みちのくの山野草

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『新校本年譜』は何故一次情報に立ち返らなかったのだろうか

2024-08-08 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)

 という次第で、賢治研究の専門家でもない理系のはしくれの私でさえも、少し調べただけで、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』の「訂正」は破綻を来していること、逆に、あのような「訂正」などせずに沢里武治氏聞書における沢里の証言に従えば、すんなりと当て嵌まる三か月間があることなどが分かった。
 言い換えれば、『新校本年譜』のあの註釈、
*65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
における「訂正」は余りにも杜撰だということであり、大正15年の12月2日の「賢治年譜」の「現定説❎」、
『セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。』…………❎
はその典拠が不確かであるということである。

 それにしても、『新校本年譜』は何故こんな杜撰な「訂正」をしてしまったのだろうか。そこでそのことを私なりに考えてみたところ、それは、石井洋二郎氏の鳴らすあの、
  あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、
という警鐘を『新校本年譜』は蔑ろにしているせいだと私には思えた。

 その点、私は菲才だから基本に則るしかないので、「関『随聞』二一五頁」の一次情報は何かということを時代を遡ってまず探してみた。つまり、『賢治随聞』(角川書店、昭和45年2月20日発行)における、「澤里武治氏聞書」に相当するものを、時代を遡って並べてみると、
 
⑴ 「沢里武治氏聞書」(『賢治随聞』角川書店、昭和45年2月20日発行)215p~)
⑵ 「澤里武治氏からきいた話」(『宮沢賢治物語』岩手日報社、昭和32年8月20日発行)217p~)
⑶ 「セロ㈠、㈡」(『宮澤賢治物語』(『岩手日報』昭和31年2月22日~23日連載)
⑷ 「澤里武治氏聞書」(『續 宮澤賢治素描』眞日本社、昭和23年2月5日発行)60p~)

となった。よって、「沢里武治氏聞書」の初出は『續 宮澤賢治素描』においてであり、この〝⑷「澤里武治氏聞書」〟が一次情報だったのだ。

 そしてそれは、具体的には次のような内容の証言だ。
   澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三か月は滯京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花卷驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…略…滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三か月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
〈『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)60p~〉
 従って、一次情報であるこの〝⑷「澤里武治氏聞書」〟を典拠にすれば、

 みぞれの降る、昭和2年の11月頃の寒い日、セロを持ち上京するため花卷駅へゆく。教え子の澤里武治がひとり見送る。「澤里君、セロを持って上京して来る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三か月は滯京する。…略…とにかく俺は、やる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」と言い、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが澤里は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。そして、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ、帰郷なさいました。

ということ、いわば、「賢治昭和二年上京説」が導かれる。言い換えれば、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に沢里武治一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその無理が祟って病気となり、昭和3年1月に帰花した。………♣
という仮説が定立出来ることが分かるし、その反例は見つからないからこの「仮説♣」は、今後反例が見つからない限りはという限定付きの、歴史的事実となってゆく。
 ちなみに、以前に投稿した〝『賢治年譜』空白の三か月〟における《表2 賢治の動静(大正15年12月1日~昭和2年3月13日)》、

では、 
    昭和2年11月4日~昭和3年2月8日の間の約三か月間、賢治はまるで透明人間になっている。
と言えるから、
    この、空白の約三か月間、賢治は一体何をやっていたのだろうか。
という疑問が湧いていたのだが、その答が何であるかも教えてもらえた。

 まさにこの「空白の約三か月間」こそが、「先生は三か月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました」というそれだったのだ。 

 それにしても、『新校本年譜』は何故一次情報に立ち返らなかっただろうか。そうすることは基本中の基本だろうに。しかし、『新校本年譜』はそれも為さず、いわば四次情報とも言える 「沢里武治氏聞書」を「典拠」とし、しかも他人の証言を根拠も示さずにあの奇妙な「訂正」をしているのである。どうやら、そこには構造的な問題が潜んでいそうだ。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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