしつかり運命をご開拓なさいまし」等という書き方をしているゆえに眉を顰められる虞はあるにしても)。ということは何かそれを妨げる理由でもあったというのだろうか。たとえば、これらは高瀬露宛の書簡下書だと森荘已池が明言すれば、『クリスチャンの高瀬露が「法華をご信仰なさうですが」等と言われるはずがないじゃないか』と周りから反論されるであろうことを恐れでもしたのだろうか。
森荘已池の証言の信憑性
 では次に、これらの下書(1)~(4)が『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房、昭和49年12月)においてはそれぞれどれに当たるかということを調べてみると、
(1)=〝不6〟〔日付 あて先不明〕下書の〝下書(九)〟
(2)=〝不6〟〔日付 あて先不明〕下書       
(3)=〝不5〟〔日付 あて先不明〕下書       
(4)=〝不4〟〔日付 あて先不明〕下書 
となっている。
 そして同書の707pに記載されている〝不5〟の《備考》には次のようなことが付記されている。
 あて先は、法華信仰をしている人、花巻近辺で羅須地人協会を知っていた人、さらに調子から教え子あるいは農民の誰か、というあたりまでしかわからない。高橋慶吾などが考えられるが、断定はできない。
と。
 ということは、昭和18年当時ならば〝(3)〟は高瀬露宛ということになっていたのだが、その後時代が下って昭和49年頃になるとそうではなくて「教え子あるいは農民の誰か」宛であろうということになったのだろうか。もしそうであるとするならば、『校本宮澤賢治全集第十三巻』を編修した際にこれらの書簡に関して森荘已池は相談を受けたり、編修にタッチしたりはしなかったのだろうか。それとも逆に、『校本宮澤賢治全集第十三巻』を編集する際に、森荘已池の解説の中の「これら反古の手紙の宛名の人は、全部解るのであります」については否定されたのだろうか。
 そういえば、上田哲は次のように述べていたことを思い出した。
 森は彼女に逢ったのは、<一九二八年の秋の日><下根子を訪ねた>その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった。その後一度もあっていないことは直接わたしは、同氏から聞いている。
<『七尾論叢 第11号』(1996年12月、吉田信一編集、七尾短期大学発行)より>
ということを。まして、この〝初めの最後〟とは森荘已池本人が述べているように、農道でただすれ違っただけである。その際に話などは一切交わしていないのである。さすれば、上田哲が言っていることが嘘とは思えないだけに、一体森荘已池はどのような方途でこれらの(1)~(4)の書簡下書が高瀬露宛のものであるという確証を得たのだろうか。あげく、「二人の女性とも手元に無いと言明してをりますが」と述べた後で「眞偽のほどは、いまは解りかねます」と一言書き添えることによってその責任を女性の方に預けてしまっている行為もはたして如何なものだろうか。

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